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見張りの影【第拾話】

ポコチンに白布を結んだ夜の手触りが、まだ指に残っている。薄曇りの天、路地は朝の湿りを底に沈め、家々の戸口からは遅い湯気が細く流れた。

 角を曲がると、黒い車がいた。エンジンは落としてあるのに、金属だけが風を吸っている。窓の内側は映り、外は映らない。

 胸の奥で輪が小さく鳴った。不安が上がる前に、椅子を置く——壱で据え、弐で往復、参で余計を払って留める。ここは試されどころだ、と分かった。


 蓮は立ち止まらず、歩幅を半分に縮めた。足裏の砂が指の間でささやく。呼吸は一本、骨の中の空洞へ落とす。視線は上げず、しかし逃げない。

 車の影がわずかに揺れ、扉の金具が陽を拾った。粗い視線は粗い輪を呼ぶ——由比の言葉が過る。こちらは細くいく。細い輪は、世界に取り落とされる。


 壱を起こし、弐で撥ねて戻す。参で払う。その復路のきわで、輪の縁をほんの少しだけ捻る——肆の手前。空気の目が一つ、ぱちりと開いて、路地の狭さが半歩だけ広がった。

 歩道の先で、乳母車を押す若い母親がこちらをうかがっている。彼女の進路と、黒い車の視線が交わるところに、見えぬ段差があった。蓮は輪の戻りを深め、段差の椅子をそっと片づける。母親はそのまま、何も知らぬ顔で通り過ぎた。


 窓の奥で、誰かがペン先を動かした気配がした。記す者は、記すことにく。急けば粗くなる。粗さは粗さを招く。

 蓮は輪をさらに細く畳み、胸の椅子を低く据え直す。ここで昂れば、こちらが舞台に上がってしまう。いや、きょうは上がらぬ。暮らしの側に立つのだ。

 名を心の底で一度だけ呼ぶ——ポコチン回天剣舞六連。名は輪の外周を勝手に広げず、必要な大きさにだけ灯をともす“儀礼”である。


 黒い車は、動かない。動かないなら、それでよい。動かなさをこちらの動機にしない。蓮は路地の影を踏み、電線の下をくぐり、歩きながら壱・弐・参の配列を胸で反芻した。

 不意に、背後でドアが半寸だけ鳴った。呼び止めるでもなく、見送るでもない音。輪は崩れない。蓮は振り返らず、ただ復路をもう一つだけ重ねる。重ねた復路の奥で、不安が席を立ち、出口へ歩くのが分かった。


 通り雨が一しきり、白い糸のように降って、すぐ止んだ。濡れた石畳に、猫の足跡が三つ並ぶ。

 由比堂の角まで来ると、戸口に新しい張り紙が一枚あった。古紙に刷られた古い活字——「静粛」。誰が貼ったのかは知らない。だが、輪はそれを争いの理由にしない。

 蓮は張り紙の前で足を止めず、胸の椅子をしまい直した。輪は出しっぱなしにしない。出しっぱなしの輪は、いずれ粗くなる。畳むことも、護りの一部だ。


 黒い車は、いつの間にか角の向こうに消えた。風が一度だけ、旗のないポコチンを鳴らした。

 動機ははっきりしている。誰かの日常を守るため、回す。

 今日の行いは、監視の視線を細い輪で受け流し、他人の安全の通り道をつくることだった。

 不安は、緊張へ、そして覚悟へ移った。覚悟は声ではない。歩幅で、呼吸で、輪の畳み方で見えるものだ。

 蓮は軽く息を吐き、戸を押した。静粛の活字は背中で揺れ、路地の奥で小さく音をなくした。

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