カルテ26、ポメラニアンとサイクリスト
風を切る音というのは、都合がいい。
いろんなことを、聞こえないふりできる。
ロードバイクをこぐたびに、ホイールが光を巻き取って後ろへ放っていく。
朝の空気は冷えていて、肺の奥がきゅっと縮む感じが、川村和幸は好きだった。
三人で走るのは久しぶりだ。
いや、正確に言えば“滅多にない”どころじゃない。
それぞれ仕事がバラバラ、休みも合わない。
去年なんて、日帰りライド一回きりだった。
だから、今日のこの一泊二日のツーリングは、三人で半ば握手するみたいにして決めた、やっとの予定だった。
出発して二時間。
身体もリズムに馴染んできて、そろそろ冗談でも言いながら走ろうか、そんなタイミングだった。
和幸のフィルダーのスマホが震えた。
走行中のタイミングにしては妙に鋭い知らせ方だった。
画面に浮かんだのは、妻からの着信ありのメッセージ。
胸の奥がざわりとする。
嫌な予感は、だいたい当たる。
「悪い。ちょっと休憩」
和幸は二人に声を掛けて足を弛める。
停車してすぐにホルダーから外し、リダイヤルボタンを押した瞬間、妻の掠れた声が落ちてきた。
「……ミルクが、たぶん……今日、かもしれない」
その言い方で、状況はわかった。
老犬ミルク。
ポメラニアンで、小さいのに妙に存在感のあるやつだった。
少し前から体調を崩していて、覚悟はしていた。
「……そうか」
声は自分のものなのに、少し遠く聞こえた。
それ以上言葉が続かなかった。
「どうする? 戻るか?」
和幸が電話を切ったあと、高橋が言った。
すぐに追いついた下田も、無言で和幸を見ていた。
三人とも、わかっているのだ。
今日の旅行をどれだけ楽しみにしていたか。
日頃のストレスが、こういう日に全部抜け落ちるのを知っている。
「俺ら二人でも行けるしな。無理しなくていいぞ」
高橋が笑って言った。
その笑い方が、逆に優しすぎた。
その優しさが、和幸の決断を難しくする。
戻ったほうがいいのかもしれない。
妻をひとりにしておくべきじゃない。
“家族”の最期に立ち会うのは当然だ。
和幸はそう思った。
…思ったのに。
すぐには自転車の向きは変えられなかった。
戻るべきか。
でも、戻ったら妻はきっと気を遣う。
“あなたの楽しみを奪ってしまった”と、あの人は絶対に思ってしまう。
そして、和幸の胸の奥で──
旅を楽しみたいという欲が、確かにまだ燻っている。
その矛盾が痛かった。
「……続けるよ」
呟くようにそう言って、サドルに腰を落とした。
俯いたまま、ペダルに足を乗せる。
その瞬間、また風の音が和幸の耳をかすめ、すべてをごまかしていった。
道中の景色も、会話も楽しかった。
道に迷っては笑い、登り坂が多いとぼやきつつも、先を競い合った。
魚が跳ねたのを見て、釣竿が無いことを嘆いた。
宿の風呂も食事も、ちゃんと楽しいと感じてしまう自分がいた。
笑うたび、胸の奥で針のような痛みがちくりと走った。
──ミルク、どうしてるだろう。
──妻は大丈夫だろうか。
ただ、それでも旅は続いた。
二日目は空がやけに青く、景色は清々しいほど美しかった。
高橋が叫ぶ。
「最高の日だな!
和幸も笑い返した。
笑いながら、ひどく申し訳ない気持ちもあった。
それでも、ペダルは軽かった。
二日目の夕方。
玄関の扉を開けた瞬間、家の空気が変わっているとわかった。
妻が、ミルクを抱きしめて座っていた。
小さな身体は、もう静かだった。
「……さっき、逝ったの」
妻は泣きながら、それでも笑おうとしていた。
その顔が逆に痛かった。
──待っていたのだ。
和幸が帰るのを。
ほんの少し。
ほんの短い時間だけ。
それに間に合わなかった悔しさが、胸を締めつけた。
ミルクは静かな顔をしていた。
頭を撫でると、いつも通りの柔らかい毛並みだった。
「……ごめんな」
声は震えなかった。
涙も出なかった。
ただ胸の奥が熱くなった。
その夜、妻がぽつりと言った。
「……あなた、楽しんでたでしょ?」
責める言い方ではなかった。
淡く浮かべた笑顔が、ただ事実を確かめているだけだった。
和幸は何も返せなかった。
「それでいいのよ」
妻はミルクを撫でながら続けた。
「……あなたが楽しんでたなら、それで。ミルクも、きっとそれでよかったよ」
その言葉が、ズルいくらい優しかった。
翌日、ミルクを宗方動物病院に連れて行くことになった。
最期の診察と、葬儀の準備を相談するためだ。
診察室で、宗方紬はミルクの身体にそっと触れた。
目を閉じて、その心を聴くように息を整える。
やがて紬の胸に、小さな声が届いた。
『……にいちゃん、楽しそうだった』
ミルクの声だった。
紬は少しだけ眉をゆるめた。
『楽しめてよかった。毎日、頑張ってたし』
ミルクの声は、どこか安心していた。
『わたしも……ひとりじゃなかったし。ずっと、撫でてくれる手があったかかったし……いっしょだったし……』
紬はゆっくり目を開けた。
「……ミルクちゃんね、“寂しくなかった”って言ってますよ」
妻が小さく息を飲む。
「ほんと……?」
紬はうなずく。
「ええ。むしろ……あなたがそばにいたことを、とても誇らしく思っていたみたいです」
妻の目から、一滴涙がこぼれた。
和幸は思わず紬に尋ねた。
「……僕のことは、何か……」
紬は小さく笑った。
「ええ、ミルクちゃんらしい優しい言葉ですよ。“楽しくてよかったね”だそうです」
和幸は目を閉じた。
胸の奥の後悔が、少しだけ形を変えていく。
診察が終わり、ミルクを包んで準備をしている間、妻は紬に話しかけた。
「……最期にね、私、あの子に“楽しかったね”って言ったんです」
紬は手を止めずに聞いていた。
「そしたら……私、あの子に“ありがとう”って言われた気がして」
「きっと、その通りですよ」
紬の声は静かだった。
「犬は、自分の“群れ”が幸せだと安心する動物です。あなたがミルクちゃんのそばで笑っていたこと、すごく嬉しかったはずです」
「……夫のことも?」
「もちろん。“帰ってくる人”というだけで、犬にとっては十分なんです」
妻の肩が、小さく震えた。
「じゃあ……じゃあもう、悔やまなくていいのかな」
紬はやさしく微笑んだ。
「はい。ミルクちゃんの心の中に、後悔のかけらもありませんでした」
ミルクを見送り、帰り道。
和幸は空を見上げた。
風はまだ冷たい。
ロードバイクに乗れば、また聞こえないふりができるのだろう。
でも──今日はしなかった。
ミルクが残していったものがある。
罪悪感でも、後悔でもなく、もっと静かで透明ななにか。
「楽しかったなら、それでいい」
あの犬らしい、やわらかな言葉。
その言葉に、心の底がじんわりと温まる。
そして和幸は思った。
──また走ろう。
今度は逃げるためじゃなく。
ちゃんと自分の気持ちを連れていけるように。
***
宗方紬はミルクのカルテを閉じる前、そっと書き加えた。
“ミルク(ポメラニアン) ──最期まで家族想い。群れの主の帰宅を待ちて、安らかに逝く”
ペンを置いた瞬間、どこかで小さく尻尾が振られた気がした。




