(番外編2)グレさんと冬の子猫
この町の冬は、風の匂いがしょっぱい。
海が近いからだ。
朝、目を覚ますと、鼻先が冷たくなってる。
だからオレはいつも、日の当たる側の屋根の上で体を丸めて眠る。
灰色の毛皮も、冬じゃあまり役に立たない。
毛布の代わりに太陽を使う、それが野良猫の知恵だ。
その日は、いつもより寒かった。
空気が固まってるような朝。
ゴミ置き場の横を通りかかると、かすかな鳴き声がした。
「……ミィ」
オレは耳をぴくりと動かした。
「おいおい、まさかとは思うが」
袋の隙間を覗くと、そこにいた。
白い毛玉みたいな子猫。
鼻水を垂らしながら、震えていた。
「こりゃ、ひでえな」
誰かが捨てたんだ。
それも寒空の下に。
怒る気にもなれねえ。
世の中ってやつは、そういうものだと、とっくに知ってる。
オレは子猫をくわえて、宗方動物病院の裏口へ行った。
『先生、いるか?』
鳴き声を混ぜて呼ぶと、扉が開く。
宗方紬が、白衣のまま顔を出した。
「あら、グレさん。どうしたの?」
『拾ったんだよ。ほら、これ』
先生はすぐに事情を察したようだった。
「うわ……小さいね。まだ一か月も経ってないかも」
子猫は彼女の掌の上で小さく鳴いた。
「……ミィ」
「大丈夫。あったかいとこ、行こうね」
オレはそのまま後ろをついて中へ入る。
ストーブの匂いがする。
診察台の上で先生が子猫を拭いてやる姿を見て、
胸の奥がきゅっとなった。
夜。
オレは窓の外から、その子を見ていた。
箱の中で眠っている。
毛布にくるまれて、ぬくぬくと。
ストーブの音が、トトト、と鳴っている。
あれだ。
幸せってやつだ。
人間も猫も、結局はあれを探してるんだろう。
オレには、少し眩しすぎる光景だった。
数日後。
子猫はすっかり元気になって、
診察室の隅で先生の足元をちょろちょろしていた。
「グレさん、この子、元気になったよ」
『そうかい。そいつは何よりだ』
「名前、どうしようかと思って」
『勝手につけろよ。オレに相談すんな』
先生は笑って、「じゃあ“シロ”にしようかな」と言った。
安直だが、まあ、悪くはない。
それに、あいつには似合ってた。
小さな白い塊が、尻尾を立ててオレの足にすり寄ってきた。
「ミィ!」
「こら、くすぐったい!」
……まったく。
世話の焼けるガキだ。
やがて、春の気配が町に降りてきた。
風が柔らかくなり、梅の匂いが漂う頃。
ある朝、オレがいつものように病院の裏に行くと、
先生が箱を抱えて立っていた。
「グレさん、聞いて」
『なんだ?』
「この子、もらわれていくの。優しいご夫婦が見つかって」
箱の中では、シロが丸い目でこっちを見ていた。
「ミィ」
『……そうか。よかったじゃねえか』
先生はにっこり笑った。
「グレさん、ありがとうね。あなたが連れてきてくれなかったら、きっと──」
『やめろよ。柄にもねえこと言うな』
そう言いながら、オレは顔を背けた。
鼻の奥がつんとした。
冷たい風のせいにしておく。
トラックが発車して、箱が遠ざかる。
シロが窓から身を乗り出して、鳴いた。
「ミィーー!」
オレは小さく鳴き返した。
「にゃー」
それが別れの言葉だった。
トラックが角を曲がって見えなくなる。
空はやけに明るく、
オレの影が長く伸びていた。
『ま、いいさ。生きてりゃ、出会いも別れも、だいたいセットだ』
そう呟いて、屋根の上に飛び乗る。
町の風が少しだけぬるかった。
春が、ほんの少し顔を出したのかもしれない。
その夜。
宗方先生が外に出てきて、小さく言った。
「おやすみ、グレさん」
オレは欠伸をして、尻尾を体に巻きつけた。
『おう。おやすみ』
空を見上げると、星がひとつだけ、白く瞬いていた。
なんとなく、あの小さなシロの目みたいだった。




