表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/35

カルテ23、迷鳥アネハヅルと水田(後編)




 水田の「軽トラ出すよ」という一言は、思いがけず町の空気を動かした。


 最初にやって来たのは、木工所の職人・田ノ上さんだ。

 腕組みしたまま病院の裏口に現れ、アネハヅルの様子を一瞥すると、無言で私の横にしゃがみ込んだ。


「籠じゃダメだな。揺れたらあの細い首が折れちまいそうだ」


 そう言うと、木の板を指で叩き、耳を澄ますように目を細める。

 何か決めたように立ち上がると、工具箱を肩に担ぎ、工房へ戻っていった。

 言葉は少なくても、背中は妙に頼もしく見えた。



 隣の畑の奥さん・早苗さんは「鳥さん、寒いだろう?」と、手編みの厚い布を抱えてやってきた。


 布を広げると、驚くほど丁寧な縫い目だった。

 指先にはミシンの油が少しついている。夜なべしたのだと分かる。

 その瞳の奥には“守りたい”という気持ちが滲んでいた。


 農協の青年二人は、少し照れた様子で病院に顔を出した。

「ムクドリよけ、余ってる資材ありますから……使ってください」


「本当は、明日の畦の工事に使う予定だったんだけど……まあ、いいです」


 言葉とは裏腹に、二人の手つきは迷いなく、アネハヅルがいる部屋の温度計を確認していた。

 手を止めた青年のひとりが、ふとアネハヅルの首の動きを見て、肩をすくめるように笑う。

「……なんか、目が合いました。あの鳥、わりと顔に出ますね」


 気づけば、病院の裏庭は小さな工房のようになっていた。

 誰に頼まれたわけでもない。

 ただ、一羽の鳥を帰すために、町が静かに動いていた。


 最後に現れたのは、中学生たちだった。

 自転車を並べて止め、息を弾ませながら病院の裏庭へ駆けてくる。


「先生! 軽トラ通す道、石が多かったから……ちょっとどかしておきました!」


「あと、坂んとこぬかるんでたんで、砂利ひいておきました!」


「ありがとう。本当に助かるよ」


 その瞬間、少年たちは顔を見合わせ、胸を張った。

 やりすぎなくらい素直な笑顔が、まるで田んぼの朝日みたいに輝いていた。




 夕方。

 木工所の田ノ上さんが、大きな木箱を軽トラに積み込んだ。


 箱には、鳥を固定しすぎず、しかし揺れを最小限にするための仕掛けがあった。

 風通しのルートも計算されている。


 「こいつぁ、普通に売ったら五万はするぞ」と誰かが言うと、

 田ノ上さんは無言のまま煙草を指先で弾き、笑いもしなかった。


 ただ、アネハヅルに向かって帽子を軽く上げた。

 その仕草が、言葉以上の“応援”に見えた。


 奥さんたちは、保温布を丁寧に箱に敷き詰め、

 農協の青年たちは、揺れを吸収するための麻袋を積み込んだ。


 中学生たちは、箱の下に敷くゴム板を運んでくる。


 みんなの動きが、やけに静かで、息が合っていた。


 まるで誰かの具合を気遣って病室を準備する家族のようだった。


 


 アネハヅルは、そんな光景を箱の中からじっと見ていた。

 目は細められ、ふだんより深い色をしていた。


『……こんなにも……俺のために……風が動くとは……』


 その声は、湿った土に吸い込まれるように小さかったが、

 確かに、誇りと驚きが混ざっていた。




 私はアネハヅルの胸に手を当て、呼吸のリズムを確かめた。


 羽毛の下でわずかに膨らむ胸が、心臓の音に合わせて震えている。

 その震えが、さっきよりも軽く感じた。


 ──守りたい気持ち。

 その気持ちは、声にしなくても、ちゃんと伝わる。


 そう思った瞬間、指先が少し震えた。


 (……父さん、こんなふうに町の人たちと動物を繋いできたんだね)


 胸の奥がじんわり熱くなる。

 説明できない感情が波のように押し寄せ、呼吸が一拍だけ遅れた。




 その日の夜、水田が病院の裏庭に現れた。


 軽トラの前で立ち止まっていた彼は、箱の中のアネハヅルを見るなり眉を寄せた。


「……本当に、これで群れに返せるんだな?」


 声は低い、けれど怒りではない。

 迷いを噛みしめるような声音だった。


 私は頷き、アネハヅルの体にかけていた布を少し整える。


「大丈夫。群れが通る“風の道”まで行ければ、彼は匂いで場所が分かる」


「匂い?」


「人には分からないけど……鳥たちは、空気の粒や湿度の変化、仲間の羽の匂いを拾えるんだって」


 水田は、箱の中のアネハヅルと目を合わせた。

 それはほんの数秒だったが、視線の端に迷いが揺れた。


「……行こう。俺も、親父の跡を守らなきゃなんねぇし。──こいつも、帰る場所が必要なんだろ」


 最後の一言に、私の胸がきゅっと締まった。


 (この人、やっぱり優しい……)




 空がまだ深い藍色に染まっていた。

 霧が田んぼの上を這い、風の通り道だけ白く揺れている。


 軽トラのエンジンがかかる。

 低い振動が地面に伝わり、朝の空気が震える。


 箱の中のアネハヅルが、ふいに首を上げた。

 羽毛がわずかに逆立ち、呼吸が速くなる。


『……風が……変わる……』


「分かるの?」


『仲間が、近くを通るかもしれん……風がそう……言ってる』


 その声は、弱っているはずなのに、不思議なくらい遠くまで届きそうだった。


 私は箱の蓋をそっと閉め、水田を見上げた。


「行こう。風の道へ」


 水田は頷き、アクセルを踏んだ。


 軽トラのヘッドライトが闇を裂く。

 車体がゆっくりと動き出すと、中学生たちが道の端で手を振った。

 奥さんたちは胸の前で手を合わせ、農協の青年たちは帽子を取って軽トラに向けた。


 田ノ上さんは、煙草を指ではじき、静かに頭を下げた。

 その所作は、まるで旅人を送り出す古い儀式のようだった。


 アネハヅルを乗せた軽トラは、やわらかな霧を押し分け、

 朝の気配が満ちてゆく田んぼの道を照らす。


 霧の奥で、風がざわりと揺れた。




 軽トラが田んぼ道を抜けると、空が徐々に明るさを帯び始めた。

 夜と朝の境目は、驚くほど静かだ。


 車体が小さく揺れるたび、荷台の木箱がかすかに軋む。

 私は助手席からその音を聞き、胸に手を当てる。


「大丈夫……?」


 箱の中から、かすれた呼吸の音が返ってきた。

 そのリズムには、不安よりも“待つ者”の緊張があった。


 水田は口を真一文字に結び、前だけを見ている。

 顔はまだ固いが、白んだ空が映るその瞳はどこか強く見えた。


 視界の先に、薄く光る湖の面影が広がっていった。




 湖に近づくにつれ、風の匂いが変わった。

 藻の湿った匂いに混じって、遠くの空気がピンと張り詰めていく。


 軽トラを停めると、アネハヅルの箱がわずかに震えた。


『……ここだ……風が“向こう”へ、流れている……』


 水田が荷台に回り込み、箱の蓋に手を掛ける。

 一瞬だけ、躊躇するように指が止まった。


 その横顔を見て、私は気づいた。


(この人、本当は……鳥を帰すの、少し寂しいのかもしれない)


 けれど次の瞬間、彼は短く息を吐き、慎重に蓋を開けた。




 薄い朝の光が箱の中に差し込み、アネハヅルの羽を浮かび上がらせた。


 鳥がそろりと首を起こす。

 細い脚で身体を支えようとするたび、羽が震える。


 ひとつ、長く息を吐いた。

 それはまるで“覚悟”のようだった。


『……仲間の匂いだ……まだ遠くない』


 言葉と同時に、湖面の奥で風がざわりと揺れた。

 白い霧の間を、空気が一本の線を描くように動いていく。


 アネハヅルの目が、その方向に釘付けになった。


 ──その時だった。




 空の上、薄桃色の朝焼けが広がる。

 その奥に、細く、長い……V字の影。


 羽音はほとんど聞こえない。

 それでも、その形は紛れもない──アネハヅルの群れだ。


 水田が思わず息を呑む。


「……来た。本当に」


 私は胸を押さえた。

 鳥たちが遠くへ去りつつあるその“軌跡”が、まるで星座の線を描くように空に伸びている。


 アネハヅルが、一歩前に出た。




 彼は翼を広げようとする。

 しかし骨折明けの翼は重く、まだ完全には上がらない。


 羽ばたくたび、身体がぶれ、足が水辺の泥に沈む。

 呼吸が荒くなり、肩が上下する。


 水田がたまらず叫んだ。


「無理すんなよ……!」


 私は彼の腕を掴む。


「止めないで……彼、行きたいんだよ」


 アネハヅルは風に向かって顔を上げていた。

 その瞳には焦りではなく、ただひたすら“帰りたい”という祈りが宿っている。


 翼が再び開かれた。

 震える、しかし確かな動き。


 それでも、力が足りない。


 群れはもう、湖上を越えようとしていた。




 その時、水田がアネハヅルの背後に回り、両手を口に添えて叫んだ。


「行けぇぇ!! 帰らなきゃダメなんだろ!! 行けよ、お前……!」


 声が湖に跳ね返り、霧を震わせる。


 その叫びは、鳥に向けたものだけではなかった。

 自分自身に、そして亡くなった父に──

 “俺はやる”と誓うような叫びだった。




 アネハヅルが、走った。


 細い脚で、泥の上を、必死に、必死に。


 水辺の草が飛び散り、足跡が連なる。

 翼が横に大きく広がり、風をつかもうと必死に震える。


 地面を蹴る音が、やがて軽くなった。

 羽根の端が風に持ち上げられ──


 身体が、ふわりと浮く。


 ほとんど滑空に近い。

 でも、そのわずかな浮力を、彼は逃さなかった。


『……仲間よ……待ってろ!!』


 その声と同時に、アネハヅルは湖面すれすれを滑り抜けた。

 水が羽に触れ、光の筋を描く。




 V字の最後尾の一羽が、アネハヅルの叫びに気づいた。

 影が大きく円を描き、空気を切る音が降りてくる。


 鳥が、輪になって迎えに来た。


 アネハヅルは最後の力を振り絞り、上昇気流の端に飛び乗った。

 二羽が並んで風をつかみ、角度を合わせる。


 身体がふっと軽くなり、空へ引き上げられる。


 その姿は、まるで涙のかたちのように細く、美しかった。


 やがて二羽は群れの列に吸い込まれ、V字の最後尾がきゅっと締まる。


 そのとき、空の色が変わった。


 朝焼けが広がり、鳥たちの青い羽が金色に染まる。


 風の道を、群れは北へ向かっていった。




 風が止み、朝の光が静けさを取り戻す。


 私は足元がふらりと揺れ、思わず膝に手をついた。

 胸の奥が熱く、息が震える。


 水田は空を見上げたまま、腕で目元をこすった。


「……すげぇ……ほんとに、帰った……」


 その横顔は、少年のように無邪気だった。

 同時に、どこか父の背中を見ているような影もあった。




 軽トラに戻る途中、私はぽつりと言った。


「帰れるって……すごいことなんだね」


 水田はエンジンキーを握りしめながら、小さく笑った。


「……俺も、帰らねぇとな」


「え?」


「家も、田んぼも……ほっときゃ荒れる。俺も、戻って手ぇ入れなきゃダメなんだ」


 その言葉に、胸が温かくなる。

 責任を“背負う”のではなく、“向き合う”。

 そんな強さが、水田の声には宿っていた。




 病院に戻り、カルテ棚を開く。


 白い紙の匂いが立ち上り、静かな部屋に満ちる。


 私は新しいカルテを書いた。


 ──アネハヅル(迷鳥)

   治癒、群れへ帰還

   町ひとつ、風の道を見送る



 ペン先が止まった瞬間、窓の外で風が鳴る。


 ふと、遠くの空で小さな羽音が聞こえたような気がした。


『……ありがとう。風の匂いを……もう一度、感じられた……』


 私はそっと窓を開けた。


 朝の風は、どこまでも澄んでいた。


 その風の向こうに、青い小さな背中が見えたような気がした。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ