(番外編1)ボス猫グレさんの一日
名前はグレ。
誰がつけたか知らないが、まあ、悪くない。毛の色にしても、性格にしても、だいたいグレーって言葉が似合うんだ。
黒でも白でもない。陽だまりの中でも、陰の中でも、どっちつかずに転がってる猫。それがオレ。
朝。
ゴミ置き場のパンくずをちょっと失敬して、口をもぐもぐさせながら背伸びをする。
通りの向こうでは、魚屋のオヤジが氷を撒いている。
チリチリと凍るような音が、冬の朝の静けさに似合ってる。
──あいつ、魚屋のくせに出すのはほとんど野菜だ。キャベツの芯、ジャガイモの皮……。
ふん。パンのほうがまだマシだ。
そう独りごちて、オレは尻尾をゆっくり振った。
その瞬間、背後から聞こえた声。
「おはよう、グレさん」
宗方紬──あの獣医師だ。
こいつは人間にしては珍しく、猫語がちょっとわかる。
だから油断ならねえ。下手に考えごとをしてると、すぐバレる。
「今日も元気そうね」
「まあな」とオレは鳴くふりをした。
──『腹減ってんだよ、ちょっと何かくれよ』
「ちょっと待ってて、ツナ缶あるから」
ほらな。通じてやがる。
缶詰をもらって、病院の裏手のベンチで朝飯。
ああ、ツナってのはどうしてこう、人間くさい味がするんだろうな。
海の魚なのに、妙に都会の匂いがする。
食べながら、オレは周りを眺める。
クロ──あのカラスが電線の上で騒いでる。
「おい、グレ! また飯もらってんのか!」
──『うるせえ、たまには黙ってろ。』
「お前、野良のプライドはどうした」
「腹の足しにゃならんプライドなんざ、雪と一緒に溶けるさ」
クロがケラケラ笑う。
人間でも鳥でも、笑い声ってのは案外似てる。ちょっと羨ましい気もする。
昼。
病院の前で、子どもたちが「グレちゃーん!」と呼ぶ。
仕方ねえ、愛想くらいは振りまいてやるか。
尻尾をピンと立てて歩くと、「かわいい〜!」と歓声が上がる。
──『ほんと、単純な生き物だな。』
でも悪くない。
オレが歩くだけで、誰かが笑う。それならそれで、役に立ってる気がする。
そのうち、宗方先生が出てきた。
「グレさん、さっきのお礼。フィラリア薬の試供品あるけど舐める?」
「誰が好き好んで薬なんか舐めるか!」
と言ってやったつもりだが、気づいたら舐めてた。
甘い味だった。ちょっと腹立たしい。
午後。
空が白くなり始めると、オレは決まって屋根の上に行く。
そこから病院の中を覗くのが日課だ。
今日の診察室では、先生が小さな犬を抱えている。
尻尾を振るのがやっとの老犬だ。
──『もう少しだけ頑張ろうね』
そう言う先生の声が、ガラス越しにやわらかく響いてくる。
見てると、胸がちょっとだけ詰まる。
オレは人間の言葉が完全にわかるわけじゃない。
けど、あの声だけは分かる。
“この世界には、まだ優しさってやつが残ってる”っていう、あの感じ。
夕暮れ。
クロがまた現れた。
「よぉ、グレ。今日も生き延びたな」
「当たり前だ。オレは九つ命がある」
「今、いくつ残ってる?」
「さあな。たぶん三つか四つか。計算しても減るもんじゃねえ」
二人で屋根の上から町を見下ろす。
商店街の明かりがぽつぽつ灯り、どこかの家の夕飯の匂いが風に乗る。
人間たちは忙しそうだ。
それでも、この町は悪くない。
オレみたいなノラにも、飯と寝床と名前がある。
それだけで、たいしたもんだ。
夜。
病院の裏口の明かりが消える。
先生は帰る前、いつも小声でこう言う。
「おやすみ、グレさん」
その声が闇に沈んでいくのを聞きながら、オレは目を細める。
星は少ない。風は冷たい。
でも、胸のどこかがじんわりと温かい。
「……悪くない一日だったな」
と呟いて、尻尾を体に巻きつける。
まぶたを閉じる瞬間、遠くでクロの鳴き声が聞こえた。
──『おやすみ、グレーのやつ! 明日も腹いっぱい食えよ!』
「うるせえ」と答えたけれど、
本当はちょっとだけ、うれしかった。




