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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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28/35

カルテ22、リュウキュウヤマガメと密輸団(前編)

 今回は、少し長めなので、前後編に分けます。







 雨上がりの河川敷は、なにかを隠すにはちょうどいい場所だ。水の匂いが証拠を消し、草が足跡を隠し、誰も近寄らない。

 私は獣医になってから、そこに置き去りにされた動物たちを何度も見てきた。子猫の段ボール、逃げ出したフェレット、誰かの飼い主を待ち続けて骨みたいに痩せ細った老犬──。


 でも、さすがに 亀が二十七匹 というのは初めてだった。


 しかも、ただの亀じゃない。リュウキュウヤマガメだ。

 甲羅の縁が少し反っていて、目の周りが濃い。どこか南国の土の匂いがする。

 段ボール箱は二つ。ガムテープを乱暴に剥がした形跡があり、中にうごめく影がぎゅうぎゅう詰めになっていた。


 見つけたのは──ノラだ。


 ノラは例の“きちんとした野良犬”である。

 この町の河川敷を根城にしている白い雑種で、犬のくせにどこか哲学者めいたまなざしをしている。私とはちょっとした旧知の関係だ。



***



 その日の昼下がり、病院の裏口が突然ドンドンと叩かれた。


『先生! ちょっと来い! 変なの、見つけた!』


 ノラだった。

 いつもの哲学犬が、今日は妙に焦っている。


「ノラ? どうしたの、ケガ?」


『オレじゃねぇ! 箱だ! 妙にうごめく箱!』


「箱が……動く?」


『とにかく来いって! 河川敷だ!』


 ノラに急かされ、私は白衣のまま河川敷へ走った。

 雨上がりの草が湿っていて、空気は少し土臭い。


 そして、ノラが鼻で指した先に──

 乱暴に破られた段ボール箱が二つ置き去りにされていた。


 ガムテープは途中からべりっと剥がされ、中がもぞもぞとうごめいている。


 私は半ば呆れながら段ボールの蓋を開けた。


「亀だね」


『亀だな』


「しかもちょっとまずい亀だね」


『先生、亀食うのか?』


「そうじゃなくて、この亀はリュウキュウヤマガメっていう天然記念物で……まぁとにかくこの辺にいちゃダメな亀たちなのよ」

 説明が面倒になって途中で放棄した。


 問題は、亀たちが放置されていた理由だ。

 段ボールの底にはうっすら泥と砂。爪痕。踏んづけられた草の匂い。


 なにより──箱の側面に「取扱注意」と殴り書きした赤ペンがあった。

 雑だ。あまりにも雑すぎる。


「まさか……密輸?」


 言った瞬間、箱の中でゴソリと動いた。

 そして、私の頭の奥に声が滑り込んできた。


『ぬーやがや、あんしぇー……ここ、どこね?』

『あちさむっさよ……ひーやー、起きれぇん』

『水くれー、水くれー、やんどー喉かわちょんどー』


 全員、沖縄の方言だった。

 いや、そりゃ“リュウキュウ”とはつく。でもなぜ思考まで方言なのか。

 生まれた土地の風の匂いが抜けていないのか、あるいは甲羅の纹様に記憶が刻まれているのか。理由は知らない。


 ただ、私にははっきり“亀の声”として聞こえている。

 こういう時だけ、この能力は便利でもあり、地獄でもあった。


「ごめんね、すぐ水あげるからね」


『みずぅー!』『しに、かわちょーん』『はやさ、はやさ!』


 亀たちが方言でせっついてくる。

 このせわしなさは、猫や犬とはまた違う。なんというか、湿度の高い圧がある。


『先生、水って言ってるぞ』

「うん、聞こえてる。ノラには聞こえないでしょ」

『ああ。だが、言いたいことはだいたい分かる。“死にそう”って顔してる』


「顔で判断してたの?」


『顔っていうより……空気だな』


 ノラが段ボールの縁を鼻でつつきながら呟いた。


『で、先生。こいつら、何者だ?』


「……密輸に失敗したんだと思う。運んでた人、見つかりそうになって、慌ててここに置いて逃げたんじゃない?」


 言いながら、私は背筋が冷えた。

 密輸。つまり、これは犯罪だ。


 しかも──


 段ボールの上に、靴跡がひとつ残っていた。

 その形はやけに小さく、歩幅が乱れている。


『誰か隠してったってことか』


「そう」


『先生、どうする?』


「一旦、病院に連れていって、保護する」


『ここに置いといたらダメか?』


「取り戻しに来るかもしれない」


 ノラは鼻先をひくつかせ、あたりの風の匂いを読んだ。


『ふぅん……悪い匂いが残ってるな』


「悪い匂いって?」


『“諦めの悪い人間”の匂いだ』


 この犬の嗅覚は、時々私の勘より鋭い。

 いや、ほとんどいつもそうだ。


 カメたちは方言でぎゃあぎゃあ騒ぎ、ノラは状況を分析し、私は段ボールを抱え──。


 この三者三様のカオスは、宗方動物病院という小さな箱に帰るまで続いた。



 病院に戻ってからの一時間は、ほぼ戦場だった。


 まず、二十七匹もの亀を入れる水槽がない。

 仕方なく、段ボールのまま臨時ケージに入れ、加湿器とヒーターを調整し、個体ごとに軽く診察。


 そして聞こえる“声”。


『あちー!』『いや、ちょうどいいやっさ』『お前、しにうるさーさ!』『水もっとくれ、やー』

『われー、足踏んだやっさ!』『甲羅かたいくとぅ、だいじょうぶさー』


 病院の中が、沖縄の市場の朝みたいになった。


「……みんな、落ち着こうね?」


『むりさー!』『むりむりむり!』『腹へっとーる!』『ひーやー!』


 方言が飛び交いすぎて、脳が焼けそうだ。


 そこへ、裏口がガタリと鳴った。


「……ノラ?」


 返事はない。

 ただ、風が入ってきて、ノラの匂いがした。


『開けるぞ』


 犬のくせに、声が静かすぎた。

 裏口の隙間から白い鼻がぬっと入る。


『先生が帰る時、変な気配がしてた』


「気配……?」


 ノラは足元を濡らし、少し泥がついていた。


『ああ、残飯を目の前にした、野良たちの気配っていうか、なんかそんな卑しい気配。その感じが今迫ってる』


「その嫌な気配がここへ来るってこと?」


『だな、まぁ俺がいるから大丈夫だ』


 ノラは平然と、尻尾を軽くふった。


「なにその無駄な自信。ホントはご飯の催促に来たんじゃないの?」




 亀たちも少し落ち着いたので、ノラに缶詰を開けてやり、私はクッキーをつまみながらコーヒーを飲んでいた。



 その瞬間、病院の窓の外で、

 ──コトリ。

 小さな石が何かを叩く音がした。


 ノラの耳がピンと跳ねた。


『来たぞ、先生』


「……誰が?」


『あの“諦めの悪い匂い”の人間だ』


 亀たちがざわついた。

『ひーやー!』『なんか来とーる!』『隠れれー!』


 沖縄方言のパニックが渦巻くなか、私は深く息を吸った。


 窓の外、細い影がひとつ。

 帽子を深くかぶった若い男の姿があった。


 その目は、妙に焦って、妙に鋭かった。


 ──たぶん密輸犯だ。



 密輸犯というものは、もっとこう、脂ぎった顔に金のネックレスでもぶら下げているものだと思っていた。

 ところが、病院の窓の外に立っていた男は、拍子抜けするほど“普通”だった。


 キャップを深くかぶった二十代そこそこの青年。

 見た目はコンビニの深夜バイトとなんら変わらない。


 ただし──目だけが違った。

 獲物に近づく寸前のカラスみたいに、ぎらついていた。


 ノラの背中の毛が逆立つ。


『先生。アイツが気配の奴だ』


 私は喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。


「ノラ、あの人、本当に密輸犯なの?」


『河原に残ってた匂いと同じだ』


 三つ息を飲む暇もないうちに、裏口のドアがノックされた。


 コン、コン。


「──先生、いますか?」


 声は妙に丁寧だ。

 だが、丁寧さというのは時に凶器になる。

 無理に押し殺した焦りが、言葉の隙間に滲む。


 私はそっと裏口に近づき、少しだけ扉を開けた。


「はい、宗方動物病院ですけど……。どなたでしょう?」


「すみません。さっき、河川敷に……亀がいまして。その……保護していただいたと思うんですが……」


 青年は帽子をいじりながら、わざとらしいほど目を伏せた。


「ええ、確かに見つけました」


「その、ですね……それ、僕が飼っている亀でして」


 嘘が下手すぎた。

 さっきの目のギラつきが、一ミリも隠しきれていない。


『先生、ウソだな。あいつ、亀に情がある顔してねぇ』


 ノラの声が頭の奥で響く。

 いや、ノラは声じゃなく“空気”で話すが、私にはちゃんと意味が入ってくる。


「飼って……? 二十七匹も?」


「あ、いえ、その……繁殖、というか……」


 男子小学生でももっとマシな嘘をつくだろう。


 私は少しだけ扉を閉じ、自分の胸の鼓動を落ち着かせた。


「……警察には連絡済みです」


 言った瞬間、青年の表情がすうっと変わった。


 目元の緊張が抜け、口角がわずかに下がり──

 その顔は、怒りでも焦りでもない。


 もっと冷たい、諦めの悪さだけでできた顔だった。


「……そうですか」


 青年はゆっくり後ずさりした。

 そして玄関側へ歩いていく。

 その足取りは妙に落ち着いていて、逆に不気味だった。


『先生、あれは……本気の奴だぞ』


「本気?」


『“取り返しに来る”じゃねぇ。“取り戻さなきゃいけねぇ”顔だ』


「つまり……」


『あの亀ども、カネになる』


 空気がぴしりと乾いた。



 玄関に回り込んだ青年は、ガラス越しに中を覗いた。


 ノラは診察室で低く唸り、

 段ボールの中の亀たちは一斉にパニック状態になった。


『ひーやー!』『なんね、なんね!』『怖っさ!』

『隠れれー!』『早さ、早さ!』


 朝の市場が、昼のピーク時みたいな騒ぎに変わった。


 青年はため息をひとつつき、ふと私の方に視線をよこした。

 その目は、追いつめられているようにも見えた。


「先生。困まるんです。あれは“商品”なんです」


 ついに本音が出た。


 ノラが吠えかけるが、私は手で制した。


「警察に渡します。ここで引き渡すわけにはいきません」


「えっと、犬にも獣にも興味はないんです、先生。ただ、こっちにも事情があって。先生も、余計なことをしないほうが……」


「お引き取りを」


 一歩下がりながら言った。

 喉は震えていたが、声だけは落ち着いていた。


 青年は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、踵を返して静かに外へ出た。


 だが──

 ここで終わるはずがない。


 ノラが低く唸る。


『あいつ、まだ近くにいる。外でケータイいじってる。仲間呼んでるな』


 嫌な汗が背中をつたった。


「ノラ、どうしてそんなことまで分かるの」


『犬にはな、“逃げながら生きる奴の匂い”が分かるんだよ。アイツ、ずっとそういう生き方してる』


 ノラは鼻を鳴らし、裏口の前に陣取った。




『あんしぇーらー、わん 探しとーんやっさー』


 私は“声”が聞こえて来た段ボールの中を見た。


 二十七匹の亀たちが、方言で喧騒を繰り広げる中──

 一匹だけ、動かずじっと私を見ている個体がいた。


 一際鮮やかな赤い甲羅。黒い滲みもなく、全体がうっすら光っているかのように見えた。


「……もしかして、あなた?」


 私はその亀をそっと持ち上げた。


『おい、おまえ。なに触っとーがや。こっちはこっちで、ひーやー忙しいさ』


 気が強そうな方言だ。

 が、その声の奥には、妙に落ち着いた響きがあった。


『わんね、“マーラン”て呼ばれとったさ。連れてかれたとき、兄弟もみんな一緒やった』


「兄弟?」


『親のいる森から、まとめて持ってかれたわけ。あんときのトラックのケンムンみたいな奴が……あいやー、まだおるさ?』


「ケンムンって……化け物?」


『内地の言葉でいうなら“悪いやつ”やさ。あん人、たぶんここ来るよ』


 来る。

 それは分かっていた。


 だが──

 マーランの次の言葉で、事態はもう一段階、悪くなった。


『あん人、わんね探してる。わん一匹おらんと、金にならんて言いよった。わんが“希少レッド”やって』


 希少レッド ──


 つまりマーランだけが“売り物のセットを完成させる最後のひとつ”なのだ。


 ノラが低く唸った。


『先生、やべぇな。あれは“商品が揃わないと帰れない奴”だ』


「つまり……」


『どんな手でも使ってくるさー』


 外から、車のドアが二回、連続で閉まる音がした。


 ──一人じゃない。

 仲間が来た。


 亀たちが一斉に叫ぶ。


『ひーやー!』『にーにー来とーる!』『隠れれー!』

『助けれー!』『わん死にたくないどー!』


 方言パニックの真ん中で、ノラが私を見た。


『先生。守るんだろ、こいつら』


「もちろん」


『だったら、オレに指示くれ』


「指示?」


『人間をどう止めるか、先生のほうが知ってる。オレは噛むか吠えるかしかできねぇ』


 裏口の向こうで、足音が近づいてくる。


 私は深く息を吸い、喉の震えを抑えた。


 そして──


「ノラ。時間を稼いで」


 ノラはニヤリとした。

 犬のくせに、人間みたいな笑い方だ。


『任せろ』


 裏口のドアノブがガチャリと回った。


 次の瞬間、ノラが飛び出した。

 まるで河原を駆ける風そのもののように。


 私は段ボールの亀たちを抱えて、診察室の奥へ走った。


 マーランが甲羅を打ちながら叫んだ。


『はやさ、先生! わんら、まだ生きたいさ!』


 外で怒号が上がる。

 犬のうなり声。

 男たちの足音。


 戦いが始まった。

 正確には、ノラの“時間稼ぎ”が。




 私は奥の処置室に逃げ込み、鍵を閉めた。


 そこにはもう一匹、別の生き物がいた。


 ──宗方紬。

 この物語の主人公である私自身だが、その時の私は主人公らしさの欠片もなく、ただの獣医で。

 ただ、動物を守りたくて震えていた。


 しかし震えている暇はない。


 マーランが甲羅の中から声を荒げた。


『先生! わんら、逃げる場所ないさ!』


「大丈夫。あるから」


『ある?』


「“地下”がある」


 実は宗方動物病院には、昔父が使っていた小さな地下倉庫がある。

 普段は閉めきっていてほこりっぽいが、隠すにはちょうどいい。


 私は段ボールを抱え、処置室の床下にある小さな蓋を開けた。


 亀たちがざわめく。


『どこ行くね?』『こわいさー』『くらっさよー!』


「静かにして。すぐ戻るから」


 私は一匹ずつ地下に降ろしていった。


 マーランが最後に残り、私の手の中でもがいた。


『先生……わん、怖いさ』


「分かってる。でも、私も怖い」


 マーランは少し目を閉じ、

 沖縄の潮騒みたいな声でそっと言った。


『先生、嘘つかん人やね』


「嘘つけないから。獣医だもん」


『なら、信じるさ』


 私はマーランを地下へと降ろし、そっと蓋を閉めた。


 その瞬間──


 外からノラの大きな鳴き声が響いた。

 悲鳴のような、吠え声のような。


「ノラ……!」


 胸が焼けるように痛かった。


 密輸犯たちが、ついにノラを仕留めにかかったのだ。

 犬一匹を相手に、大の大人が複数。


 勝てるはずがない。


 私は処置室のドアに手をかけ、力いっぱい開けた。


 亀は地下にいる。

 逃げ場は作った。


 あとは──

 ノラを助けなければならない。


 私、宗方紬は獣医で、動物の声を聞く女だ。


 恐怖はある。

 足は震えている。


 だが走らなければならなかった。


 私は白衣を翻し、嵐のような病院の外へ飛び出した。


 ノラの叫び声が、闇の中で揺れていた。


 夜の病院というのは、昼のそれとはまったく別物だ。

 冷蔵庫の唸り声がやけに大きく聞こえ、蛍光灯の青白さは妙に頼りない。

 外へ一歩出れば、世界の温度が二度は下がる気がする。


 そんな空気の中に──

 ノラの吠え声が裂けるように響いた。


『来んなって言っただろ!』


 彼の声が、普段より荒い。

 いや、荒いというか……痛みで混ざっている。


「ノラッ!」


 私は玄関を飛び出し、裏手へ回った。


 そこには、信じたくない光景があった。


 ノラが、三人の男に囲まれていたのだ。



 男たちは、まるで河原の釣り人のような格好だった。

 キャップ、フード、安物の合羽。

 一見するとただのサラリーマンの集まりにしか見えない。


 しかし目だけが違う。

 暗闇の中でぎらつき、何かを奪い返そうとする“追い詰められた光”だ。


「犬のくせに、噛みやがって……!」


「やめとけよ、血ついたらバレるだろ!」


「バレるもなにも、もうバレてるだろ!」


 ノラは前足を踏ん張り、牙を剥いている。

 しかし、左脇腹の毛が血で濡れていた。


「ノラ……!」


『先生、来るな! 噛まれるぞ!』


「噛まれたのはそっちでしょ!」


 男たちのうち一人──若い青年、例の密輸犯──がこちらを振り向いた。


「先生。もうやめてください。その亀さえ返してくれれば……」


「返しません」


「なんでですか……!」


 青年は帽子を外した。

 額に汗が滲み、その表情は鬼気迫るものだった。


「僕は……“やらされてる”だけなんです。組織の連中に頼まれて……最初は配達のバイトだって言われて……気づいたときには抜けられなくなってて……もし品物が揃わなかったら……妹が……!」


「だからって動物を傷つけていい理由にはならないでしょう」


「でも……でも……!」


 青年の声は震え、幼い子供のように裏返った。


「僕だって怖いんです……! あの人たちに逆らったら……!」


 男の一人が苛立ったように青年を蹴った。


「泣くなよ! 先生に弱み見せてどうすんだ!」


「だって! もう無理だって! せめてあの赤いのだけでも取り戻さないと──!」


「赤いの?」


 私は青年に歩み寄った。


 マーランのことを聞きたかった。

 しかし、その前にノラの声が飛び込んできた。


『先生、こいつら、蹴り入れてくるから気をつけろ』


 ノラの足が少し震えている。

 その姿に胸が締めつけられた。


「ノラ、こっち来て」


『いやだ。オレがここ押さえてる』


「無理しないで」


『先生、あんたは亀のほう守れよ。オレは犬だ。犬はこういう時のためにいる』


 ノラの声は震えていなかった。

 ただ静かだった。

 妙に潔くて、腹が立つほどに。


 男たちはじりじりと近づいてくる。


 青年が私にしがみつくように叫んだ。


「先生、返してください……! あれがないと……僕も妹も、殺されます……!」


 その言葉に、冷たいものが背骨を走った。


 “殺される”。


 こいつらはただの密輸犯ではない。

 もっと厄介な組織の末端だ。


 しかし──


「それでも返さない」


 私ははっきりと言った。


「あなたが怖いのはわかります。でも、動物を傷つけていい理由にはならない。あなたが生活のためにやってることでも、あの亀たちにとっては命なんです」


「生き物の命なんて……そんな綺麗事で済むなら……!」


「あなたも生きてるでしょう」


「僕は……僕は……!」


 青年は後ずさりした。


「あなたも守られたいんです。でも、そのために“誰かを売り渡す側”に回りたくなかったんでしょ」


 青年の目が少し揺らいだ。


 しかしその揺れを、隣の男が怒声で吹き飛ばした。


「いいから黙れよ!」


 青年が殴られ、地面に倒れた。

 その瞬間──


 ノラが飛びかかった。


『やめろって言ってんだろ!!』


 男のズボンに噛みつく。

 男が大声を上げる。


「離せ、野良犬!!」


 別の男が木の棒を振り上げた。


「ノラッ!!」


 私は反射的に動いた。

 男の手首を掴んで止めた。


 痺れるような衝撃が腕を走る。

 細腕で男の腕を押さえるなど、本来できることじゃない。


 でも、体は動いていた。


 ノラが傷つけられるよりはましだった。


「やめてください!!」


「離せ!!」


 男が私を振り払おうとした瞬間──


 暗闇の奥から誰かが走り込んできた。


 足音が二つ。


 私は一瞬息を飲んだ。


「あんたら、何してんの!!」


 奈緒だった。

 そして、その後ろには地域の巡回中だったらしいお巡りさんが一人。


「通報があって来てみたら……おいお前ら、何やってる!」


 男たちは一気に動揺し、散り散りに逃げ始めた。


 青年だけが倒れたままだった。


 私は地面に膝をつき、ノラの体を抱えた。


「ノラ……大丈夫?」


『まあまあ……いてぇけど……先生のほうが危なかっただろ』


「……怒ってる?」


『バカ。怒るわけねぇだろ。ああいう時は、犬に任せろっての』


「無理だよ。放っておけない」


『……だよな』


 ノラは私の膝の上で目を閉じ、息を整えた。



 状況は一気に動き、警察が男たちを追いかけ、奈緒が救急箱を持って走り回り、私はノラの傷を見ながら応急処置をした。


「先生、地下に隠したって言ってましたよね? 亀たち、大丈夫ですか?」


「うん……きっと大丈夫。うるさいだろうけど」


 そう言って床下の蓋に耳をつけると──


『まだ騒ぎよーる?』『なんね今の!』『助かったん?』『ひーやー!音でびっくりしたさー!』

『わんは無事!?』『にーにーは!?』『静かせーよ!』


 大合唱だ。

 生き物の声とは、時としてラジオよりにぎやかである。


「……元気そうだね」


『やかましいさー!』

『出してー!』『お腹すいたー!』


「はいはい。待って」


 私は蓋を少しだけ開けた。

 すると地下から湿った空気と方言の渦が吹き上がった。


 そこへ、ノラがうつろな声で言った。


『先生……ひとつ言い忘れてた』


「なに?」


『あいつらさっき……“兄貴分”が来るって言ってた』


「兄貴分?」


『本物の“上”の奴だ。今日の奴らより、もっとヤバい』


 奈緒の顔が青ざめた。


「……じゃあ、まだ終わってない?」


『終わってねぇ。むしろ……ここからが本番だろ』


 病院の窓が風で揺れた。


 亀たちのざわめきが再び高まる。


 私は深く息をつき、ノラの頭を撫でた。


「……わかった。ノラ。私たちも“覚悟”しよう」


『ああ。オレは逃げねぇよ。犬はな、一度吠えたら最後まで吠えるもんだ』


「奈緒は帰って。病院の車使っていいから」


「でも……」


「大丈夫。来ると決まったわけじゃないし。来たらすぐに警察を呼ぶから平気よ」


 奈緒は、何かを言いかけたが、そのまま壁にかかっていた車のキーを手の取った。


「じゃ、帰るね……。なにかあったら、起きてるので電話して」

 そう言って病院を出て行った。



 地下から、マーランの声が私を呼んだ。


『先生! にーにー(ノラ)、大丈夫やった? まだ終わらん? わんら守りれー』


「守るよ。必ず」


 夜が深くなるにつれ、気配はさらに濃くなる。


 まだ来る。

 “兄貴分”が。


 この戦いは、ただの密輸事件じゃない。

 動物の命を守るための、

 そしてノラという一匹の野良犬を守るための──






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