カルテ21、奈緒と命の国境
「奈緒。進路どうすんの?」
その言葉は、湯気の向こうからやってきた。学食のソースの匂いの中をくぐって、私の耳に届く。
言ったのはミサ。今日も例の炭水化物コンボ──焼きそばと白ご飯──を堂々とトレイに乗せている。
「まだ決めてない。それよりミサ、またその変な炭水化物セットなんだね」
「変って言うな。焼きそばに白ご飯は最強の昼食や」
そう言って、焼きそばをご飯の上にバウンドさせた。ソースの匂いがこっちまで飛んでくる。
「私はどうしても、その炭水化物+炭水化物の組み合わせ、納得できない」
「食べもんは成分とかで見たらあかん。一番大事なんは、うまいかまずいかや。うまいもんは身体にええんや」
言いながら口をもぐもぐさせる。説得力があるんだかないんだか。
ミサの隣では、小春が静かに味噌汁を飲んでいる。眼鏡越しにこっちを見て言った。
「奈緒はいいよね。親戚に動物病院あるんでしょ?」
「宗方動物病院? 無理無理。あそこ、儲かってないもん」
「え、そんなことまで知ってんの?」
「だって毎年、お年玉が五百円玉一枚。『うち儲からないのよ』って、笑いながら手渡されるんだもん」
ミサが吹き出した。
「小学生でも、そんなんもろたらネタにすんで?」
「少額のお年玉は、子供の教育とかそんなのじゃなく、ホントにお金なさそうなのよね」
そう言いながら、スプーンでカレーをすくう。カレーも冷めかけてた。
つむぎねーちゃん──宗方紬。
私の父の妹で、いま「宗方動物病院」の院長。
昔は動物園で働いてたけど、祖父が亡くなって病院を継いだ人。
昔は、あの病院で過ごす夏が大好きだった。
でも、大学に入って本格的に獣医学を学び始めてから、少しずつ距離ができた。
効率が悪い。古い。採算が取れてない。
そんな言葉が頭の中に浮かぶようになって、いつの間にか「好き」と「尊敬」のあいだが遠のいていた。
でも、あの匂いは今でも忘れられない。
消毒液と、土の湿気と、ドッグフードの粉。
吸い込むと、胸の奥がざわざわする。"命の匂い"って、きっとああいうやつだ。
午後の麻酔学の講義では、教授が三回「ここ国家試験に出るぞ」と言った。
でも頭に入ったのは一回もなかった。
終わってスマホを見ると、LINEが一件。
差出人は「つむぎねーちゃん」
《今週末、手伝い来られる?ちょっと感染症が流行ってて、人手足りない》
文章の最後に「泣き顔」スタンプ。珍しい。
つむぎねーちゃんが“助けて”と言うのは、本当にギリギリのときだ。
“了解”とだけ返信した。
心のどこかで、少しだけ息が詰まった。
──あの匂いに、また会いに行くんだ。
病院に着いたのは、夕方だった。
冷たい空気の中に、消毒液のツンとした匂い。懐かしい。
木の引き戸を開けると、電話のベルが鳴っていた。
「先生、また下痢の柴ちゃんです」
助手の佐々木さんが叫ぶ。
待合室には三組の飼い主。どの犬も、抱えられてぐったりしている。
紬は診察室から顔を出した。
「奈緒!来てくれて助かった!」
「なんかすごいことになってるね」
「ウイルス性の下痢が流行ってる。軽い子もいれば、脱水で倒れる子も。スタッフ二人が寝込んでてさ」
彼女の顔は青白かった。
目の下にくま。
でもその目だけは、相変わらずまっすぐだった。
「手、洗って消毒して。カルテと点滴の準備お願い」
「了解」
久々の現場の空気。
ピリッと張りつめてるのに、どこか温かい。
診察室の蛍光灯の下で、紬の動きは驚くほど速かった。
患者一匹ずつに手を置き、声をかけ、目を合わせる。
「この子、昨日から食べてない? 皮膚の色が黄色っぽいね。肝臓が疲れてる」
そんなふうに言葉をかけながら、注射器を持つ。
手の動きが迷いなくて、美しかった。
隣で点滴のセットを組みながら、私は思った。
──ああ、これが“治す”ってことなんだろうな。
教科書の中の医療じゃなくて、“生きてる”医療。
夜八時を過ぎても患者は絶えなかった。
飼い主の中には、「注射一本で明日には治りますよね?」なんて聞いてくる人もいる。
紬は笑って「そう願いましょう」とだけ答える。
その背中に、なんとも言えない重さが見えた。
日付が変わるころ、ようやく最後の診察が終わった。
床に落ちた抜け毛と脱脂綿の残骸。
椅子に座ると、腰が悲鳴を上げた。
「これ、毎日やってるの?」
「うん。動物は休まないからね」
「……私、ちょっと甘く見てたかも」
紬が笑った。
「学生のうちはそれでいいよ。夢はキラキラしてた方が続く」
「でも、現実きつすぎるよ」
「そう。きつい。でも、誰かがやらなきゃいけない。“生きててくれてありがとう”って言われると、報われるんだ」
時計の針が深夜二時を指していた。
外は静かだった。
その静けさが、なぜか心にしみた。
三日目の夜。
私はもう、点滴の準備もカルテ整理も、そこそこ慣れていた。
病院の動きのリズムが体に入ってきた頃だった。
そのときだった。
玄関の引き戸が、乱暴に開いた。
外国人の男性が犬を抱えて飛び込んできた。
「Please, help! She is sick! Fever!」
息が荒い。
腕の中には、震える中型犬。
タグには、見慣れないアルファベットの刻印──「TH-22104」。
タイ?
その時、紬の顔がすっと引き締まった。
「奈緒、体温計! あと防護手袋!」
空気が、一気に冷えた。
──次の瞬間、わたしは初めて“国境の匂い”を嗅いだ気がした。
病院が、サロンでも診療所でもなく、“境界線”に変わった瞬間だった。
犬は中型の雑種で、白と茶のまだら。
舌がだらりと出ていて、呼吸が浅い。
熱を測ると、四十一度。高すぎる。
体中に赤い発疹があった。
「どこから来たんですか?」
紬が英語で尋ねる。
男は汗まみれの顔で答えた。
「From Thailand. I came… two days ago. The airport said OK, OK!」
「空港で検査は?」
「Yes, but… small paper, I lost it. She got fever in hotel. Please help!」
そのとき、紬の手が止まった。
タグを見て、眉が動く。
「……奈緒、この子、検疫済みの登録がない」
「え?」
「動物検疫のマイクロチップが入ってない。輸入犬だよ。非公式ルートかも」
非公式。
つまり、狂犬病の検査を受けていない可能性がある。
その単語を聞いた瞬間、背中が凍った。
狂犬病──一度発症したら、ほぼ百パーセント死ぬ病気。
犬も、人も。
「どうするの?」
「隔離だね。すぐに市の動物衛生センターに連絡。最悪の場合、処分対象になる」
「処分……?」
男の顔色が変わった。
紬の日本語が通じたらしい。
「No! No kill! Please! She’s my family!」
男は泣きそうな顔で犬を抱きしめた。
犬は弱々しく尻尾を動かす。
その光景が、見ていられなかった。
「先生、治してあげようよ。だって、病気かどうかまだ……」
「奈緒」
紬の声が低かった。
いつもの優しい声じゃない。
「ひとつの命を救って、百を危険にさらすこともある。それが、この仕事なんだよ」
その言葉が突き刺さった。
守るために、線を引く。
それは、命を切り捨てることと紙一重だった。
犬は小さく鳴いた。
“どうして触ってくれないの?”
そんな声が、確かに聞こえた。
犬はセンターに引き取られた。
数日間、検査と隔離。結果が出るまで、誰も近づけない。
その夜、病院の灯りを落としたあと、紬と二人でコーヒーを飲んだ。
指先がまだ消毒液の匂いをしていた。
「ねーちゃん……冷たくない? 守るって、なんか、冷たい」
「ううん。冷たいように見えるけど、ほんとは一番熱い仕事だよ」
「熱い?」
「線の向こうにいる命を“想像”できる人がやるんだよ。一匹を助けたいって思いは、みんな持ってる。でも、百匹、千匹を守るために、その一匹を抱けない覚悟。それが“防疫”とか“検疫”の仕事」
コーヒーの湯気がゆらいで、紬の顔がかすんだ。
その声だけが、やけに近く感じた。
「……ねーちゃん、あの人、最後なんて言ってたの?」
「“I just wanted to go home with her.” ──彼女と一緒に帰りたかった、だって」
“帰る”。
その言葉に、何かが静かに響いた。
帰る場所。
動物にも、人にも、それがある。
でも時々、その線が国境を越えて、見えなくなる。
「奈緒。あんた、将来どんな獣医になりたい?」
少し考えてから言った。
「……ちゃんと線を見られる獣医」
紬は笑った。
「それ、いいね」
数日後、大学に戻った。
講義の黒板に「検疫官」という文字が書かれていた。
教授が淡々と話す。
「近年、海外からの動物輸入が急増しています。検疫官は、国内に病原体を入れない“最後の砦”です。獣医師の中でも、非常に重要な役職です」
チョークの音がやけに大きく響いた。
“最後の砦”。
それは、あの夜の病院の空気と同じ匂いだった。
授業が終わって、ミサと小春が追いかけてきた。
「奈緒、進路どうすんの? この前“まだ”って言ってたけど」
「うん。決めた」
二人が同時に「おっ」と顔を上げる。
「私、検疫官になる」
一瞬の沈黙。
ミサが言った。
「け、けんえき……? なんか地味やな!」
「地味でいい。かっこいいから」
「どこがやねん!」
「“触れない勇気”を持ってる人たちだよ。命の国境を守るって、誰にでもできない」
言いながら、自分の声が少し震えてた。
でも、まっすぐだった。
小春がにっこり笑った。
「いいじゃん。奈緒らしい。線を引くって、優しさの形だと思うよ」
ミサが苦笑いした。
「私は企業行って金稼ぐけど、奈緒が世界を守ってくれるんやったら安心やな」
教室の窓の外に、飛行機雲が一本。
どこかの国から、また誰かが帰ってくる。
命の往来は止まらない。
だからこそ、誰かが見張っていなきゃいけない。
夜、紬からLINEが届いた。
《あの犬、狂犬病じゃなかったよ。飼い主、帰国前に“ありがとう”って言ってた》
私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
胸の奥がじんわり熱くなった。
──あの人は、ちゃんと犬と帰れたんだ。
ポケットからメモ帳を取り出して、ペンを走らせた。
“宗方奈緒 検疫官志望”
字が少し歪んだけど、悪くない。
窓の外では、街の灯が滲んでいた。
風が吹いて、髪が揺れた。
どこかで、紬の声が聞こえた気がした。
『奈緒。線を引くってことは、世界を守るってことだよ』
「うん。もう迷わない」
静かに、でもはっきりと声に出した。
私は命の国境に立って、誰かの"ただいま"を守りたい。




