カルテ23、迷鳥アネハヅルと水田(後編)
水田の「軽トラ出すよ」という一言は、思いがけず町の空気を動かした。
最初にやって来たのは、木工所の職人・田ノ上さんだ。
腕組みしたまま病院の裏口に現れ、アネハヅルの様子を一瞥すると、無言で私の横にしゃがみ込んだ。
「籠じゃダメだな。揺れたらあの細い首が折れちまいそうだ」
そう言うと、木の板を指で叩き、耳を澄ますように目を細める。
何か決めたように立ち上がると、工具箱を肩に担ぎ、工房へ戻っていった。
言葉は少なくても、背中は妙に頼もしく見えた。
隣の畑の奥さん・早苗さんは「鳥さん、寒いだろう?」と、手編みの厚い布を抱えてやってきた。
布を広げると、驚くほど丁寧な縫い目だった。
指先にはミシンの油が少しついている。夜なべしたのだと分かる。
その瞳の奥には“守りたい”という気持ちが滲んでいた。
農協の青年二人は、少し照れた様子で病院に顔を出した。
「ムクドリよけ、余ってる資材ありますから……使ってください」
「本当は、明日の畦の工事に使う予定だったんだけど……まあ、いいです」
言葉とは裏腹に、二人の手つきは迷いなく、アネハヅルがいる部屋の温度計を確認していた。
手を止めた青年のひとりが、ふとアネハヅルの首の動きを見て、肩をすくめるように笑う。
「……なんか、目が合いました。あの鳥、わりと顔に出ますね」
気づけば、病院の裏庭は小さな工房のようになっていた。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、一羽の鳥を帰すために、町が静かに動いていた。
最後に現れたのは、中学生たちだった。
自転車を並べて止め、息を弾ませながら病院の裏庭へ駆けてくる。
「先生! 軽トラ通す道、石が多かったから……ちょっとどかしておきました!」
「あと、坂んとこぬかるんでたんで、砂利ひいておきました!」
「ありがとう。本当に助かるよ」
その瞬間、少年たちは顔を見合わせ、胸を張った。
やりすぎなくらい素直な笑顔が、まるで田んぼの朝日みたいに輝いていた。
夕方。
木工所の田ノ上さんが、大きな木箱を軽トラに積み込んだ。
箱には、鳥を固定しすぎず、しかし揺れを最小限にするための仕掛けがあった。
風通しのルートも計算されている。
「こいつぁ、普通に売ったら五万はするぞ」と誰かが言うと、
田ノ上さんは無言のまま煙草を指先で弾き、笑いもしなかった。
ただ、アネハヅルに向かって帽子を軽く上げた。
その仕草が、言葉以上の“応援”に見えた。
奥さんたちは、保温布を丁寧に箱に敷き詰め、
農協の青年たちは、揺れを吸収するための麻袋を積み込んだ。
中学生たちは、箱の下に敷くゴム板を運んでくる。
みんなの動きが、やけに静かで、息が合っていた。
まるで誰かの具合を気遣って病室を準備する家族のようだった。
アネハヅルは、そんな光景を箱の中からじっと見ていた。
目は細められ、ふだんより深い色をしていた。
『……こんなにも……俺のために……風が動くとは……』
その声は、湿った土に吸い込まれるように小さかったが、
確かに、誇りと驚きが混ざっていた。
私はアネハヅルの胸に手を当て、呼吸のリズムを確かめた。
羽毛の下でわずかに膨らむ胸が、心臓の音に合わせて震えている。
その震えが、さっきよりも軽く感じた。
──守りたい気持ち。
その気持ちは、声にしなくても、ちゃんと伝わる。
そう思った瞬間、指先が少し震えた。
(……父さん、こんなふうに町の人たちと動物を繋いできたんだね)
胸の奥がじんわり熱くなる。
説明できない感情が波のように押し寄せ、呼吸が一拍だけ遅れた。
その日の夜、水田が病院の裏庭に現れた。
軽トラの前で立ち止まっていた彼は、箱の中のアネハヅルを見るなり眉を寄せた。
「……本当に、これで群れに返せるんだな?」
声は低い、けれど怒りではない。
迷いを噛みしめるような声音だった。
私は頷き、アネハヅルの体にかけていた布を少し整える。
「大丈夫。群れが通る“風の道”まで行ければ、彼は匂いで場所が分かる」
「匂い?」
「人には分からないけど……鳥たちは、空気の粒や湿度の変化、仲間の羽の匂いを拾えるんだって」
水田は、箱の中のアネハヅルと目を合わせた。
それはほんの数秒だったが、視線の端に迷いが揺れた。
「……行こう。俺も、親父の跡を守らなきゃなんねぇし。──こいつも、帰る場所が必要なんだろ」
最後の一言に、私の胸がきゅっと締まった。
(この人、やっぱり優しい……)
空がまだ深い藍色に染まっていた。
霧が田んぼの上を這い、風の通り道だけ白く揺れている。
軽トラのエンジンがかかる。
低い振動が地面に伝わり、朝の空気が震える。
箱の中のアネハヅルが、ふいに首を上げた。
羽毛がわずかに逆立ち、呼吸が速くなる。
『……風が……変わる……』
「分かるの?」
『仲間が、近くを通るかもしれん……風がそう……言ってる』
その声は、弱っているはずなのに、不思議なくらい遠くまで届きそうだった。
私は箱の蓋をそっと閉め、水田を見上げた。
「行こう。風の道へ」
水田は頷き、アクセルを踏んだ。
軽トラのヘッドライトが闇を裂く。
車体がゆっくりと動き出すと、中学生たちが道の端で手を振った。
奥さんたちは胸の前で手を合わせ、農協の青年たちは帽子を取って軽トラに向けた。
田ノ上さんは、煙草を指ではじき、静かに頭を下げた。
その所作は、まるで旅人を送り出す古い儀式のようだった。
アネハヅルを乗せた軽トラは、やわらかな霧を押し分け、
朝の気配が満ちてゆく田んぼの道を照らす。
霧の奥で、風がざわりと揺れた。
軽トラが田んぼ道を抜けると、空が徐々に明るさを帯び始めた。
夜と朝の境目は、驚くほど静かだ。
車体が小さく揺れるたび、荷台の木箱がかすかに軋む。
私は助手席からその音を聞き、胸に手を当てる。
「大丈夫……?」
箱の中から、かすれた呼吸の音が返ってきた。
そのリズムには、不安よりも“待つ者”の緊張があった。
水田は口を真一文字に結び、前だけを見ている。
顔はまだ固いが、白んだ空が映るその瞳はどこか強く見えた。
視界の先に、薄く光る湖の面影が広がっていった。
湖に近づくにつれ、風の匂いが変わった。
藻の湿った匂いに混じって、遠くの空気がピンと張り詰めていく。
軽トラを停めると、アネハヅルの箱がわずかに震えた。
『……ここだ……風が“向こう”へ、流れている……』
水田が荷台に回り込み、箱の蓋に手を掛ける。
一瞬だけ、躊躇するように指が止まった。
その横顔を見て、私は気づいた。
(この人、本当は……鳥を帰すの、少し寂しいのかもしれない)
けれど次の瞬間、彼は短く息を吐き、慎重に蓋を開けた。
薄い朝の光が箱の中に差し込み、アネハヅルの羽を浮かび上がらせた。
鳥がそろりと首を起こす。
細い脚で身体を支えようとするたび、羽が震える。
ひとつ、長く息を吐いた。
それはまるで“覚悟”のようだった。
『……仲間の匂いだ……まだ遠くない』
言葉と同時に、湖面の奥で風がざわりと揺れた。
白い霧の間を、空気が一本の線を描くように動いていく。
アネハヅルの目が、その方向に釘付けになった。
──その時だった。
空の上、薄桃色の朝焼けが広がる。
その奥に、細く、長い……V字の影。
羽音はほとんど聞こえない。
それでも、その形は紛れもない──アネハヅルの群れだ。
水田が思わず息を呑む。
「……来た。本当に」
私は胸を押さえた。
鳥たちが遠くへ去りつつあるその“軌跡”が、まるで星座の線を描くように空に伸びている。
アネハヅルが、一歩前に出た。
彼は翼を広げようとする。
しかし骨折明けの翼は重く、まだ完全には上がらない。
羽ばたくたび、身体がぶれ、足が水辺の泥に沈む。
呼吸が荒くなり、肩が上下する。
水田がたまらず叫んだ。
「無理すんなよ……!」
私は彼の腕を掴む。
「止めないで……彼、行きたいんだよ」
アネハヅルは風に向かって顔を上げていた。
その瞳には焦りではなく、ただひたすら“帰りたい”という祈りが宿っている。
翼が再び開かれた。
震える、しかし確かな動き。
それでも、力が足りない。
群れはもう、湖上を越えようとしていた。
その時、水田がアネハヅルの背後に回り、両手を口に添えて叫んだ。
「行けぇぇ!! 帰らなきゃダメなんだろ!! 行けよ、お前……!」
声が湖に跳ね返り、霧を震わせる。
その叫びは、鳥に向けたものだけではなかった。
自分自身に、そして亡くなった父に──
“俺はやる”と誓うような叫びだった。
アネハヅルが、走った。
細い脚で、泥の上を、必死に、必死に。
水辺の草が飛び散り、足跡が連なる。
翼が横に大きく広がり、風をつかもうと必死に震える。
地面を蹴る音が、やがて軽くなった。
羽根の端が風に持ち上げられ──
身体が、ふわりと浮く。
ほとんど滑空に近い。
でも、そのわずかな浮力を、彼は逃さなかった。
『……仲間よ……待ってろ!!』
その声と同時に、アネハヅルは湖面すれすれを滑り抜けた。
水が羽に触れ、光の筋を描く。
V字の最後尾の一羽が、アネハヅルの叫びに気づいた。
影が大きく円を描き、空気を切る音が降りてくる。
鳥が、輪になって迎えに来た。
アネハヅルは最後の力を振り絞り、上昇気流の端に飛び乗った。
二羽が並んで風をつかみ、角度を合わせる。
身体がふっと軽くなり、空へ引き上げられる。
その姿は、まるで涙のかたちのように細く、美しかった。
やがて二羽は群れの列に吸い込まれ、V字の最後尾がきゅっと締まる。
そのとき、空の色が変わった。
朝焼けが広がり、鳥たちの青い羽が金色に染まる。
風の道を、群れは北へ向かっていった。
風が止み、朝の光が静けさを取り戻す。
私は足元がふらりと揺れ、思わず膝に手をついた。
胸の奥が熱く、息が震える。
水田は空を見上げたまま、腕で目元をこすった。
「……すげぇ……ほんとに、帰った……」
その横顔は、少年のように無邪気だった。
同時に、どこか父の背中を見ているような影もあった。
軽トラに戻る途中、私はぽつりと言った。
「帰れるって……すごいことなんだね」
水田はエンジンキーを握りしめながら、小さく笑った。
「……俺も、帰らねぇとな」
「え?」
「家も、田んぼも……ほっときゃ荒れる。俺も、戻って手ぇ入れなきゃダメなんだ」
その言葉に、胸が温かくなる。
責任を“背負う”のではなく、“向き合う”。
そんな強さが、水田の声には宿っていた。
病院に戻り、カルテ棚を開く。
白い紙の匂いが立ち上り、静かな部屋に満ちる。
私は新しいカルテを書いた。
──アネハヅル(迷鳥)
治癒、群れへ帰還
町ひとつ、風の道を見送る
ペン先が止まった瞬間、窓の外で風が鳴る。
ふと、遠くの空で小さな羽音が聞こえたような気がした。
『……ありがとう。風の匂いを……もう一度、感じられた……』
私はそっと窓を開けた。
朝の風は、どこまでも澄んでいた。
その風の向こうに、青い小さな背中が見えたような気がした。




