カルテ25、ナニワのお喋り猫とジュリエット
魚の匂いには、妙に季節が宿る。
夏なら塩気。冬なら脂の冷たさ。
そして今日、宗方動物病院の裏口に届いたのは──なんというか、“事件の予感”みたいな生臭さだった。
魚屋の主人から電話が来たのは昼過ぎだ。
『先生、うちの店先で寝てる猫がいてさ……いや、寝てるだけならえまだ良いんだけど……食われたんだ魚が。綺麗に一尾だけ』
魚屋の主人は怒るでもなく、困り笑いで続けた。
『野良にしちゃ毛並みも良いし、どっかの飼い猫だと思うんだけど? ほら宗方先生、動物のことわかるだろ? お願いします』
そんなわけで、わたしは診察を一段落させてから魚屋に向かった。
店先。
干物と氷の上の魚が並ぶ横で――本当に寝ていた。
その前脚の下には、綺麗に食べられたた魚の骨。
図太い。
いや、太いのは神経か、それとも腹か。
抱き上げた猫は、ふわっと温かくて、予想以上に重かった。
体も毛並みも見事に手入れされている。
確かに野良には見えない。
魚屋のおじさんに頭を下げてから、猫を連れ帰った。
病院に戻り、ケージに移した猫はちょっとだけ目を開けて、わたしを一瞥した。
その一瞬で、わかった。
──こいつ、絶対に普通の猫じゃない。
わたしはケージの扉を少しだけ開けて、つぶやいた。
「あなた、野良じゃないわね」
すると中から、ため息まじりのような声が聞こえた。
『野良? ちゃうちゃう。ちゃんとした家ネコや。 こう見えて、わりとええとこの子やねんで』
やっぱり。
この喋り方……いや、声の“調子”、この感じ。
脳に直接響く、この独特のテンポ。
間違いなく、「喋る」タイプの猫だ。しかもよく喋る方。
「その“ええとこの子”がなぜ魚屋さんで盗みを?
猫は、ケージの奥から胸を張ったような気配を漂わせた。
『ちゃうねん。お腹空いたなぁって思てたら、ちょーどええ感じに魚が並んでてん。こりゃ魚のお披露目会、デビュタントかなって見てたら、そん中の一匹と目ぇ合うたんや』
……デビュタント。
猫からそんな単語が出てくる病院は、日本でもうちくらいだろう。
『オレも見てる。向こうも見てる。こりゃ相思相愛ちゅーやつな』
「ふん?」
なにを言ってるんだろこの猫は。
『普段水ん中にいてる娘と、家ネコのオレ。住む世界の違う二匹がバッタリ出会ってん。ほんま、ロミオとジュリエット。ウエストサイドストーリーみたいやん。そんならオレが白馬の王子様になって、救い出したらなあかん──で、今に至るっちゅうこっちゃな』
救い出すまではロマンチックなのに、その後はもう……想像つく。
寝ていたこの子の横に、魚の骨が転がっていたのだから。
「で、その白馬の王子様が救い出したお姫様の骨が、なぜあそこにあったのかしら?」
『ん? 骨は食べへんよ。オレ、ええとこの子やから』
「……相思相愛とか言ってなかった?」
『せやで。相思相愛。食べたいくらいの愛っちゅーやつやな』
「もーええわ! それなら骨まで愛してあげなさいよ」
『お! ねーちゃん、たとえツッコミできるんや。ちょっと例えが古いけどな』
「なによ古いって! オヤツ目当てだったけど、子供の頃、祖母の家で散々聴かさ──って、そうじゃなくて」
『ほっほー。自虐系ノリもいけるんや』
ああもう、この猫は絶対わたしをペースに巻き込んでくるタイプだ。
嫌いじゃないけど、今はまず状況整理だ。
「……まあいいわ。お腹が空いて魚を盗んだのはわかったけど──」
『ちゃうで、盗んでな──』
「盗んだのはわかった」
猫はぐうの音も出ないらしく、しょんぼりした気配を漂わせた。
『……話聞く気ゼロやん……』
「で、お家はどこ? この辺じゃ見かけないよね」
わたしが核心に触れると、猫はすぐ拗ねた声を出した。
『がんばって作っ──オレの愛のストーリーはまるっと無視ですか……』
「で?」
『……冷た。心が石や。氷河期でもそんな冷えへんわ』
聞こえるような聞こえないような、絶妙な声でつぶやいてる。
まるで、舞台の袖で自分の出番を待つ芸人みたいだ。
「で? あなたどこの子? 家がわかるなら連絡してあげるけど」
すると猫は、急に思い出したように話し出した。
『いや、それがな。急に家の中がバタバタし出して、なんや? 戦争でも起こったんか? 細川勝元でも攻めて来たんか? と思たけど、そうでもないらしい』
「で?」
わたしの短い合いの手に、猫がぷんと膨れる。
『いや! ちゃうやん。「戦争で細川勝元の名前が出るって、京都人か!」ってツッコミ待ってたのに』
「あぁ、応仁の乱ね。で?」
猫は肩を落としたような気配を見せたあと、観念したのか続ける。
『……冷た。冷た過ぎて歯に染みるわ。──待って! 待ってって。話すからその目やめて。なんやったけ? せやせや、家ん中で大騒ぎ始まったなぁって思てたら、いきなりキャリーケースに入れ。って言われて押し込められそうになったんや。だいたい、アレに入れられたらろくなことになれへんやん』
たしかに、たいていの猫はあれを嫌がる。
『こっちは、それ知ってるもんやから、ダッシュで逃げ出してん』
「で、ここにいるってこと?」
『いや、ちゃうちゃう。話はオチまで聞かんと』
「オチは要りません」
『なんで? オチない話なんかしたら、病院でイカついおっさんに注射打たれんで。あ、ここ病院やったな。あっはははは』
「で?」
『……すんません』
すんません、の割に明らかに反省はしていない声だ。
『えっと、ダッシュで隙間に逃げ込んでんけど。あのチューって出てくる美味いやつを、目の前でチラチラさせてくるよって、つい出て行ったら、その場で御用や。せんせもお菓子に釣られて知らん人に着いてったらあかんで。近頃、人間の世界も物騒やって聞いてるで。こないだも、近所の──』
「で?」
『あ、ほんでキャリーケースに入れられて、ご丁寧にその上から布を被せられたんや。狭い、暗いし、「これ面堂終太郎やったら大騒ぎするとこやでー」って、一人ツッコミしててんけど……まぁすることもないし、へーこいて寝たろって思て寝たんや』
「……」
『え? いやいや、ほんまに屁はこいてないよ。まぁ寝る前の挨拶みたいなもんやな。「顔洗って出直してこんかい!」って言われてほんまに顔洗ろてくる奴おらんのと一緒や。「じゃますんで」「じゃますんねんやったら、帰ってんか」って言われて帰──』
「……で!」
猫の声は、意外なほどよく通る。
どこか大阪の小劇団にいそうな軽快さだ。ついつい無駄話に惹き込まれそうになる。
油断はできない。
『えーっと……それでしばらく寝てたんやけど、けっこう長い間そのままやねん。こんな長いことほっとくんやったら、入れるのん早すぎちゃうん! 前戯くらいしっかり……。あ……』
「…………で」
『ようやく家の中が静かになったなーって思たら、ケースごと持ち上げられて、車の中や。こらあかん。病院で痛い思いするか、どっかに預けられて、うっとしい思いすんのかなって。この前預けられた時なんか、すぐそばのケージに犬おんねん。あいつらパッタパッタ歩き回りよるし、無駄に吠えよるし、うるそうて寝てられへん。だいたい犬ってやつは……あ……』
「犬にも言い分はあるでしょうけどね」
『……あ、せんせ犬も好きやったんか。すんません』
猫がしゅんとなるのが可笑しくて、つい笑ってしまう。
「うちで預かる時は気をつけるわね。犬の隣にはしないわ」
『いやいや。せんせとこは、ちゃんとしてはりますやん。清潔やし、片付いてるし、せんせもべっぴんさんやし、ただちょっと古いかなぁって』
「……今、なんて?」
『……ちゃうで! せんせのこと、古いって言うたんちゃうからね。病院、病院のことやで』
猫は慌ててケージの奥でごそごそ音を立てる。
「で……」
『えっと、どこまで言うたかな。あ、そうそう。車に乗せられたとこからやな』
猫の説明は、だんだん“知らない場所に放置されたドッキリ芸人”のような様相を呈してきた。
『車も、乗せ方考えてくれんと困るねん。足元に置かれんねんけど。置き方によったら、微妙に傾きよんねん。あれちょっときしょく悪いで。ほんまはシートの上の方がええねんけどな。下は空気悪いし、小刻みに揺れるから酔うねん。もうちょっと考えて欲しいよな。あーでも考える言うても、抱っこはあかん。この前、運転してる横で、おばはんが犬抱いて座ってるのん見たで。アレは危ないと思うな。あいつら犬って落ち着きないからな。なんか気になるもん見つけたら。「お! あれなんや! あっちにも変なもんあるな! お! これは! あ! それは!」って絶対うろちょろしよる。──あ、そうそう。そう言うたら、快適に車に乗せられるケージがあるらしいな。ねーちゃん知ってる? ……あ、知ってはりますか──』
「で!!」
『……続けます。車に乗せられたんはええけど、ごっつい長いこと走んねん。キャリーケースに押し込められてから、結構な時間やん。半分以上寝てたゆうても、出るもんはあるねん。小はまだ水吸うシート敷いてるさかい──嫌やで、それでも嫌やけど、ちょっと湿っぽいとか、ちょっと臭いとかあるけど、まだ我慢出来る。せやけど大はあかん。あんなんが転がってる横で寝られへん。せやから頑張って我慢はしてたけど限界はあるんや。それこそ、へーこいて寝よとか思たら、みー出てまうって感じや。そんで、あんまり騒ぎたなかったけど、もうこっちは、おいど(お尻)から“こんにちは”しそうやねん。で、ニャーニャー騒いだら、気ついてくれはったんや』
「うんうん(それは気づいてあげてほしい)」
『ほんで、しばらく行ってから停まったんや。これで勝ちや。と思ったら……』
そこで猫は、深く深くため息をついた。
『何を勘違いしたんか知らんけど、缶詰開けよんねん』
「優しいじゃない」
『確かに腹も減ってる。それはそれでありがたいねんけど、今は入口より出口がピンチや。「ちゃう! 出す方や!」って言うても、にこにこしながら「はいはい。待ってね。もうすぐ開くからね」とか見当違いのこと言うとんねん』
「……あぁ」
気持ちはわかる。
“トイレの危機”ほど切実なものはない。
『で、ケースの扉が開いた瞬間に飛び出して、車の窓から脱出して、そっから猛ダッシュや』
そこを語る猫の声は、どこか誇らしげだった。
『アスファルトやったけどな。とりあえず地面めざして走って、草むら見つけて……スッキリ。天から声が聞こえたわ。「スッキリ〜!」って』
「……うん、お疲れさま」
『こんもりすぎて隠すのに苦労したけど、後始末もして、次はせっかく開けてくれた缶詰をやっつける番やなって思てんけど……。ここどこや? なんとか探してそれらしい場所には戻ったけど、車がぎょうさんあってどれかわからへん』
「……それは、まあ」
『で、あちこちさまよってるうちにお腹すいてきて、ちょうど魚屋さんの“運命の魚”が目に入ってしもたわけや』
「ロミオとジュリエットの設定は?」
『過去は振り返らん主義や』
「結局、迷子ってことね」
『はい……』
「で、お魚を盗み食いして、大胆にも魚屋さんの店先で寝ていたと」
『寝てたつもりなかったけどなぁ……』
猫は小さく丸くなった。
濡れた瞳ではない。
ただ、少し恥ずかしそうに、まぶたが下りている。
ほんの一瞬、わたしの胸の奥が柔らかくなる。
──迷子の猫って、どうしてこんなに守りたくなるんだろう。
「飼い主さんも探してるでしょうから、すぐに見つかると思うわ。あなたの話から場所の特定も出来たし」
『すんません。よろしくお願いします』
「それまでは、そのケージでおとなしくしてなさい」
猫はキャリーの中で寝そべり、急に偉そうにこう言った。
『ただ世話になってるのは申し訳ないんで、なんかおもろい話でもしましょか?』
「いらない。おとなしく寝てなさい」
『えぇ〜……せんせ、ノリ悪いわぁ……』
ぶつぶつ言いながら、猫は丸まった。
でもその丸まり方が、安心しきっている。
あぁ、この子──
ようやく安全な場所に辿りつけたんだ。
わたしはそっと、キャリーの上から毛布をかけた。
そのあとすぐ、飼い主から病院に連絡が入った。
「探しています」の貼り紙を出していたらしい。
喜び声の奥に、どこか泣き笑いのような音が混じっていた。
無事に引き渡すと、猫は振り向きざまにこう言った。
『せんせ、また迷ったら来るわ』
「迷わないでよ……」
『いや、迷うで。確実に迷う。方向音痴の血筋や』
飼い主に抱かれながらも、ずいぶん楽しそうに尻尾を振っていた。
扉が閉まり、車が走り去る。
その後ろ姿に、わたしは小さく手を振った。
「……迷ってもいいけど、魚は盗まないでね」
病院の前を風が抜けていく。
その風の中に、あの猫の軽口が混じって聞こえたような気がした。
『いや〜骨は食べへんよ。ええとこの子やから』
「……“ええとこの子”なら今度はちゃんとお金払いなさいね」
思わず声が出る。
もちろん、猫の声はもう聞こえなかったけど。
それでも、ちょっとだけ笑った。




