カルテ6、哲学するハムスターとインフルエンサー
「今日も世界は平和だ。」
私がそう呟いたところで、世界はなんの反応も示さない。
世界というのは、そういうものだ。
この町の平和は、少し湿っていて、人間臭い。
そんな午後だった。
「ごめんくださーい! 宗方先生、いますか!」
自動ドアをこじ開けるようにして入ってきたのは、蛍光マーカーのような金髪の若い女性だった。
目に力があり、喋り方に独特の「カメラ慣れ」がある。
「あの、私アヤノって言います! ネット見ます?」
「ええと……あまり詳しくなくて」
「ですよねー。先生、動物園上がりですもんね!」
悪びれる様子は一切ない。むしろ「知らないなんてもったいないですよ」という顔だ。
彼女は派手なバッグを診療台に置き、その中からアクリルケースを取り出した。
中では、一匹のジャンガリアンハムスターが、どこか人生を達観した顔でひまわりの種を頬張っていた。
「この子、“モモ”って言うんですけど、最近全然バズらなくて!」
「……バズらない?」
「そう! 動画の再生数が落ちてるんです! コメントも“疲れてる”ばっかりで!」
「つまり、元気がないという意味ではなく……」
「バズらないのが症状なんです!」
真顔だった。
彼女にとって、バズることが生命反応なのだ。
「とりあえず診せてください」
モモを手のひらに乗せると、軽くて温かい。
体調は問題なさそうだ。だがその時──。
『バズりたくねぇ』
ハムスターの心の声だった。
低く、渋く、少し疲れた声。
『毎日、回し車回せだの、ドアップで頬張れだの。俺はハムスターだぞ? 芸人じゃねぇ』
私は思わず微笑んだ。
「あの、アヤノさん。最近、環境に変化は?」
「ストレスなんてないですよ! モモは世界一幸せです! 最高級の床材、オーガニック餌、フォロワー百万人!」
『あの餌、臭ぇんだよ。朝五時から撮影だし、どこが幸せだ』
「……しばらく撮影をやめて、餌も普通のに戻してみてください」
「そんなことしたら再生数が……!」
「モモくんは命です。コンテンツじゃありません」
その言葉に、彼女は唇を噛んだ。
三日後、再び来院。
メイクの崩れた彼女は初めて“人間の顔”をしていた。
「先生、全然バズりません! 再生数、三桁です!」
モモは手の中で気持ちよさそうに寝息を立てている。
『静かだ……これが本当のバカンスだな』
「でも、顔つきは良くなってるでしょう?」
「……そうかも」
「心の栄養を取り戻したんです」
「でも私、炎上したんです! “モモを放置してる”って!」
彼女の目に涙があふれた。
「モモがバズるから、私に価値があったのに……」
私は黙って背中をさすった。
モモの声が、静かに響いた。
『……おい、アヤノ。泣くな。俺は見てるぞ。夜中、お前がそっとケージを撫でてるの、知ってる』
『お前はインフルエンサーじゃねぇ。俺の飼い主だ。それでいい』
私は言葉を選び、そっと告げた。
「アヤノさん。モモくんは、あなたを見ています」
「……え?」
「バズらなくても、モモくんにとって、あなたはたった一人の飼い主です」
アヤノは涙の中で微笑み、モモを頬に当てた。
「ねえ、私のこと好き?」
『うるせぇ。当たり前だろ。』
その後、チャンネルは更新を止めた。
そして一週間後の夜、ニュースが流れた。
“人気インフルエンサー・アヤノ、動画全削除し再スタート”
新しい動画のタイトルは、「ただ、モモと静かに暮らす夜」。
画面は暗く、木のケージの中でモモが土を掘っていた。
アヤノの素の声が響く。
「以前の動画は全部消しました。これからは、ただの日常をアップします」
『……悪くねぇな。土の感触、これが生きてるってことだ』
コメント欄には、こんな言葉が並んでいた。
“なんか落ち着く”
“これが本当のモモだね”
“無理しないでね”
熱狂は消え、代わりに静かな共感が残った。
数日後、アヤノがまた病院に来た。
「フォロワー、六千人になっちゃいました」
「そうですか。」
「でも、清々しいんです。残った人たちは、ちゃんと私とモモを見てくれてる気がして」
彼女の瞳は、もうライトではなく、自分の内側から光っていた。
「『モモちゃん、土の中でのんびりできてよかったね』ってコメントがあって。それが一番嬉しかった」
私は微笑んだ。
「“バズり”は一瞬。でも、“心のバトン”は静かに渡されるものです」
モモがケースの中で種を頬張る。
『先生、見ろよ。安もんのひまわりの種、これが一番うめぇ』
「モモくん、幸せそうですね」
「私も、やっと普通の人間になれた気がします」
アヤノは頭を下げた。
「命とコンテンツの違い、教えてくれてありがとうございました」
病院に静けさが戻る。
遠くで、モモの声が聞こえた気がした。
『……安もん最高。あと、“モモ”って名前、変えてくれねぇかな』
カルテの端に、一行を書き加える。
「モモ――土の中の哲学者。安もんと静寂を愛す」
世界は平和だ。
この町の平和は人間臭く、そして可笑しい。
それで、いい。




