カルテ4、笑うミニブタと女優
芸能人って、生き物だなって思う。
もちろん、人間なんだけど、どこか現実と違う空気をまとってる。
──で、その現実からちょっと外れた空気が、ある日うちの病院に入ってきた。
昼過ぎ。診察時間の合間、カルテ整理をしていたとき。
突然、受付の自動ドアが開いて、派手なサングラスとマスクの女性が立っていた。
後ろには、リードを引かれたミニブタ。
ピンク色のつやつやした体に、黒いリボン付きのハーネス。
場違いなほどおしゃれだ。
「先生……この子、元気がないんです」
声でわかった。テレビで何度も聞いたことがある。
ドラマで刑事もやるし、CMで化粧水も宣伝してる、あの人気女優──浅倉りみ。
わたしは一瞬、心の準備ができなかった。
けれど、彼女の抱くミニブタが小さく鳴いた。
『うぅん……お腹、いたいの』
「あ、すぐ診ますね」
プロ意識ってやつは、こういうとき便利だ。
驚きとミーハー心を押し殺して、わたしは診察台にブタを乗せた。
名前は「モモ」。
生後二年。体重十五キロ。
お腹を触ると、張りがある。消化不良だ。
たぶん、何か人間の食べ物を食べた。
「最近、何かあげました?」
浅倉さんは、少しバツが悪そうに言った。
「撮影のあとにね、ちょっとケーキを……いっしょに食べちゃったんです。嬉しそうに見えたから」
『だって、甘いの美味しいんだもん!』
ミニブタがそう言うので、思わず笑いそうになったが、こらえた。
「うーん、ミニブタは糖分に弱いんです。胃腸が繊細だから」
浅倉さんは深刻な顔でうなずいた。
「……ごめんね、モモ。私が悪かった」
『いいの、ママが笑ってくれるなら、何でも食べちゃう!』
──ママ、って。
聞こえたけど、さすがに本人には言えなかった。
点滴と整腸剤を打って、入院一泊の指示を出す。
「夜だけ預かります。明日には落ち着くはずです」
浅倉さんは少しほっとして、サングラスを外した。
思ったより、普通の人の目だった。
テレビの中の“光る顔”とは違って、ちょっと疲れた優しさがあった。
「先生……この子、私にとって家族なんです。人より、ずっと素直で」
「ええ、わかります」
「私、ドラマでは笑えるのに、家では笑えないんですよ。不思議ですよね」
わたしは頷いた。
「笑顔を“仕事”にしてる人ほど、本物の笑顔を隠すんです」
彼女は少しだけ笑って、
「先生、詩人みたいなこと言うんですね」と言った。
いや、ただの獣医だ。
夜。
モモは入院室の中で丸まって眠っていた。
消化器の動きは落ち着いている。
わたしが見守っていると、かすかに声が聞こえた。
『……ママ、また笑ってくれるかな』
「笑うよ。あなたが元気になったら、すぐにね」
『ほんと?』
「ほんと」
モモは安心したように目を閉じた。
寝息が小さく鳴る。
その音が、まるで心臓の鼓動みたいに温かかった。
翌朝。
病室に浅倉さんが現れた。
ノーメイクで、髪をひとつにまとめている。
まるで別人みたいに静かな顔だった。
モモが目を覚まし、立ち上がった瞬間、彼女はしゃがみこんで抱きしめた。
「モモ! よかったぁ……」
『ママぁ……お腹なおった! もうケーキいらない!』
わたしは心の中で「本当か?」と突っ込んだ。
浅倉さんは涙ぐみながら言った。
「この子が苦しそうにしてるの見て、初めて“自分が人間”だって思いました」
「どういう意味ですか?」
「私、ずっと演じてばかりで。人に好かれる顔ばっかり作ってたけど、モモは何も求めない。ただ、私を見てくれるから……怖いんですよ、時々。本物の自分がバレる気がして」
彼女の指が、モモの背を撫でる。
その仕草がとてもやさしくて、儚かった。
『ママのほんとの顔、私は好きだよ』
あぁ、聞かせてあげたい。
でも、それができないのがわたしの宿命だ。
退院手続きを終えて、浅倉さんは帰り際、振り向いて言った。
「先生、命を扱うのって、怖くないですか?」
「怖いですよ。でも、それ以上に愛しいです」
「……私も、そんなふうに人を演じたいな。怖くても、愛しくて」
そう言って、彼女は微笑んだ。
それはテレビでも雑誌でも見たことのない、本当の笑顔だった。
モモがその横で鼻を鳴らした。
『先生、ママが笑ったよ! ねぇ見た?』
「うん、見た。あなたのおかげだね」
『えへへー』
ミニブタが笑うと、空気まで柔らかくなる。
彼女たちが病院を出るとき、外の光が少し眩しく見えた。
夜。
テレビをつけると、ちょうどドラマの再放送をやっていた。
浅倉りみが、刑事役で涙をこらえている。
けれど、その涙よりも──
わたしには、病院で見た笑顔のほうがずっと本物だった。
番組の終わりに流れたCM。
新しい化粧品の広告だ。
カメラに向かって、彼女が言う。
「美しさは、心の健康から。」
その言葉に、ふっと笑ってしまった。
モモの声が、どこかから聞こえた気がした。
『ママ、ウソついてないでしょ?』
「うん、もうウソじゃないね」
カルテの最後のページに、わたしは書き足した。
──「モモ・浅倉りみ宅へ退院。笑顔、完治。」
ペンを置くと、父の声がふっと頭の奥で響いた。
『紬、お前、いい仕事してるな』
「うん、たぶんね。……でも、動物たちがいないと無理だよ」
天井の蛍光灯が小さく瞬いて、静かな夜が戻ってきた。
外では、どこかの家のテレビが笑い声を流している。
その向こうで、小さなミニブタが寝息を立てている気がした。




