表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/35

カルテ24、憂鬱な森林狼と赤ずきんちゃん




 動物病院のカルテ整理って、ちょっとした“発掘作業”みたいなところがある。


 ──あ、平成何年のフィラリア検査。

 ──この子、昔はこんなに太ってたのか。


 ノートパソコンの光と、紙のカルテのインク。

 夕方六時半。診察が一段落して、待合室の明かりだけが柔らかく残っている時間帯だった。


 机の端に積み上がったカルテの山にため息をついたところで、スマホがぶるっと震えた。


 表示された名前を見て、思わず吹き出す。


「……羽典うてん園長?」


 前の職場──市立動物園の園長さん。

 わたしがまだ若手獣医として、ライオンやゾウに振り回されていた頃の上司だ。


 通話ボタンを押すと、懐かしい声が耳をくすぐった。


『もしもし、宗方くん? 今、大丈夫かね?』


「はい。カルテと格闘中ですけど。どうかしました?」


 受話器の向こうで、園長が小さく咳払いをする。

 あ、この感じ……何かあるときの声だ。


『あー……そのだな。君は昔から、動物の変化に、ほら、“妙に”気づくタイプだったろう?』


「“妙に”ってなんですか」


『いや、悪い意味じゃないよ? うん。でだな、今、うちのシンリンオオカミの群れが、どうにもおかしくてだな』


 シンリンオオカミ。

 懐かしい響きに、胸がぴくんと反応する。


『獣医の診察だと、身体的な異常は見つからん。でも餌を食わん奴がいてな。群れから離れて岩場に伏せたまま、昼も夜も動かんのだ』


「ふむ……」


『で、その……君の“勘”? 感性? そういうので、ちょっと見てもらえんだろうか』


 “勘”“感性”。

 羽典園長なりの、最大限の遠回し表現だ。


 ──宗方紬には、なぜか動物の変化がよく見える。

 ──普通の獣医とは、ちょっと違う察し方をする。


 園長の認識は、そのあたりで止まっている。


 実際のところを言えば、わたしには動物たちの“心の声”が聞こえる。

 でも、それを説明したところで、きっと「ほう」と眼鏡を曇らせて終わりだろう。


 だから、否定も肯定もしない。ただ、肩をすくめる。


「……わかりました。少し見てみます」


『おお、助かる! もし明日の午前中が空いているなら──』


「午前中は狂犬病予防接種ラッシュなんで、午後からでもいいですか?」


『君も忙しい身だなぁ。じゃあ、午後一番に頼むよ』


 通話が切れた。

 机の上のカルテが、急に色あせて見えた。


「……シンリンオオカミ、か」


 動物園を辞めてから、半年ちょっと。

 やっと町の猫の顔ぶれに慣れてきたところで、昔の匂いがふっと差し込んでくる。


 ライオンの体温。

 ゾウの足音。

 そして──オオカミの目。


 人でも犬でもない、森の奥の静けさを宿した目。


 胸のどこかが、少しだけきゅっと鳴った。



***



 翌日、午後。

 動物園の正門をくぐると、懐かしい混ざりものの匂いがした。


 ポップコーンと、動物の糞と、乾いた藁の粉。

 人と獣が同じ場所で息をしている独特の空気だ。


「宗方くん!」


 管理棟の前で、羽典園長が手を振っていた。

 以前より少し白髪が増えたけれど、目の奥の少年みたいなきらきらは相変わらずだ。


「お久しぶりです、園長」


「いやぁ、助かったよ。えーと、君のその……なんだ、“動物の心に寄り添う力”?」


「過剰評価ですよ、それ」


「いやいや、うちの若い獣医が皆そう言うんだ。『宗方先輩はちょっとおかしい』と」


「褒めてます?」


「褒めてるとも。……多分」


 軽口を叩きながら、シンリンオオカミ舎へ向かう。


 ガラスの向こうに広がる岩場。

 人工の森。丸太や倒木が配置され、奥には小さな丘。

 その中で、数頭のオオカミが群れになって動いている。


 ──ただ、一頭だけ。


 丘の斜面の中腹、岩陰。

 そこに大きな影が伏せたまま、微動だにしない。


「あれが、クロガネです」


 園長の声が、少し低くなる。


 鉄のような灰黒色の毛並み。

 鋭い耳。厚い肩。

 群れの中でも最大のオス──リーダーだろう。


 なのに、彼は群れに背を向けたまま、遠くを見ている。

 目は開いているが、何も映していない目だ。


「餌もほとんど食わん。夜も、この場所から動かない。若いメスが近づいても、唸りもしない。ただ、そこに“居る”だけでな」


 園長はこめかみを指で押さえる。


「獣医の診察では、内臓も骨も異常なし。血液検査も大きな問題はなかった。だが……『何かがおかしい』という空気だけ、やたらと伝わってくる」


「“空気”ですか」


「ああ。君なら、何かわかるかと思ってな……」


 わたしは返事の代わりに、ガラス越しのクロガネを見つめた。


 視線が合った──ような気がした。


 彼の瞳は暗く、深く、ひどく静かだった。



***



 バックヤードに回り、飼育員専用の観察スペースからクロガネの囲いに入る。

 安全上、リスクのある行動だから、鎮静用の吹き矢銃とトランシーバーがすぐ手に届く位置に置かれる。


「先生、危なくなったらすぐ呼んでくださいね」


 若い飼育員が緊張気味に言う。

 わたしは覆いフェンスの扉の前で深呼吸を一つして、中へ足を踏み入れた。


 土の匂い。乾いた藁。古い肉の残り香。

 フェンスの向こうで、他のオオカミたちが遠巻きにこちらを見ている。


 クロガネはやはり岩場の中腹に伏せていた。

 耳がほんの少しこちらを向く。


「こんにちは。クロガネ」


 返事はない。

 ただ、その周囲だけ空気の色が違って見えた。


 ゆっくりと距離をつめ、少し離れた場所にしゃがみ込む。

 風上に立たないように──昔身体で覚えたルールを思い出しながら。


 目を閉じて、呼吸を合わせる。


 ──その瞬間、胸の中に重たい何かが、どぷり、と落ちてきた。


『……俺は、もう守れねぇ』


 低く、掠れた声。

 喉の奥でつっかえたような、自分の耳を疑いたくなるような絶望。


『群れも、あの子も。吠える資格もねぇ』


 クロガネの目が、わずかに細くなる。


 彼の身体から伝わるのは、病気ではない。

 折れた誇りと、自分への嫌悪だった。


 わたしは知らないふりをして、淡々と表面の診察もする。

 歯、粘膜、関節の可動域。体温。脈。


 ──どこもおかしくない。


 だからこそ、余計に苦しかった。



***



 その日の夕方、オオカミ舎の前がざわついた。


「先生! また来てます! 例の女の子!」


 若い飼育員が駆け込んでくる。

 「例の女の子?」と首を傾げながら、一緒にガラス前に向かうと……いた。


 真っ赤なフード付きのマント。

 赤いフードから覗く、肩までの黒髪。

 よく見ると、下は普通のワンピースにタイツなのに、上だけ絵本から抜け出したみたいな赤ずきん装備。


 そして手には、小さなバスケット。


 ──おとぎ話から、そのまま迷い込んだような子が、オオカミ舎のガラスの前に立っていた。


 飼育員が耳打ちする。


「毎週来てるんですよ。“クロガネさんにお菓子あげるの”って。今日は“元気になるおまじない持ってきたの”って言ってましたけど……」


「……どうして、この格好?」


「それがわからなくて……赤ずきんごっこなのかと」


 わたしは少女の横にしゃがみこんだ。


「こんにちは。赤ずきんちゃん?」


 少女がぱちんと目を瞬かせる。


「え? これ?」


 自分のフードをつまんで、くるっと回ってみせる。


「保育園でね、“童話ごっこの日”があったの。お母さんが作ってくれて、“あかねが一番似合う”って言ったから。だから、毎日着てるの」


「毎日?」


「うん。お気に入り」


 (なるほど。オオカミに合わせたコスプレじゃなく、本人の中では“普段着の最上位版”なんだ……)


 赤ずきんちゃんは、そういう理由でここに立っていた。

 世界って、案外そういうものでできている。


「お名前、聞いてもいい?」


「あかね。須藤あかね」


 バスケットの中を覗かせてもらうと、小さなクッキーがぎっしり詰まっていた。

 ところどころ形が崩れているのは、小さな手で一生懸命型抜きした証拠だ。


「それ、クロガネに?」


「うん」


 あかねちゃんは、ガラスの向こうの岩場を見つめる。


「クロガネ、最近ぜんぜん笑わないんだよ。いつも、あの石のところにいる」


「笑わない、か」


「前はね、もっと、こう……目がキラってしてたの。“おぉ、来たか”って顔してた」


 指で自分の目を吊り上げてみせる。

 なかなか通な表現だ。


「風邪ひいたのかな……それとも、私がなんか、したのかな」


 その言葉に、胸がざわっと波打った。


(──ああ。この子の中にも、“守れなかった”何かが引っかかっているんだ)


 クロガネの声と、少女の声。

 どちらも、同じ場所をさすっているような震えを帯びていた。



***



 閉園後、園長の許可をもらい、再びクロガネのそばへ。


 今度は、麻酔を少しだけ使わせてもらうことにした。

 完全に眠らせるのではなく、ごく軽く意識をぼやかす程度。

 身体に触れながら、心の奥の声にも少し深く潜り込む。


 額に手を置くと、ぬるい体温が伝わった。


『あの子を、守ろうとしたんだ』


 ふいに、断片的な映像が流れ込んでくる。


 ──日差しの強い午後。

 ──ガラスの向こう側で、小さな赤い影が走って転ぶ。

 ──膝から血がにじむ。泣き声。


 クロガネはその声に反応して、立ち上がる。


『泣いてたから……ただ、そばにいただけなのに』


 ガラスのぎりぎりまで近づき、じっと少女を見つめていた。


 オオカミが、群れの子どもを見るような目で。


 ガラス越しに鼻を近づけ、地面に伏せて目線を合わせ、じっと静かに待っていた。


『あの子の匂いが、“仲間の子ども”みたいで』


 たぶん、それだけのことだった。


 ──そこへ、飼育員が走ってくる。

 ──慌てた声。

 ──少女を抱き上げ、オオカミを大声で叱る。


『俺は……怒られた』


 クロガネの喉が小さく鳴る。


『“威嚇するな”“怖がらせるな”って。あの子が怖がってるって、そう言われた』


 違う、と彼は言いたかったのだろう。


 ──だけど、人の言葉は届かない。

 ──吠えても、「吠えた」という事実しか伝わらない。


『違う……怖がられてなんかねぇ……俺は……。……俺は……』


 声が、そこで途切れた。


 代わりに押し寄せてきたのは、濃い静寂だ。

 自分に対する、ひどく冷たい諦め。


『もう、守れねぇ。守ろうとして、怒られるのなら……。吠える資格なんか、いらねぇ』


 オオカミが、自分から“牙”をしまい込んだ瞬間。


 その重みが、手のひらから胸の奥へと伝わってきた。


 わたしはそっとクロガネの耳の後ろを撫でた。


「……守ろうとしてたの、ちゃんと伝えなきゃね」


 彼にはわからなくても、わたしには言えた。



***



 翌日、赤ずきんちゃん──あかねちゃんが来るのを、わたしは待った。


 開園から一時間後、案の定、赤いフードが人混みの中をぴょこぴょこ揺れてやってくる。


「こんにちは、あかねちゃん」


「……あ、昨日のおねえさんだ」


 “おねえさん”と呼ばれたので、全力で肯定しておく。


「ねぇ、前にここで、転んで泣いちゃったことある?」


 あかねちゃんの体がぴたりと止まった。

 フードの陰で、目が泳ぐ。


 しばらく黙ってから、こくんと小さくうなずいた。


「……うん。ある」


「そのとき、クロガネはどうしてた?」


 あかねちゃんは、両手でバスケットをぎゅっと抱きしめる。


「近くにきて、ずっと見てた。ガラスを“こんこん”ってしたら、くんくんしてて。怖く……なかった」


「誰かに、怒られた?」


 少し間があってから、「うん」と口が動く。


「知らないおじさんに、“危ないから離れなさい”って言われて。“オオカミが怖いなら来るな”って」


 小さな指が、マントの端をきゅっとつまむ。


「……怖くなかったのに。守ってくれたって、言いたかったのに。“怖くないです”って、言えなかった」


 悔しさと、自分への怒りと、申し訳なさ。


 あかねちゃんはまだ幼い。

 大人の言葉の勢いの前で、何も言えなくなるのは当然だ。


 それでも、彼女はずっと気にしていた。


「だから、お礼を言いたいの。“こわくなかったよ”って」


 バスケットのふたを開ける。

 中のクッキーが、ほんの少し震えた。


 ──クロガネが欲しがっているのは、きっとお菓子じゃない。

 でも、この子の中で形になった“ありがとう”は、たしかにそこにある。


「ねぇ、あかねちゃん」


 わたしは笑って言った。


「クロガネに、ちゃんと伝えようか。“こわくなかったよ”って。“ありがとう”って」


「……伝わる?」


「うん。ちょっと工夫は必要だけどね」



***



 安全管理の会議は、案外すんなり通った。


「オオカミの異常行動の改善が目的ですから」

「危険がないよう、距離と遮蔽物は確保します」

「“特別観察プログラム”という名目にすれば、教育的効果もありますし」


 羽典園長が嬉々としてプレゼンしてくれたおかげで、むしろ上層部の反応は上々だった。

 さすが、動物のためとなれば妙に行動力を発揮する人だ。


 結果として、透明の厚いアクリル壁を挟んだうえで、通常より少しだけ近い場所での“特別面会”が設定された。


 クロガネとの距離は約十メートル。

 オオカミ側には、逃げ場となる岩場と木陰。

 人間側は、柵とアクリルで完全に保護されたスペース。


「……ほんとに、いいの?」


 あかねちゃんが、赤いフードを握ったまま、不安そうにわたしを見る。


「うん。クロガネも、会いたいと思ってるから」


 嘘じゃない。

 昨晩、フェンス越しに声をかけたとき、クロガネは微かに尻尾を動かした。


 ──『あの赤いちっこいのは、もう来ないのか』


 不器用なセリフだったけど、充分だ。


 あかねちゃんは、バスケットを抱え直してアクリルの前に立った。


 合図と同時に、飼育員が奥の扉を開ける。

 クロガネが、ゆっくりと姿を現した。


 痩せてはいるが、堂々としたシルエット。

 彼は一度こちらをちらりと見て、それから視線を落とす。


 あかねちゃんが小さな声でつぶやく。


「……クロガネ」


 フードが、かすかに揺れる。


「この前は、ごめんなさい。ちゃんと言えなくて、ごめんなさい」


 声が、アクリルを震わせる。


「怖くなかったよ。クロガネ、ずっとそばにいてくれたから。わたし、嬉しかったの」


 風が、ふっと向きを変えた。


 クロガネの耳がぴくりと動く。


 彼の胸から、かすかなざわめきが伝わってくる。


『……嫌われて、なかった……?』


 紬、と呼ばれたような気がして、わたしは小さくうなずいた。


「うん。嫌われてなかったよ。──ね、あかねちゃん」


「うん!」


 あかねちゃんは、アクリルに手をぺたりと当てる。


「クロガネは、森のヒーローなんだよ。赤ずきんちゃん、助けてくれたヒーロー」


 ふしぎな沈黙が流れる。


 クロガネがゆっくりと顔を上げた。

 耳が前に向く。


 そして──ごく、ごくかすかに。


 クロガネの尾が、左右に一度、揺れた。


 オオカミにとって、それは“精一杯の笑顔”みたいなものだ。

 牙をむかない。吠えない。

 ただ、そこに立って、尾を振る。


 アクリルに鼻先を近づけて、くんと一度だけ匂いを嗅ぐ。


『……そうか』


 低く、ささやくような声が胸に落ちた。


『俺は、守れたのか』


 あかねちゃんは、その瞬間を逃さなかった。


「ねぇ、また来てもいい?」


 クロガネは答えない。

 代わりに、少しだけ首をかしげた。


 それだけで十分だった。



***



 その数日後。


 オオカミ舎の前を通ると、クロガネの姿は岩場ではなく、群れの真ん中にあった。


 若いオスとじゃれあう。

 メスに鼻を寄せて歩調を合わせる。

 岩の上に立ち、遠くを眺める。


 リーダーの位置に、彼は戻っていた。


「……見違えましたね」


 隣で、園長がしみじみと言う。


「餌もまたよく食べるようになったし、夜間の巡回でも、以前のように群れを引っ張って歩いています。いやぁ、やはり宗方くんは不思議な子だな。動物の気持ちに、妙に寄り添うというか」


「“妙に”は、ほんとやめてほしいです」


「いや、他に言い方が思いつかんのだよ。君の、その……“動物の気配を読むセンサー”? “心を察知するアンテナ”?」


「余計に電波っぽいです」


 わざとらしく肩をすくめると、園長は笑った。


「詳しいことは聞かんよ。科学的に説明できようができまいが、動物が元気になれば、それでいい」


「そうですね」


「それに何より、あの赤ずきんちゃんのおかげだな。“元気になるおまじない”は効いたというわけだ」


「ええ。きっと」


 クロガネが遠くからこちらをちらりと見た。


 その目は、もう“何も映さない目”ではなかった。


『赤いちっこい森……また来るかな』


 こんどは、ほんの少しだけ柔らかい声で。


 わたしは小さく手を振った。


「──来るよ、多分。

 森は、勝手に歩いてくるからね」



***



 夕方。動物園の駐車場。


 車に乗り込もうとしたところで、スマホが震えた。

 画面には「須藤さん」の文字。


 あかねちゃんのお母さんだ。


《今日は、ありがとうございました。

 娘がね、“クロガネさんは森のヒーローなんだよ”って、ずっと言ってます》


 ──森のヒーロー。


 いいな、それ。


 クロガネの声が、風の隙間から聞こえた気がした。


『……俺は、もう守れねぇ』


 昨日までの、沈んだ声。


 それが、今は少し違う響きで重なる。


『守れたんだな』


 誰にも聞こえないつぶやき。

 だけど、たしかにそこにある誇りの戻る音。


 エンジンをかけると、夕焼けの空がフロントガラスいっぱいに広がった。

 オレンジと薄紫の境目に、雲がゆっくり流れていく。


 ふっと、何かがよぎる。


 赤いフードの小さな後ろ姿。

 その向こうで、灰色の影が静かに立っている絵。


 ──ほんの少しだけ、森の匂いがした。


「よかったね、クロガネ」


 ハンドルに手を置いたまま、ぽつりとつぶやく。


「守りたかったものが、ちゃんと守れてたってわかるとさ……。人間もオオカミも、ちょっとだけ前を向けるんだよ」


 宗方動物病院の看板には、“命と心をつなぐ場所”と書いてある。


 でも、たぶんそれだけじゃ足りない。

 時々は、“折れた誇りを拾い直す場所”にもならなきゃいけない。


 動物園でも、町の小さな病院でも。

 森でも、ガラス越しの世界でも。


 赤いずきんの中に、小さな森があって。

 その森を、オオカミが見つけて。

 わたしは、その間にほんの少し手を差し出すだけ。


 ──それで、充分だ。


 アクセルを踏むと、夕焼けの中へ車が滑り出した。

 バックミラーの向こう、園の森がゆっくり遠ざかっていく。


 その中から、かすかな遠吠えが聞こえた気がした。


『小さな赤い森、また来いよ』



「そのうち、うちの病院にも来るかもよ」


 冗談みたいにそう返して、わたしは笑った。


 秋の風が窓ガラスを撫でていく。

 どこかで、小さな赤い影が、フードを揺らして走っている気がした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ