カルテ3、泳ぐ金魚とサラリーマン
動物病院って言っても、持ち込まれるのは犬猫ばかりじゃない。
たまに亀が来たり、インコが来たり、時にはもっと珍しいとハリネズミとかもある。
でも、さすがに金魚が来たのは初めてだった。
午後六時半。閉院時間のチャイムが鳴り終わったころ。
ドアがそっと開いて、くたびれたスーツの男が入ってきた。
四十代半ば。ワイシャツの襟はくたびれ、靴の先には泥。
手にはコンビニの袋。中で、水の入った金魚鉢が揺れていた。
「……すみません、先生。こいつ、ちょっと見てもらえますか」
袋の中には、一匹の金魚。
赤と白の斑が、どこかにじんで見える。
体を横たえ、ひれがかすかに動くだけ。
わたしはすぐに水質を調べた。アンモニア濃度が高い。
「環境が悪くて、酸欠状態ですね。エラが少し焼けてます」
男は黙ってうなずいた。
「そうですか……やっぱり、俺のせいか」
治療って言っても、金魚の場合はできることが限られている。
わたしは酸素の出る水を準備して、薬浴用のタンクを用意した。
金魚をそっと移すと、水面がほのかに揺れた。
そのとき、頭の中で声が聞こえた。
『……ごめんなさい。もう少し、泳ぎたかったな』
弱々しく、泡のように浮かぶ声だった。
わたしは思わず、男の顔を見た。
彼は無言のまま、タンクの水をじっと見つめていた。
――さすがに金魚の声なんて聞こえるはずもない。
でも、彼の表情には、同じ言葉が刻まれてるように見えた。
「どういう経緯で、この子を?」
「……ああ。会社の祭りで、金魚すくいの景品だったんです。みんな飲み会行くって言うから、代わりに持って帰ったんですけどね」
彼は疲れたように笑った。
「うち、誰もいないんですよ。子どもも妻も。だから、なんとなく飼ってみたら……妙に落ち着くっていうか。餌を持って行くと寄って来て顔をじっと見つめて来たりしてね。夜、帰ってきてこいつが泳いでると、音がするんですよ。水の、ぷくぷくって音。あれがあるだけで、部屋が“生きてる”気がして」
その声は、まるで自分に言い聞かせてるようだった。
わたしは静かに金魚のタンクを見つめた。
光の粒が水の中で踊っている。
金魚の尾びれが、わずかに揺れた。
『あの人、泣いてる顔を見たことないの。だから、代わりに泳いであげてたんだよ』
……金魚って、そんなこと考えてるのか。
わたしは思わず笑ってしまった。
小さな命が、大きな孤独を支えてたなんて。
その夜、男はタンクのそばで眠ってしまった。
待合室のソファに腰を預けたまま、腕を組んで。
金魚は静かに泳ぎ続けていた。
深夜、時計が二時を回ったころ。
わたしがカルテの整理をしていると、金魚の声がまたした。
『先生……ねぇ、あの人、まだ夢の中?』
「うん。ぐっすり寝てる」
『そう……じゃあ、もうちょっと泳いでてもいいよね』
「もちろん」
金魚はひれを広げて、水の中をゆっくり回った。
まるで、夜の空を漂っているみたいだった。
その動きが止まったのは、朝の光が差し始めたころ。
静かに、泡が一つ浮かんだ。
――そして、動かなくなった。
男が目を覚ましたのは七時過ぎだった。
わたしは言葉を探したが、何も言えなかった。
彼はすぐに察したようで、タンクを見て、小さくうなずいた。
「……そうか。ありがとう、先生」
「……残念です。昨夜までは、がんばってました」
彼は小さく笑った。
「いや、もう十分です。俺の代わりに、ちゃんと生きてくれたから」
その言葉に、金魚の最後の声が重なる。
『ねぇ先生、あの人、これから笑うかな』
――きっと、笑うよ。
時間はかかるけど、あなたが泳いだ跡が、水の中に残ってるから。
男は、タンクの中の金魚をそっと見つめたあと、
「うちのベランダに、小さな鉢があります。そこに……」
と言って、抱えて帰っていった。
背中が、どこか軽くなっているように見えた。
病院の扉が閉まると、部屋が静まり返った。
わたしはタンクの跡に残った水の輪を指でなぞった。
金魚の声が、かすかに聞こえる。
『先生、ありがとう。水って、思い出が溶けるんだね』
「うん。溶けるけど、なくならないんだよ」
わたしはそう答えて、窓を開けた。
朝の風が流れ込み、消毒液の匂いを優しく薄めていく。
夜、閉院後。
ふと、あの男の顔が浮かんだ。
無表情で疲れ切っていたあの顔。
でも、金魚を見つめるときだけ、ほんの少し柔らかくなっていた。
もしかしたら、あの金魚は――
彼に“生きてる実感”を思い出させるために現れたのかもしれない。
そんなことを考えていると、待合室の水槽が小さく音を立てた。
「ぷく、ぷく……」
中の熱帯魚たちが、まるで笑ってるみたいに泡をはじけさせている。
「ねぇ、グレさん、これって偶然だと思う?」
聞こえるはずのない亡きボス猫の声が、どこかで笑った気がした。
『偶然? 世の中にそんな都合のいいもん、ねぇよ。全部、縁ってやつだ』
「そうだね。……縁、か」
カルテの端に、わたしはそっと書き加えた。
――「金魚・サラリーマン宅へ帰還(水の記憶として)。」
窓の外の街灯が、ガラスに反射してゆらめいていた。
まるで、水面のように。




