カルテ23、迷鳥アネハヅルと水田(前編)
夜明け前の田んぼというのは、妙に静かなものだ。
生き物の息づかいも、まだ目を覚まさない。
ただ、湿った土の匂いと、遠くで鳴く水路の音だけが、薄暗い空の下に漂っていた。
「先生、田んぼに変な鳥が倒れてるんです」
呼ばれて来たのは、地域の農家の人からだ。
私はまだ白み始めたばかりの水田を見渡した。
霧の中に、細長い影が佇んでいた。
しん……と静まる田んぼのど真ん中。
夜の水面にすらりと伸びた足。
灰青色の羽が、かすかな光を吸って揺れている。
──見たことがある。
いや、動物園で世話したことがある。
「……アネハヅル?」
この町ではまず見ない、はるかユーラシアから渡ってくる“迷鳥”。
その一羽が、ぐったりと首を垂れ、冷えた田んぼの水に浸かっていた。
そっと近づいた瞬間、声が聞こえた。
『……ここじゃ、ない……みんなの……ところへ……帰らなきゃ……』
思わず息をのんだ。
“みんな”──群れのことだろうか。
アネハヅルは長距離をV字飛行で渡る、誇り高い鳥だ。
この時期なら、モンゴルの草原へ向かうはず。
どうして一羽だけ、こんな町の水田に?
病院に運び込むと、彼は弱い呼吸を繰り返していた。
翼は不自然に曲がり、脱水で目が落ちくぼんでいる。
「電線か建物に衝突……骨折もある。相当飛び続けてたんだね」
触れると、羽の奥から声が漏れた。
『……俺が……“先頭”だった……嵐に……負けた……あいつらを……守るって……言ったのに……』
群れの先頭──。
つまり、仲間を導く役目の鳥だったのだ。
強い風の中で若鳥たちをかばい、ひとりだけ沈んだのだろう。
治療をしながら、私は胸が痛くなった。
(……守るって、そんなに全部背負わなくてもいいのに)
そう思ったのは、ほんの少し、自分が重なるせいかもしれない。
父の後を継ぎ、町の動物病院を守れているのか──いつも悩んでいたから。
治療を終えたばかりのアネハヅルを保温していたときだった。
病院の自動ドアが、バンッ、と怒鳴るような音を立てて開いた。
汗と泥にまみれた青年が、息を切らして飛び込んできた。水田悠真──この町で最も若い米農家だ。
「先生! あんた、鳥拾ったってほんとか!」
風に焼けた頬は赤く、顎には細い泥の筋がついている。
夜明け前から田に出ていたのだろう。
彼は私の白衣の裾をつかみそうな勢いで近寄ってきた。
「田んぼが荒らされたんだよ! 苗、踏みつけられて! 珍しい鳥とか、そんな話じゃなくてな……こっちは生活かかってんだ!」
「落ち着いてください。あなたの田んぼを荒らしたのが、彼だとは限りません」
「限らない? そんなにデッカい影が畦近くに倒れてたんだ。そいつの仕業じゃなくて誰がやったって言うんだよ!」
彼の目は怒りというより、恐れに近かった。
(父の病院を継いだとき、私もこんな顔をしていたのかもしれない)
「アネハヅルが苗を荒らすとは思えないよ。嘴の形も違うし、習性も違う。彼は……」
「じゃあ治療したあとどうすんだよ!」
ぴたり、と声が止まった。
私は深呼吸して言う。
「治ったら……野に放すことになる。野鳥だから」
「──放す? この辺に?」
「基本的には、元いた環境に戻すのが……」
「困る! 治療して放されたらまた荒らされる!」
声は震えていた。
怒鳴り声ほど強くない“本音”が混じっている。
「そんな勝手許されるかよ。俺んとこ、今年が勝負なんだ。まだ親父亡くして一年経ってねぇんだよ……!」
それは、ほとんど呟きに近かった。
私はアネハヅルの包帯を確かめながら言った。
「水田さん、気持ちは分かる。でも怪我をしてる。いま放すことはできないの」
彼は唇を噛んだ。
そして壁をにらみつけるようにして、吐き捨てる。
「……納得はしない。けど、一旦帰る。──治ったら絶対、俺に連絡しろ」
靴音が響き、ドアが強く閉まった。
その音が病院に残る静けさを、大きく揺らした。
水田の姿が消えたあと、私はアネハヅルの顔をそっと覗き込んだ。
『……あの若いの、怒ってたな……当たり前か……俺は、落ちた……仲間も守れずに……』
彼の声は砂に埋もれるように弱々しい。
「あなたのせいじゃないよ。嵐だったんでしょ?」
『……先頭は……俺だった……風に……負けた……あいつらを……』
その言葉は、胸の奥を刺した。
まるで、私自身が言っているみたいで。
(父さんの病院を“守る”なんて、私も、そんなに強くないのに)
いつからだろう。
責任という言葉が、私の背中にも重くのしかかるようになったのは。
翌日。
私は一人で問題の水田へ向かった。
朝の光がまだ弱い。
湿気の強い風の中、苗の列はどこか頼りなさげに揺れていた。
「……あれ?」
荒らされた痕が、思ったより広い。
足跡の形が小さい。アネハヅルの長い足とは違う。
ついばんだ跡も尖っていて、嘴の細い鳥の特徴。
(ムクドリだ……)
この町ではよく来る。
群れで降りてきて、苗をついばみ、飛び去る。
私は確信した。
「アネハヅルじゃない。完全にムクドリ……」
手帳にメモをしながら、現場を指でなぞる。
足跡は浅く、多数。
アネハヅルならもっと深く大きな跡がつくはずだ。
胸の奥で、昨日の水田の怒鳴り声が思い出された。
(……彼も、苦しかったんだな)
午後、私は水田の家を訪ねた。
彼は納屋で苗箱を整えていた。泥のついた指で、黙々と苗を並べている。
「水田さん。荒らしたの、アネハヅルじゃなかったよ」
彼の手が止まった。
「……は?」
「ムクドリの群れ。痕跡も足跡も、全部違ってた」
しばらくの沈黙。
そして、ほんの少し震えた声で言う。
「……俺、焦ってたんだな」
「……」
「親父の跡継いで半年。“若造に田が守れるか”って、陰で言われて……何かあれば、自分のせいだって思っちまって……だから、あの鳥を見て……イラついた。治療なんかしないでこのまま──酷い奴だよな……」
彼は顔を伏せた。
私はムクドリ対策の資料を渡した。
「ムクドリは習性で動くから、反射テープやライトで防げる箇所があります。農協さんも協力してくれると思う」
水田は深く息を吐いた。
「……ありがとう。先生、あんた……こういうの慣れてるのか?」
「動物と人の間で誤解が起きると、だいたいどっちも傷つくんだよ」
彼は少し笑った。
でもその後で、眉を寄せて問う。
「で……あの鳥、治ったら放すんだろ?」
「うん。野に返すよ」
「一羽だけで、生きていけるのか?」
その問いには、重さがあった。
群れからはぐれた鳥が、自力で北へ渡ることは──難しい。
「……湖まで、運んでみる?」
水田は驚いたように顔を上げた。
「湖?」
「渡り鳥が風を読む“道”になる場所があるの。そこまで行けば、彼の群れが通る可能性がある」
「……軽トラ、出すよ」
「え?」
「うちのだと揺れが少ない。荷台も広い。……それに俺が運ぶ方が、町の連中にも説明がつく」
その言葉には、不器用な優しさがあった。




