カルテ5、東雲のフクロウと受験生
夜中の二時半。
宗方動物病院の電話が鳴った。
電話ってやつは、不思議と眠気が一瞬で吹き飛ぶ音をしている。
留守電にしようか一瞬迷ったけど、動物病院の夜中の電話はだいたい“嫌な予感”の代名詞だ。
「はい、宗方動物病院です」
受話器の向こうから、か細い声。
「す、すみません……フクロウが、動かなくなってて……」
聞けば、近所の住宅街。
高校生くらいの男の子の声だった。
夜の町は、眠った獣みたいに静かだった。
ストリートライトの下、制服姿の少年が立っていた。
腕の中に、羽根を閉じたままのフクロウ。
「この子、どうしたの?」
「塾の帰りに、道で……車にぶつかったみたいで……」
フクロウはまだ温かい。
目を閉じて、うっすら息をしている。
体の下半分が少し赤く濡れていた。
「すぐ運びましょう」
診察室に戻ってライトを当てる。
翼の付け根が折れている。内出血もある。
このままだと飛べなくなるかもしれない。
「助けられますか……?」
少年の目が必死だった。
――大丈夫。助ける。
そう言いたいけど、医者は簡単に約束しちゃいけない。
代わりに、わたしはうなずいて、麻酔の準備をした。
手術が終わったのは午前四時。
なんとか命はつなぎとめた。
わたしが息をつくと、少年が机の端で居眠りしていた。
「ねえ、君、家の人は?」
「え? あ、寝てると思います。まだ言ってなくて……」
「そっか」
制服の袖が、少しインクで汚れていた。
多分、受験生だ。
フクロウがかすかに目を開けた。
『……ここ、どこだ?』
「動物病院だよ。君、交通事故に遭ったんだ」
『そうか……あの子、泣いてなかったか?』
「心配してたよ」
『なら、よかった』
小さく瞬きして、また眠った。
翌朝。
フクロウは檻の中で静かに呼吸していた。
少年は帰り際に言った。
「明日も来ていいですか?」
「ええ、学校のあとなら」
彼は頭を下げて、ふらふらと帰っていった。
夜明けの空はうっすらと青くて、
フクロウの瞼の下にも同じ色の影があった。
次の日の夕方。
少年がまた来た。
教科書を抱えている。
「勉強してもいいですか? この子のそばで」
「いいけど……落ち着かないんじゃない?」
「ここだと、静かだから」
そう言って、机の隅にノートを広げた。
数式をつぶやく声と、フクロウの寝息。
不思議と、病院の空気が柔らかくなった。
しばらくして、フクロウが目を開けた。
『あの子、夜ばかり起きてるな』
「受験生だよ。君と同じ夜行性」
『そうか。じゃあ仲間だな』
わたしは笑って、カルテに「経過良好」と書いた。
数日後。
フクロウの翼は少しずつ動くようになった。
少年は毎日通ってきて、ノートを広げた。
病院の空気に、シャープペンの音がカリカリと響く。
『あの子、時々泣いてるな』
「泣いてる?」
『夜、ページを見つめたまま。羽がないくせに、飛ぼうとしてる顔だ』
わたしは思った。
――勉強って、飛ぶための努力なんだ。
でも、人間の羽は目に見えないから、誰も気づかない。
ある夜、少年がぽつりと言った。
「僕、第一志望……たぶん無理です」
「まだ二ヶ月あるでしょ?」
「親は浪人するなって。塾の先生にも“現実見ろ”って言われて」
静かにフクロウが首を回した。
『人間は飛ぶ前に、巣を決めたがるんだな』
「まあ、そういう生き物だね」
『バカだな。空は、どこにでもあるのに』
フクロウのその言葉を、わたしは少しだけ翻訳して伝えた。
「……ねえ、フクロウが言ってたよ。空はどこにでもある、って」
少年は驚いて笑った。
「先生、変わってますね」
「よく言われる」
でも、その笑いは、ほんの少し救われたみたいに見えた。
試験前夜。
少年が来なかった。
代わりに、窓の外で羽音がした。
『あの子、来ないの?』
「たぶん、勉強してる。君が背中押したんじゃない?」
『あいつ、飛べるかな』
「きっとね」
フクロウは静かに翼を広げた。
治った。
もう、放してやらなきゃいけない。
まだ夜の名残が残る明け方前。
空の端が、うっすらと群青に染まり始めていた。
丘の上の空気は冷たく澄んで、白い息が月の光に溶けていく。
少年が駆け込んできた。
「先生! フクロウ、どうしても見たくて!」
わたしは笑って、外の小さな丘に案内した。
ケージの扉を開けると、フクロウが首をかしげた。
『行っていいか?』
「うん。ありがとうね」
『じゃあ、その子に言っといて。“飛ぶべる幸せを逃すな”って』
羽が音を立てて広がった。
月明かりを切り裂くように、静かな空へ。
少年の顔に夜風が当たって、涙がにじんだ。
「飛んだ……」
「そう。あの子、君の代わりに夜を越えたんだよ」
一か月後。
合格発表の日。
郵便受けに一通の手紙が届いた。
封を開けると、達筆な字でこう書かれていた。
先生へ
フクロウを助けてくれてありがとうございました。
あの日から、僕は夜が怖くなくなりました。
そして今日、合格しました。
あの子みたいに、いつかちゃんと飛びます。
便箋には、丸いフクロウのシール。
たぶん、文房具屋で選んだんだろう。
素朴で、まっすぐで、少し不格好。
でも、それが一番きれいだった。
夜。
窓を開けると、遠くでフクロウの鳴き声がした。
『飛べたんだな』
あの声が、風に乗って届いた気がした。
わたしはカルテを閉じて、机の明かりを消した。
――夜は、誰かの努力の音がする。
そして、どこかでまた、誰かが静かに飛ぶ練習をしている。




