カルテ22、リュウキュウヤマガメと密輸団(後編)
夜の空気は、水の底みたいに重くなる瞬間がある。
息を吸っても、胸のどこかに届かず、酸素が途中で引き返してしまうような──そんな夜だ。
午前一時。
宗方動物病院は、妙に静まり返っていた。
ノラは処置室の隅で横になり、奈緒は簡易ベッドで仮眠に落ちかけている。
地下の亀たちは、方言でひそひそ話を続けていた。
『まだ来とーる?』
『あん兄貴分て、どんな奴ね?』
『ひーやー、怖さー……』
私は時々蓋を少し開けては、「大丈夫」と声をかける。
しかし、そのたびに彼らの方言シャワーを浴びて、少し頭がくらくらした。
病院の壁時計が、二回ほど小さく鳴った。
私はノラの隣にしゃがみ込む。
「ノラ、痛みはどう?」
『痛ぇけど、まだ走れる。噛める』
「噛まなくていいよ」
『じゃあ吠える』
「吠えなくていい」
『……じゃあ、どうすんだよ』
「……話す」
ノラが目を細める。
『先生、あいつらと“話す”って、犬を猫にしろって言うより無謀だぞ』
「わかってる。でも、殴り合いよりはましだから」
『そりゃそうだが……』
ノラはため息のような鼻息を出した。
『先生ってさ、時々すげぇバカだよな。
でもオレ、そのバカ嫌いじゃねぇよ』
「褒めてる?」
『もちろん』
ノラはしっぽを軽く振った。
疲れが濃いはずなのに、その動きにはまだ火があった。
夜が二時を回った頃。
外の気配が変わった。
さっきまで風のように不規則だった空気が、急に“静まり返る”。
それは──
獣が獲物を見るときの静けさに似ている。
ノラが起き上がる。
『来た』
「……本当に?」
『ああ。さっきの奴とは違う。静かな匂いがする。怖ぇ匂いじゃなくて、“慣れてる”匂いだ』
「慣れてる?」
『人を脅すのに、だよ』
その瞬間、病院の玄関のドアがノックされた。
コン──
コン。
普通のノックだった。
それが、逆に異様だった。
「宗方動物病院の先生ですね」
低く、よく通る声。だが声の主は笑っていない。笑う必要がない人間の声だ。ノラの背中の毛が一本残らず逆立った。
「夜分ですが、少しお話を」
私は玄関に近づき、扉越しに声を返した。
「どちら様ですか?」
「人探しです。──正確には“亀探し”と言ったほうがいいかな」
その瞬間、背中が凍りついた。
「警察の方ですか?」
「警察……?」
外の男はふっと笑った。
まるで本当におかしいものを見たように。
「そんな立場だったら、どれだけ楽か。……開けてもらえます?」
「お断りします」
「お断り……」
男はゆっくり言葉を噛み締めるように繰り返した。
「いや、困るなぁ。あなたが困る、じゃない。“僕たちが困る”んです」
私はドアノブが動かないように全体重で押さえた。
ノラが私の足元に立つ。
『先生、こいつはヤバい。噛んでも吠えても止まらねぇタイプだ』
「……わかってる」
『どうする?』
「時間稼ぐ。警察は来る。絶対に」
私は携帯を握ったが、画面には「発信中」の文字がいつまで経っても消えなかった。
ようやく繋がった先の警察官は言った。
「近くのパトカー、すぐ向かわせます。ただ──お近くは巡回少ないので、十分はかかります……!」
十分……。短いが長い時間だ。
『先生、オレやる。裏へ回って噛んでくる』
「ノラ、だめ! 警察が来るまで“時間稼ぐ”だけでいいの!」
『オレは噛まれてもいいだろ』
「よくない! ノラは守る側でしょ!」
『違ぇよ。先生が守る側だろ』
ノラの言葉は鋭いのに、どこか優しかった。
犬というより、相棒に近い。
そのとき──
ドアの向こうの男が、ゴン、と軽く叩いた。
「先生。中に犬がいますね。白いやつでしょう?」
私は息を止めた。
「……なぜ、知ってるんですか」
「いや、“役に立つ犬だ”って、さっきうちの若いのが褒めてましたよ」
褒める、という言葉の響きが冷たい。
「でもね。余計なことをする犬は、役に立たないんですよ。──最終的には」
ノラの毛が逆立った。
『先生。絶対開けるな』
「開けないよ」
『開けたら、オレ噛みに行く』
「噛まなくていいから!」
『いや噛む。噛む以外できねぇし』
緊迫の中なのに、ノラの言葉は妙にいつも通りで、胸が熱くなった。
すると──
足元の床下から、小さな震えが伝わってきた。
地下の亀たちだ。
蓋の隙間から、マーランの声が響いた。
『先生……わん、あの声、聞いたことあるっさ』
「聞いたこと……?」
『沖縄で捕まるときの声やった。あいつが親の背中蹴った声やった』
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
「……マーラン。あなたたち、どうやって捕まったの?」
蓋の向こうで、しばし沈黙が落ちた。
その後、マーランがゆっくりと語り始めた。
『夜やった。雨のあと、森に水が光ってて……わんら、そこで寝とった。そしたら、人が来たわけ。“赤いの”がいるはずって言いよった』
「数……?」
『一匹一匹、袋に入れられた。おとうの甲羅蹴って、逃げんようにした。わん、あのとき、殺されるかと思ったさ』
方言の響きが、急に重くなる。
小さな亀たちが、それぞれにざわついた。
『あい、思い出したくないさ』『怖いさ』『森帰りたいやっさ』
私は唇を噛んだ。
「……絶対、帰そう。あなたたちを家に帰す。森に」
マーランの声が震えた。
『ほんとに……?』
「ほんとに。あなたたちは“商品”じゃない。生きてる命だよ」
地下で、静かに嗚咽が広がった。
亀の泣き声というものがこんなに胸に響くとは思わなかった。
そのときだ。
ドアの向こうの男の声が、急に静かになった。
「……へぇ。中で“泣き声”が聞こえるな」
私は血の気が引いた。
「開けなくていいんですか、先生。あなた、獣医でしょう。泣いてるものを放っておける人間ではない」
ズキリと痛む。
図星だった。
でも──
「あなたに渡すために開けると思いますか」
「思いますよ。優しい人は、一番追い詰めやすい」
ガチャ。
玄関の鍵が、外側で回された。
え……?
鍵、閉めたはず……。
「古いタイプの鍵一個じゃ、不用心ですよ」
私は息を止めた。
ノラが吠える。
『くそっ……入ってくる!』
玄関の蝶番が悲鳴を上げた。
ゆっくりと、ゆっくりとドアが開く。
暗闇から一歩踏み込んできた男は、
細身で、背が高く、黒いパーカーを着ていた。
目だけが異様に静かだった。
静かすぎて逆に“狂気”を孕んでいた。
「さあ、亀を返していただこうか」
その瞬間──
ノラが前へ飛び出した。
『来んなッ!!』
男の手がゆっくりとポケットに滑り込む。布が擦れる音が、異様に大きく聞こえた。
ゆっくりと。まるで時間を楽しむように。取り出されたのは、細長い黒い棒だった。
スタンガン。
私の体が硬直する。ノラが一歩前に出る。男の指が、スイッチに触れる。
「犬は嫌いなんですよ。すぐ吠える」
青い光が閃いた。
「ノラッ!!」
私は反射的に走り出した。
男の手首を掴み、スタンガンをそらす。
青い火花が床で弾けた。
男の目が細くなる。
「へぇ。やるじゃないか、先生」
「あなたに……渡すわけにいかない!」
「選択肢なんてないんですよ。“セットは揃えて届けろ”。僕は仕事をしているだけだ」
男の声はまるで天気予報のように平坦だった。
ノラが横から噛みつく。
『あんたの仕事なんか知るかよ!!』
男の足がわずかに揺れた。だが倒れない。
すぐに私は悟る。
──この男は、噛まれることにも慣れている。
「うるさい犬だ」
男が逆足でノラを蹴り払う。
ノラが呻き、床に倒れ込む。
「ノラ!!」
『いってぇ……でも、大丈夫……!』
「ほら、よそ見しない」
男の手が私の髪を掴もうと伸びる。
その瞬間──
床下の一点が、ピシリ、と音を立てた。
地下の蓋がバンッ、と勢いよく開いた。
『にーにー!!』
『先生!!』
『わんら、出るさ!!』
二十七匹の亀が、怒涛の勢いで地上に飛び出したのだ。
息を呑んだ。
あれほど“のんびり動く”と思っていた亀たちが──
このときだけは、弾丸のようだった。
マーランが先頭で甲羅を床に叩きつけ、加速しながら男の足首に体当たりする。
『わんらの森返せや!!』
甲羅の一撃は、信じられないほど重かった。
続いて二匹、三匹、五匹……
次々と男の足に突撃し、絡みつき、よじ登り、押し倒さんとする。
「な……なにを──亀が……!!?」
男の声が初めて揺れた。
構わず、亀たちはさらに押し寄せる。
『おまえ、足踏んださ!』
『こうらで挟むぞ!!』
『にったー突っ込めーー!!』
足元は完全に“甲羅の地雷原”になった。
男はスタンガンを振り回すが、
小さな亀たちが四方八方から押して揺らし、
腕を正確に狙わせない。
マーランが再び叫ぶ。
『にーにー、守れーー!!』
男がバランスを崩した。
スタンガンが手の中で泳ぐ。
私はその隙を逃さず、
全力で蹴り飛ばした。
スタンガンは床を転がり、棚の下へ滑り込んだ。
ノラが私の足元で吠えた。
『先生、今のうちに!』
「わかってる!!」
「くっ……!」
『どうだ!!』
『わんら強さよ!!』
『ざまみろーー!!』
怒号と方言の嵐。
病院が市場どころか、戦場のようだ。
男はとうとう、膝をついた。
しかし──まだ諦めていない目だった。
「……お前ら、本当に……厄介だな」
男が私に視線を向ける。
「先生。まだ終わりじゃない。僕がここで失敗すれば──」
「失敗してください」
男の眼がすうっと細くなる。
遠くでサイレンの音が響き始めた。
亀たちが一斉に叫ぶ。
『来よー!』『助かったー!』『早く来れー!』
私は片手でノラの首を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。もうすぐ終わる。必ず守るから」
『……わかった。信じる』
ノラが小さく目を閉じた。
その姿が、心臓に刺さるほど愛しかった。
そして玄関の外に、赤い光が近づいてきた。
戦いは、もうすぐ終わる。
亀たちの方言の渦の中で、私は深く息を吸った。
夜が割れるように、サイレンの音が病院前に押し寄せた。
赤い光が玄関のガラスに反射し、室内が薄く血の色に染まる。
男がはじめて、露骨な悪態を吐いた。
「……クソッ」
警察官たちが数人、病院に飛び込んでくる。
「動くな!!」
「両手を見せろ!」
男は逃げようと一歩踏み出すが──
『にーにー押さえれーー!!』
亀たちが一斉に甲羅で囲う。
完全に足元を封じられた。
男はついに押し倒され、
警官たちに押さえつけられた。
「なんだこれは……すげぇ数の亀だな……」
「先生、あなたが通報した?」
「はい。でも……最後に動いてくれたのは、この子たちです」
私はマーランをそっと抱き上げた。
『先生、わん、がんばった?』
「うん。すごく、すごくがんばった」
ノラが息を荒げながら私の足に寄りかかってきた。
『……ふぅ。先生、終わったか?』
「うん。もう大丈夫」
『へへ……じゃあ、ちょっと寝る……』
ノラはその場で脱力した。
私はその頭を抱き寄せて、
夜明け前の光を静かに見つめた。
騒乱が落ち着くまでに、さらに一時間ほどかかった。
犯人は三人全員連行され、病院内の状況確認が行われ、警官が段ボールの亀たちの様子を記録し──。
ノラは処置室に運ばれた。
私はノラの横で白衣を脱いで肩にかけ、息を整えた。
「ノラ、痛みは?」
『まぁ……いてぇけど……死ぬほどじゃねぇ。先生のほうが、さっきの腕の痕やばくねぇか?』
「私は平気。あなたを守れたならそれでいい」
『……先生って、ほんっと無茶するよな』
「あなたと似たようなものだよ」
ノラは少しだけ笑った。
『オレは野良だ。野良は無茶して生きるもんだ。でも先生は……もうちょい慎重でいいだろ。優しい奴ほど、すぐ死ぬぞ』
「死なないよ。あなたのためなら、生きるよ」
その言葉に、ノラはばつの悪そうな顔をした。
『……へへ。悪ぃ。ちょっと嬉しい』
夜明け前。
警官たちは「詳しい話は明日また」と言って病院をあとにした。
奈緒はソファで丸まって眠っていた。
地下の亀たちは、水と野菜をもらい、静かな寝息を立てている。
方言のざわめきが消えると、病院が急に広く感じられた。
私はノラの横で座り込んだ。
「ノラ、本当にありがとう」
『礼なんていらねぇよ。
オレは勝手に噛んで、勝手に吠えただけだ』
「それでも、あなたがいなきゃ守れなかった」
ノラは小さく目を閉じた。
『……先生。オレさ、群れが嫌いだって言ってたろ?』
「うん。ずっと言ってたね」
『あれ嘘だわ』
「え?」
『嫌いなんじゃなくて……群れに入ったら、誰かが死ぬのが怖かっただけだ』
その声は、ひどく静かだった。
『野良ってのは“誰にも守られねぇ生き方”だから自由なんだよ。でもよ、守りてぇ奴ができたら、もう自由じゃねぇな……』
「……ノラ」
『先生。オレは自由より、こっちのほうがいいかもしれねぇ』
胸が、痛いほど熱くなった。
「私も、ノラは自由でいてほしいよ。でも……帰ってきてくれたら、それで十分」
『帰る……場所か』
「うん」
『……へへ。野良のくせに、帰る場所があるとか……なんか照れるな』
「照れてればいいよ。犬なんだから」
『誰が犬だよ』
「犬だよ」
二人して笑った。
病院の窓から、薄い朝の光が差し込んだ。
──そして一週間後。
リュウキュウヤマガメ二十七匹は、全員無事だった。
警察、環境省、地元のNPO団体が連携し、
動物園の検疫を経て沖縄の森へ返されることが決まった。
出発前の朝、マーランたちを載せたクレートが病院前に並ぶ。
『先生、ありがとね』
『ごはん、おいしかったさー』
『にーにー、元気なってな!』
方言だらけの別れは、妙に賑やかで、泣けるようで、笑えるようで。
「マーラン。森に帰ったら、もう人間には近づいちゃダメだよ」
『近づかんよ。わん、もう“商品”なんて呼ばれとうない』
「うん。あなたは“命”だからね」
マーランは甲羅をコツンと私の手に当てた。
『先生、もし沖縄来ることあったら、森案内したるさ』
「行くよ。いつか必ず」
『にーにーも連れて来れ』
「ノラは……飛行機乗れるかなぁ」
『のーよ。飛行機は怖くないさ。むしろ先生より強いさ』
「それは違うと思うけど」
マーランは最後にひと言だけ、静かに言った。
『先生。あんたは“帰る場所”作るの上手やね』
その言葉が胸に残ったまま、
彼らはクレートごとトラックへ載せられた。
車が動き出す。
『ばいばーい!』
『ありがとさー!』
『にーにー、またなー!』
方言混じりの声がだんだん小さくなる。
私は手を振っていた。
ノラも横で尻尾を振っていた。
車が角を曲がり、姿が見えなくなった。
方言の喧騒が消えた病院前は、まるで祭りの後のように静かだった。
ただ風だけが、南の方角へ流れていた。
「……行っちゃったね」
『ああ。寂しいけどな。でも、あいつら帰る場所あるなら、それでいい』
ノラの言葉に、私は頷いた。
「ノラにも、ちゃんと帰る場所あるよ」
『病院?』
「ううん」
ノラが首をかしげる。
「あなたの居場所は、あなたが選ぶ場所。外でも、河原でも、病院でも。どこでも帰ってきていいんだよ」
ノラはしばらく黙っていたが──
やがて少し鼻を鳴らした。
『じゃあ……オレ、しばらく河原の風に帰るわ』
「うん」
『でも、腹減ったら来る』
「いつでもおいで」
『あとたまに撫でてくれ』
「もちろん」
『あと“犬”って呼ぶな』
「はいはい」
二人で笑った。
ノラはゆっくり病院の前から歩き出し、
河原へ続く小道へ消えていく。
その背中を見送りながら、私は思った。
動物は、“帰るために生きている”。
帰る場所があればまた歩けるし、
帰る誰かがいれば強くなれる。
それは動物も、
人間も、
同じなんだと。
病院に戻り、カルテの端にそっと書き加えた。
“リュウキュウヤマガメ27匹 全員帰還。
ノラ・軽傷、完治。
帰る場所は、それぞれの風の中に”
窓を開けると、河原の方から小さな声が聞こえた。
『先生ーー! 今度焼きカツオ持ってこいよーー!』
私は吹き出した。
「はいはい。ノラ、あなたの分はもう買ってあるよ」
風が心地よく頬を撫でた。
宗方動物病院──
“命と心をつなぐ場所”と看板には書いてあるが、
たぶんこれは、“帰る場所を返す場所”なのだ。
私はカーテンを揺らす朝の光を見ながら、そっと呟いた。
「……今日も、いい日になるといいね」
風が笑うように、河原の草を揺らした。
二十七匹の亀たちも今頃、はるか南の森で同じ風を感じているはずだ。
マーランの声が聞こえる気がした。
『先生、ありがとさー』
私は微笑んで、カルテを閉じた。




