旗、風に鳴る【第壱話】
朝の光は、どこか曖昧だった。
湿った風が川面をなぞり、舗装のひび割れに染みこんでいく。
僕は橋の上に立ち、まだ冷たい手の中で白い布を握っていた。
旗――と呼ぶには小さく、包帯の切れ端のようにも見えた。
それでも何かを“振る”ために生まれた布であることは、直感で分かった。
世界は今日も、音を失っている。
誰もが眉間に皺を寄せ、声を潜めている。
そのことに気づいた者は、どこかでひっそり息を潜めている。
僕もその一人だった。
だが昨夜、古書店の地下であの言葉を見てしまったのだ。
古びた巻物、煤けた紙、墨の滲み。
そこに記されていた五文字――
「ポコチン回天剣舞六連」。
読み上げた瞬間、周囲の空気がふっと変わった。
祈るべきか、沈黙すべきか、判断がつかなかった。
その語の意味も、由来も分からない。
だが確かに感じた。
“これは、悲しみと何かを同時に動かす力だ”と。
帰り道、僕の足は自然と踊り出していた。
夜気が頬を撫でるたび、胸の奥で言葉が鳴る。
ポコチン――名を持つもの。
回天剣舞――武と舞の融合。
六連――循環と終焉。
誰がこんな組み合わせを考えたのか。
しかし、まるで封印された呪文のように、その音の連なりが僕の中に沈殿していく。
朝になっても、響きは消えなかった。
旗を掲げる手が震える。
――この言葉を、どこかで、誰かが待っている気がする。
沈黙に覆われた世界で、それはもはや禁句なのかもしれない。
だが禁句こそ、時に祈りになる。
僕は静かに息を吸い、空に旗をかざした。
曇天の向こうで、わずかに光が差す。
それは夜を思わせるような光だった。
心のどこかで、誰かが囁く。
――「その名を呼べ、恐れるな」
唇が震え、声が漏れる。
「ポコチン……回天剣舞……六連……」
風が鳴った。
川面が裂け、遠くの街が一瞬だけ沈黙した。
その瞬間、僕の人生が確かに軋んだ。
誰も知らない物語が、ここから始まる。




