カルテ24、憂鬱な森林狼と赤ずきんちゃん
動物病院のカルテ整理って、ちょっとした“発掘作業”みたいなところがある。
──あ、平成何年のフィラリア検査。
──この子、昔はこんなに太ってたのか。
ノートパソコンの光と、紙のカルテのインク。
夕方六時半。診察が一段落して、待合室の明かりだけが柔らかく残っている時間帯だった。
机の端に積み上がったカルテの山にため息をついたところで、スマホがぶるっと震えた。
表示された名前を見て、思わず吹き出す。
「……羽典園長?」
前の職場──市立動物園の園長さん。
わたしがまだ若手獣医として、ライオンやゾウに振り回されていた頃の上司だ。
通話ボタンを押すと、懐かしい声が耳をくすぐった。
『もしもし、宗方くん? 今、大丈夫かね?』
「はい。カルテと格闘中ですけど。どうかしました?」
受話器の向こうで、園長が小さく咳払いをする。
あ、この感じ……何かあるときの声だ。
『あー……そのだな。君は昔から、動物の変化に、ほら、“妙に”気づくタイプだったろう?』
「“妙に”ってなんですか」
『いや、悪い意味じゃないよ? うん。でだな、今、うちのシンリンオオカミの群れが、どうにもおかしくてだな』
シンリンオオカミ。
懐かしい響きに、胸がぴくんと反応する。
『獣医の診察だと、身体的な異常は見つからん。でも餌を食わん奴がいてな。群れから離れて岩場に伏せたまま、昼も夜も動かんのだ』
「ふむ……」
『で、その……君の“勘”? 感性? そういうので、ちょっと見てもらえんだろうか』
“勘”“感性”。
羽典園長なりの、最大限の遠回し表現だ。
──宗方紬には、なぜか動物の変化がよく見える。
──普通の獣医とは、ちょっと違う察し方をする。
園長の認識は、そのあたりで止まっている。
実際のところを言えば、わたしには動物たちの“心の声”が聞こえる。
でも、それを説明したところで、きっと「ほう」と眼鏡を曇らせて終わりだろう。
だから、否定も肯定もしない。ただ、肩をすくめる。
「……わかりました。少し見てみます」
『おお、助かる! もし明日の午前中が空いているなら──』
「午前中は狂犬病予防接種ラッシュなんで、午後からでもいいですか?」
『君も忙しい身だなぁ。じゃあ、午後一番に頼むよ』
通話が切れた。
机の上のカルテが、急に色あせて見えた。
「……シンリンオオカミ、か」
動物園を辞めてから、半年ちょっと。
やっと町の猫の顔ぶれに慣れてきたところで、昔の匂いがふっと差し込んでくる。
ライオンの体温。
ゾウの足音。
そして──オオカミの目。
人でも犬でもない、森の奥の静けさを宿した目。
胸のどこかが、少しだけきゅっと鳴った。
***
翌日、午後。
動物園の正門をくぐると、懐かしい混ざりものの匂いがした。
ポップコーンと、動物の糞と、乾いた藁の粉。
人と獣が同じ場所で息をしている独特の空気だ。
「宗方くん!」
管理棟の前で、羽典園長が手を振っていた。
以前より少し白髪が増えたけれど、目の奥の少年みたいなきらきらは相変わらずだ。
「お久しぶりです、園長」
「いやぁ、助かったよ。えーと、君のその……なんだ、“動物の心に寄り添う力”?」
「過剰評価ですよ、それ」
「いやいや、うちの若い獣医が皆そう言うんだ。『宗方先輩はちょっとおかしい』と」
「褒めてます?」
「褒めてるとも。……多分」
軽口を叩きながら、シンリンオオカミ舎へ向かう。
ガラスの向こうに広がる岩場。
人工の森。丸太や倒木が配置され、奥には小さな丘。
その中で、数頭のオオカミが群れになって動いている。
──ただ、一頭だけ。
丘の斜面の中腹、岩陰。
そこに大きな影が伏せたまま、微動だにしない。
「あれが、クロガネです」
園長の声が、少し低くなる。
鉄のような灰黒色の毛並み。
鋭い耳。厚い肩。
群れの中でも最大のオス──リーダーだろう。
なのに、彼は群れに背を向けたまま、遠くを見ている。
目は開いているが、何も映していない目だ。
「餌もほとんど食わん。夜も、この場所から動かない。若いメスが近づいても、唸りもしない。ただ、そこに“居る”だけでな」
園長はこめかみを指で押さえる。
「獣医の診察では、内臓も骨も異常なし。血液検査も大きな問題はなかった。だが……『何かがおかしい』という空気だけ、やたらと伝わってくる」
「“空気”ですか」
「ああ。君なら、何かわかるかと思ってな……」
わたしは返事の代わりに、ガラス越しのクロガネを見つめた。
視線が合った──ような気がした。
彼の瞳は暗く、深く、ひどく静かだった。
***
バックヤードに回り、飼育員専用の観察スペースからクロガネの囲いに入る。
安全上、リスクのある行動だから、鎮静用の吹き矢銃とトランシーバーがすぐ手に届く位置に置かれる。
「先生、危なくなったらすぐ呼んでくださいね」
若い飼育員が緊張気味に言う。
わたしは覆いフェンスの扉の前で深呼吸を一つして、中へ足を踏み入れた。
土の匂い。乾いた藁。古い肉の残り香。
フェンスの向こうで、他のオオカミたちが遠巻きにこちらを見ている。
クロガネはやはり岩場の中腹に伏せていた。
耳がほんの少しこちらを向く。
「こんにちは。クロガネ」
返事はない。
ただ、その周囲だけ空気の色が違って見えた。
ゆっくりと距離をつめ、少し離れた場所にしゃがみ込む。
風上に立たないように──昔身体で覚えたルールを思い出しながら。
目を閉じて、呼吸を合わせる。
──その瞬間、胸の中に重たい何かが、どぷり、と落ちてきた。
『……俺は、もう守れねぇ』
低く、掠れた声。
喉の奥でつっかえたような、自分の耳を疑いたくなるような絶望。
『群れも、あの子も。吠える資格もねぇ』
クロガネの目が、わずかに細くなる。
彼の身体から伝わるのは、病気ではない。
折れた誇りと、自分への嫌悪だった。
わたしは知らないふりをして、淡々と表面の診察もする。
歯、粘膜、関節の可動域。体温。脈。
──どこもおかしくない。
だからこそ、余計に苦しかった。
***
その日の夕方、オオカミ舎の前がざわついた。
「先生! また来てます! 例の女の子!」
若い飼育員が駆け込んでくる。
「例の女の子?」と首を傾げながら、一緒にガラス前に向かうと……いた。
真っ赤なフード付きのマント。
赤いフードから覗く、肩までの黒髪。
よく見ると、下は普通のワンピースにタイツなのに、上だけ絵本から抜け出したみたいな赤ずきん装備。
そして手には、小さなバスケット。
──おとぎ話から、そのまま迷い込んだような子が、オオカミ舎のガラスの前に立っていた。
飼育員が耳打ちする。
「毎週来てるんですよ。“クロガネさんにお菓子あげるの”って。今日は“元気になるおまじない持ってきたの”って言ってましたけど……」
「……どうして、この格好?」
「それがわからなくて……赤ずきんごっこなのかと」
わたしは少女の横にしゃがみこんだ。
「こんにちは。赤ずきんちゃん?」
少女がぱちんと目を瞬かせる。
「え? これ?」
自分のフードをつまんで、くるっと回ってみせる。
「保育園でね、“童話ごっこの日”があったの。お母さんが作ってくれて、“あかねが一番似合う”って言ったから。だから、毎日着てるの」
「毎日?」
「うん。お気に入り」
(なるほど。オオカミに合わせたコスプレじゃなく、本人の中では“普段着の最上位版”なんだ……)
赤ずきんちゃんは、そういう理由でここに立っていた。
世界って、案外そういうものでできている。
「お名前、聞いてもいい?」
「あかね。須藤あかね」
バスケットの中を覗かせてもらうと、小さなクッキーがぎっしり詰まっていた。
ところどころ形が崩れているのは、小さな手で一生懸命型抜きした証拠だ。
「それ、クロガネに?」
「うん」
あかねちゃんは、ガラスの向こうの岩場を見つめる。
「クロガネ、最近ぜんぜん笑わないんだよ。いつも、あの石のところにいる」
「笑わない、か」
「前はね、もっと、こう……目がキラってしてたの。“おぉ、来たか”って顔してた」
指で自分の目を吊り上げてみせる。
なかなか通な表現だ。
「風邪ひいたのかな……それとも、私がなんか、したのかな」
その言葉に、胸がざわっと波打った。
(──ああ。この子の中にも、“守れなかった”何かが引っかかっているんだ)
クロガネの声と、少女の声。
どちらも、同じ場所をさすっているような震えを帯びていた。
***
閉園後、園長の許可をもらい、再びクロガネのそばへ。
今度は、麻酔を少しだけ使わせてもらうことにした。
完全に眠らせるのではなく、ごく軽く意識をぼやかす程度。
身体に触れながら、心の奥の声にも少し深く潜り込む。
額に手を置くと、ぬるい体温が伝わった。
『あの子を、守ろうとしたんだ』
ふいに、断片的な映像が流れ込んでくる。
──日差しの強い午後。
──ガラスの向こう側で、小さな赤い影が走って転ぶ。
──膝から血がにじむ。泣き声。
クロガネはその声に反応して、立ち上がる。
『泣いてたから……ただ、そばにいただけなのに』
ガラスのぎりぎりまで近づき、じっと少女を見つめていた。
オオカミが、群れの子どもを見るような目で。
ガラス越しに鼻を近づけ、地面に伏せて目線を合わせ、じっと静かに待っていた。
『あの子の匂いが、“仲間の子ども”みたいで』
たぶん、それだけのことだった。
──そこへ、飼育員が走ってくる。
──慌てた声。
──少女を抱き上げ、オオカミを大声で叱る。
『俺は……怒られた』
クロガネの喉が小さく鳴る。
『“威嚇するな”“怖がらせるな”って。あの子が怖がってるって、そう言われた』
違う、と彼は言いたかったのだろう。
──だけど、人の言葉は届かない。
──吠えても、「吠えた」という事実しか伝わらない。
『違う……怖がられてなんかねぇ……俺は……。……俺は……』
声が、そこで途切れた。
代わりに押し寄せてきたのは、濃い静寂だ。
自分に対する、ひどく冷たい諦め。
『もう、守れねぇ。守ろうとして、怒られるのなら……。吠える資格なんか、いらねぇ』
オオカミが、自分から“牙”をしまい込んだ瞬間。
その重みが、手のひらから胸の奥へと伝わってきた。
わたしはそっとクロガネの耳の後ろを撫でた。
「……守ろうとしてたの、ちゃんと伝えなきゃね」
彼にはわからなくても、わたしには言えた。
***
翌日、赤ずきんちゃん──あかねちゃんが来るのを、わたしは待った。
開園から一時間後、案の定、赤いフードが人混みの中をぴょこぴょこ揺れてやってくる。
「こんにちは、あかねちゃん」
「……あ、昨日のおねえさんだ」
“おねえさん”と呼ばれたので、全力で肯定しておく。
「ねぇ、前にここで、転んで泣いちゃったことある?」
あかねちゃんの体がぴたりと止まった。
フードの陰で、目が泳ぐ。
しばらく黙ってから、こくんと小さくうなずいた。
「……うん。ある」
「そのとき、クロガネはどうしてた?」
あかねちゃんは、両手でバスケットをぎゅっと抱きしめる。
「近くにきて、ずっと見てた。ガラスを“こんこん”ってしたら、くんくんしてて。怖く……なかった」
「誰かに、怒られた?」
少し間があってから、「うん」と口が動く。
「知らないおじさんに、“危ないから離れなさい”って言われて。“オオカミが怖いなら来るな”って」
小さな指が、マントの端をきゅっとつまむ。
「……怖くなかったのに。守ってくれたって、言いたかったのに。“怖くないです”って、言えなかった」
悔しさと、自分への怒りと、申し訳なさ。
あかねちゃんはまだ幼い。
大人の言葉の勢いの前で、何も言えなくなるのは当然だ。
それでも、彼女はずっと気にしていた。
「だから、お礼を言いたいの。“こわくなかったよ”って」
バスケットのふたを開ける。
中のクッキーが、ほんの少し震えた。
──クロガネが欲しがっているのは、きっとお菓子じゃない。
でも、この子の中で形になった“ありがとう”は、たしかにそこにある。
「ねぇ、あかねちゃん」
わたしは笑って言った。
「クロガネに、ちゃんと伝えようか。“こわくなかったよ”って。“ありがとう”って」
「……伝わる?」
「うん。ちょっと工夫は必要だけどね」
***
安全管理の会議は、案外すんなり通った。
「オオカミの異常行動の改善が目的ですから」
「危険がないよう、距離と遮蔽物は確保します」
「“特別観察プログラム”という名目にすれば、教育的効果もありますし」
羽典園長が嬉々としてプレゼンしてくれたおかげで、むしろ上層部の反応は上々だった。
さすが、動物のためとなれば妙に行動力を発揮する人だ。
結果として、透明の厚いアクリル壁を挟んだうえで、通常より少しだけ近い場所での“特別面会”が設定された。
クロガネとの距離は約十メートル。
オオカミ側には、逃げ場となる岩場と木陰。
人間側は、柵とアクリルで完全に保護されたスペース。
「……ほんとに、いいの?」
あかねちゃんが、赤いフードを握ったまま、不安そうにわたしを見る。
「うん。クロガネも、会いたいと思ってるから」
嘘じゃない。
昨晩、フェンス越しに声をかけたとき、クロガネは微かに尻尾を動かした。
──『あの赤いちっこいのは、もう来ないのか』
不器用なセリフだったけど、充分だ。
あかねちゃんは、バスケットを抱え直してアクリルの前に立った。
合図と同時に、飼育員が奥の扉を開ける。
クロガネが、ゆっくりと姿を現した。
痩せてはいるが、堂々としたシルエット。
彼は一度こちらをちらりと見て、それから視線を落とす。
あかねちゃんが小さな声でつぶやく。
「……クロガネ」
フードが、かすかに揺れる。
「この前は、ごめんなさい。ちゃんと言えなくて、ごめんなさい」
声が、アクリルを震わせる。
「怖くなかったよ。クロガネ、ずっとそばにいてくれたから。わたし、嬉しかったの」
風が、ふっと向きを変えた。
クロガネの耳がぴくりと動く。
彼の胸から、かすかなざわめきが伝わってくる。
『……嫌われて、なかった……?』
紬、と呼ばれたような気がして、わたしは小さくうなずいた。
「うん。嫌われてなかったよ。──ね、あかねちゃん」
「うん!」
あかねちゃんは、アクリルに手をぺたりと当てる。
「クロガネは、森のヒーローなんだよ。赤ずきんちゃん、助けてくれたヒーロー」
ふしぎな沈黙が流れる。
クロガネがゆっくりと顔を上げた。
耳が前に向く。
そして──ごく、ごくかすかに。
クロガネの尾が、左右に一度、揺れた。
オオカミにとって、それは“精一杯の笑顔”みたいなものだ。
牙をむかない。吠えない。
ただ、そこに立って、尾を振る。
アクリルに鼻先を近づけて、くんと一度だけ匂いを嗅ぐ。
『……そうか』
低く、ささやくような声が胸に落ちた。
『俺は、守れたのか』
あかねちゃんは、その瞬間を逃さなかった。
「ねぇ、また来てもいい?」
クロガネは答えない。
代わりに、少しだけ首をかしげた。
それだけで十分だった。
***
その数日後。
オオカミ舎の前を通ると、クロガネの姿は岩場ではなく、群れの真ん中にあった。
若いオスとじゃれあう。
メスに鼻を寄せて歩調を合わせる。
岩の上に立ち、遠くを眺める。
リーダーの位置に、彼は戻っていた。
「……見違えましたね」
隣で、園長がしみじみと言う。
「餌もまたよく食べるようになったし、夜間の巡回でも、以前のように群れを引っ張って歩いています。いやぁ、やはり宗方くんは不思議な子だな。動物の気持ちに、妙に寄り添うというか」
「“妙に”は、ほんとやめてほしいです」
「いや、他に言い方が思いつかんのだよ。君の、その……“動物の気配を読むセンサー”? “心を察知するアンテナ”?」
「余計に電波っぽいです」
わざとらしく肩をすくめると、園長は笑った。
「詳しいことは聞かんよ。科学的に説明できようができまいが、動物が元気になれば、それでいい」
「そうですね」
「それに何より、あの赤ずきんちゃんのおかげだな。“元気になるおまじない”は効いたというわけだ」
「ええ。きっと」
クロガネが遠くからこちらをちらりと見た。
その目は、もう“何も映さない目”ではなかった。
『赤いちっこい森……また来るかな』
こんどは、ほんの少しだけ柔らかい声で。
わたしは小さく手を振った。
「──来るよ、多分。
森は、勝手に歩いてくるからね」
***
夕方。動物園の駐車場。
車に乗り込もうとしたところで、スマホが震えた。
画面には「須藤さん」の文字。
あかねちゃんのお母さんだ。
《今日は、ありがとうございました。
娘がね、“クロガネさんは森のヒーローなんだよ”って、ずっと言ってます》
──森のヒーロー。
いいな、それ。
クロガネの声が、風の隙間から聞こえた気がした。
『……俺は、もう守れねぇ』
昨日までの、沈んだ声。
それが、今は少し違う響きで重なる。
『守れたんだな』
誰にも聞こえないつぶやき。
だけど、たしかにそこにある誇りの戻る音。
エンジンをかけると、夕焼けの空がフロントガラスいっぱいに広がった。
オレンジと薄紫の境目に、雲がゆっくり流れていく。
ふっと、何かがよぎる。
赤いフードの小さな後ろ姿。
その向こうで、灰色の影が静かに立っている絵。
──ほんの少しだけ、森の匂いがした。
「よかったね、クロガネ」
ハンドルに手を置いたまま、ぽつりとつぶやく。
「守りたかったものが、ちゃんと守れてたってわかるとさ……。人間もオオカミも、ちょっとだけ前を向けるんだよ」
宗方動物病院の看板には、“命と心をつなぐ場所”と書いてある。
でも、たぶんそれだけじゃ足りない。
時々は、“折れた誇りを拾い直す場所”にもならなきゃいけない。
動物園でも、町の小さな病院でも。
森でも、ガラス越しの世界でも。
赤いずきんの中に、小さな森があって。
その森を、オオカミが見つけて。
わたしは、その間にほんの少し手を差し出すだけ。
──それで、充分だ。
アクセルを踏むと、夕焼けの中へ車が滑り出した。
バックミラーの向こう、園の森がゆっくり遠ざかっていく。
その中から、かすかな遠吠えが聞こえた気がした。
『小さな赤い森、また来いよ』
「そのうち、うちの病院にも来るかもよ」
冗談みたいにそう返して、わたしは笑った。
秋の風が窓ガラスを撫でていく。
どこかで、小さな赤い影が、フードを揺らして走っている気がした。




