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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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カルテ7、東雲烏と酔っ払い



 朝がまだ夜のふりをしている時間。

 空気が冷たく、白く、音という音がどこかに隠れてしまったみたいな早朝。


 カラスのクロは、いつもの餌場に向かっていた。

 裏通りのゴミ置き場。

 昨日のパン屋の袋や、弁当の残りが捨てられる、カラスたちにとってのごちそう処だ。


 けれどその朝は、違った。

 ──『なんだこりゃ』

 クロは嘴を傾けた。

 ゴミ袋の横に、人間がひとり、倒れている。

 汚れたコート、片方だけの靴。

 顔を真っ赤にして、時おり「うへへ」と笑いながら寝ている。


 ──『生きてるな、これ』

 鼻をつく酒の匂い。

 「酔っ払い」というやつだ。

 だがクロには、ただの寝過ごした人間には見えなかった。

 ──『こりゃまずい。冷えで死ぬぞ』


 クロはひと声、ガァと鳴いた。

 そして考えた。

 ──『先生んとこに知らせよう。あの人、なんだかんだで世話焼きだからな』


 羽を広げて、まだ薄暗い空を切った。

 宗方動物病院の屋根が見える頃、空の端がようやく青に溶けていった。




 窓際でカルテを書いていた私は、妙な鳴き声に顔を上げた。

「おはよう、クロ。どうしたの?」


『人間、倒れてる。ゴミ置き場。息ある。けど寒い』

「えっ、倒れてる?」


 クロが普段より真剣な声を出す時は、だいたいろくでもない事態だ。

 私は上着を掴んで玄関を飛び出した。

 裏通りまで五分。

 クロが上空を旋回しながら道案内をしてくれる。


『ここだ、ここ!』

 見ると、ゴミ袋の山の隣に、確かに男が倒れていた。

 息は白く細い。

 頬は冷え切り、指先が紫色をしている。

「大丈夫ですか!」


 反応がない。

 私はためらわず、携帯で救急車を呼んだ。

 通報してから救急車が来るまでの間、コートを脱いで彼にかけた。

 クロが隣で、心配そうに首をかしげている。


『先生、こいつ死ぬのか?』

「死なせないわよ」



 病院の裏手が救急隊で騒がしくなった頃、クロは屋根の上からじっとその光景を見ていた。

 人間の世界はいつも騒がしい。

 誰かが倒れて、誰かが運ばれ、また別の誰かがため息をつく。


『先生、あの人、助かったのか?』

 夕方、クロが戻ってきて尋ねた。

「助かったみたい。低体温とアルコール中毒。病院で寝てるわ」

『そうか。あいつ、面白いやつだぞ。寝言で“ごめんよミナ”とか言ってた』

「ミナ?」

『知らんけど、女の名前だろ』


 クロは羽を畳んで首をすくめた。

 それっきり黙りこんで、夕陽を見ていた。



 数日後、病院の前にその男が立っていた。

 年の頃は四十代半ば。

 髪はボサボサ、顔には青い無精髭。


「こないだは……助けてもらって。宗方先生ですよね」

 

「ええ。もう大丈夫なんですか?」


「ええ。あの、なんていうか……恥ずかしい話ですけど、死にたくて飲んでたんです」


 男の名前は柴崎。

 元警備会社の社員で、半年前にリストラ。

 妻に離婚を言い渡され、アパートを出て、今は友人の倉庫を寝床にしているという。


「でも、死ねなかった。先生と……あの黒いカラスのおかげで」

 クロが裏口から覗くように顔を出した。

『よっ、生きてたか』

「カァ」と鳴いてみせる。


「この子があなたを見つけたの」

 柴崎は照れくさそうに頭を下げた。



 それからというもの、柴崎はほぼ毎朝、病院の掃除を手伝いに来るようになった。

「お礼の代わりです。これくらいしかできないんで」


 クロもどこか彼を気に入ったらしく、屋根の上から彼を見張るのが日課になった。


 ある日、柴崎がぼそっと言った。

「先生、俺、もう一回働いてみようと思ってるんです」

「いいじゃない。警備の仕事?」

「ええ。でも、昼のシフトだけ。夜は……苦手で」


『夜は長いからな。俺でも嫌になる時ある』

 クロが相槌を打つ。


「……カラスがしゃべってるように聞こえるの、俺だけですか?」

「私も聞こえてます」

 二人で笑った。


 笑いながら、春が来る気配を感じた。



 そんなある朝、クロが慌てた声で窓を叩いた。

『先生、やばい! 柴崎が倒れてる!』


「え?」


 裏口に飛び出すと、柴崎が倉庫の前で膝をついていた。

 顔色が悪い。


「病院行きましょう!」


「いや……大丈夫、ただ……」

 彼の手に、小さな段ボール。

 中には、弱った子猫。


「こいつ、凍えてて……俺、一晩中ストーブに当ててたら……」


 私は急いで子猫を診察台に乗せた。

 体温が低い。

 けれど間に合う。


「柴崎さん、あなたも休んで」

「いいんです。こいつ、助けてやってください」


『やるじゃねえか、酔っ払い』

 クロが窓辺から言った。

 その声に、柴崎は気づいたように笑った。

「おう、今はシラフだよ」



 数日後、子猫は奇跡的に元気を取り戻した。

 そして柴崎は、再就職が決まったと、真新しい警備の制服を着て挨拶に来た。

「守る仕事に戻れました。あの時の恩返し、ちょっとはできそうです」


 クロが屋根の上から鳴いた。

『おう、立派になったじゃねえか』

 

「ありがとな、先生。あんたとその黒いのに会えて、良かった」


 柴崎が去ったあと、クロが私の肩に降り立った。

『あの人、もう夜は怖くない顔してたな』


「そうね。人間って、夜を越えられるのね」

『まあ、朝があるからな』


 空を見上げると、カラスの群れが朝日を切り裂くように飛んでいった。


 冷たい風が、どこか優しく感じられた。




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