閃光の向こう【第弍話】
朝、街はいつもより静かだった。
人々は歩いているが、いつものざわめきが薄く、空気が厚い膜のように感じられた。
僕は昨日拾った白布を懐に押し込み、駅前の交差点をゆっくりと渡った。
胸のどこかが、まだ震えている。
小さな親切をした。交差点で足を滑らせた老女の手を取り、腕を支えたのだ。
古い手袋の布地に触れて、僕は自分が生きていることを確かめた。
老女は何も言わず、ただ僕の目を見てほほえんだ。
その一瞬、世界の重さが少しだけ軽くなったように思えた。
だがその直後だった。
空が一瞬、白く裂けた。
音は遅れて来て、胸の中へ鈍く届いた。
地面が一度だけ波打ち、遠い方角でビルのガラスがきしむ。
見上げると、地平線の上に異様な光が上がっている。
誰かが大声を上げたが、声は風に飲まれてしまった。
歩いていた人々が立ち止まり、空を指差す。
テレビ塔や工場の方向ではなく、もっと遠く、海の向こうかもしれない。
光は瞬く間に膨れ、白と金を混ぜた閃光となり、やがて暗い縦の柱を形づくった。
僕は立ち尽くしたまま、胸のポケットに手を入れた。
白布が熱く、掌に湿り気が広がっている。
鼻先に、鉄のような匂いがかすかにする。
目を擦ると、視界が霞み、まぶたの内側に赤い斑点が残った。
息が詰まる。喉の奥が焼けるように痛い。
胃の底から何かが逆流し、胸の中が重く膨らんだ。
足の力が抜け、膝を折りそうになる。
皮膚の下を針のような痛みが走り、指先がじんじんと痺れる。
世界が遠ざかる。音も色も薄れ、ただ脈だけが耳の奥で響いていた。
老女はまだ僕の腕に寄りかかっている。
彼女の掌を握り返すと、指先の冷たさが現実を取り戻させた。
「大丈夫かね」と僕は自然に言葉を漏らす。
老女は何も答えず、ただゆっくりと首を振った。
遠方の光は膨張し、やがて雲のような影が昇った。
それは形のある雲ではなく、世界の輪郭を引き裂く黒い蓋のように見えた。
人々の顔がその黒い縁に映り、誰もが茫然自失している。
僕は布をぎゅっと握りしめた。
内側で何かが鼓動している。
それは言葉のようでもあり、機械のようでもある。
胸の奥で、遠い記憶のように繰り返す。
――始まったのだ。
そのとき、誰かが叫んだ。
「遠隔地で大規模な爆発が確認された。規模は不明、当局が調査中」——放送の言葉は断片となって耳に入った。
僕は言葉を飲み込み、ゆっくりと息を吐いた。
眼前の風景は変わった。世界は以前と同じではない。
けれど僕は、すぐにはそれが何を意味するのか言えなかった。
ただ確かなのは、僕の内側に小さな火種が残ったことだ。
熱の名残が、血の奥で小さく膨らんでいる。
僕は老女を安全な場所へと導きながら、自分の体調を気にした。
頭の芯に鈍い痛みが走り、舌の奥に金属の味が広がる。
目の焦点が合わず、遠くの光が二重に見える。
それでも歩いた。人々が群れをなし始めるその中で、
誰とも共有できない、奇妙な孤独が体を這った。
そして僕は、あの五文字をまた心の中で囁いた。
ポコチン回天剣舞六連。




