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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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(番外編5)灰色猫と白い野良犬



 俺の名はグレ。


 左耳が欠けてる灰色猫だ。

 "ボス猫"なんて呼ばれてるが、笑わせる。群れなんざ束ねちゃいねぇ。

 ただ長く生きてるってだけで、この町じゃ肩書きになるらしい。


 町の裏通り、魚屋の氷の匂いとパン屋のバターがまざるあたり。

 それが俺の縄張り。昼間は人間が行き交い、夜になると野良どもがうろつく。

 その境目の時間がいちばん好きだ。人の気配が薄れ、風の音だけが生きてる。


 その日もそうだった。

 俺は屋根の上で背伸びをし、夜の街を眺めてた。


 雨上がりで空気が冷たい。遠くの電線に、カラスのクロがとまってる。

 あいつが鳴くと、大抵ろくでもないことが起きるんだが、その夜は妙に静かだった。


 ──で、代わりに聞こえてきたのが、低い犬の声。

 「……ここ、いい匂いだな」


 知らねぇ声だ。

 俺は片目を細めて、物陰から覗いた。


 白い犬だった。でかい。

 背中の毛はところどころ汚れて、尻尾の先が泥まみれ。

 でも、目だけは妙に澄んでた。

 あれは、旅の犬の目だ。地図のない道を歩いてきた奴の目。


「こいつ、どっから来やがった」

 俺は心の中でつぶやいた。


 この町は狭い。

 生ゴミの匂いにも縄張りがあるし、野良の世界にも暗黙のルールってもんがある。


 “知らねぇ奴は、まず挨拶しろ”

 “他人の皿に口を出すな”

 “人間の足元で騒ぐな”


 この白いやつは、そのどれも守っちゃいねぇ。

 パン屋の裏で平気な顔して漁ってる。

 まるでここが自分の庭みてぇに。


「おい、新入り。そこは俺の皿だぞ」

 と声をかけた。

 奴はパンをくわえたまま、目だけでこっちを見た。

「……腹が減ってたんでね」


 なんて顔だ。

 言葉じゃなく、態度で会話するタイプか。

 俺は尻尾を立て、ゆっくり近づいた。

 犬と猫の距離、三メートル。

 こいつは少しも引かねぇ。むしろ俺を観察してる。


「ふん……お前、名前は?」

 と目で問うと、

「忘れたよ。最近はノラってのが俺の名前らしい」

 と返してくるような顔をした。


 ──それは名前じゃねぇ、とは思ったが。ま、筋は通ってる。


 でも、筋が通ってる奴ほど、世の中じゃ生きにくい。

 俺は経験上、それを知ってる。



***



 次の朝、事件は起きた。


 町外れの廃工場。

 そこは昔、三匹の野犬が居座ってる危険地帯だった。

 ガル、タロ、ハチ。

 どれも名前っていうより、音だ。

 脳味噌より牙のほうが発達してる連中。


 白い犬──ノラは、知らずにそこへ入り込んだらしい。

 俺がそれを見つけたのは、偶然だった。


 トタン屋根の上から見下ろすと、

 三匹が輪を作って、ノラを囲んでいた。

 尻尾を高く立て、牙をむき出し。

 まるで儀式だ。


「おいおい、こいつは新入りじゃねぇか?」

「よそ者の匂いがする」

「教えてやれよ、ここじゃ俺らがルールだってな」


 犬どもの唸り声が重なった。

 ノラは動かねぇ。

 背を低くして、片足を引いてる。

 “逃げ道”を読んでる。


 だが、三対一はきつい。

 一匹が飛びかかり、もう一匹が横から噛みつこうとした瞬間、俺の体が勝手に動いた。


 屋根から飛び降りる時、風の匂いが鼻をくすぐった。

 “また厄介なことに首突っ込むなよ”って、どっかの声が聞こえた気がした。


 でもな、猫にも意地ってもんがある。

 不公平な喧嘩は嫌いなんだよ。


「やれやれ、三対一ってのはスポーツマンシップに欠けるぜ」

 俺はフェンスの上に着地して言った。


 三匹の視線が、一斉に俺に向く。

 “猫が何の用だ”って顔。

 上等だ。


「どけよ、チビ助」

「猫のくせに出しゃばるな」


 ──猫は侮蔑の匂いには敏感だ。


 次の瞬間、俺は飛んでた。


 最初の一撃は、鼻っ柱。

 犬の急所だ。目じゃねぇ。鼻だ。

 痛みで方向感覚が狂う。


 二撃目は頬。三撃目は耳の裏。


 犬が「うがっ」と吠えた瞬間、俺はもう別の奴の背中に回ってる。


 犬は線で動く。

 まっすぐ、力任せに。

 猫は点で動く。

 狙って、外して、すぐに次へ。


 戦い方の哲学が違うんだ。


 ノラはというと、右前脚を噛まれながらも動じず、

 相手の腹を蹴り上げていた。

「ふん……悪くないじゃねぇか」


 だが数は力だ。

 俺が二匹をひっかいてる間に、残りの一匹がノラの脇腹に噛みついた。


 血の匂いがした。

 それで、俺のスイッチが入った。


 俺は全力で飛びかかり、犬の顔を掻いた。

 四つの爪が一直線に走る。

 奴の悲鳴が夜空に弾けた。

 “猫はファイター、犬はハンター”──その違いを、教えてやった。


 最後は、犬どもが尻尾を巻いて逃げた。

 ノラはその場に座り込んで、息を吐いた。


「助けてくれて……悪いな」

「礼はいらねぇ。ただ、今度から匂いの流れを読め」


「なるほど。猫ってのは、風読みの達人なんだな」

「犬は鼻ばっか利かせすぎるんだよ。世界はもっと、“横に”広がってる」


 ノラが笑った。

 それは、犬にしちゃ珍しい笑い方だった。

 まるで人間みたいに。


「あんた、名前は?」

「グレ。灰色のグレだ」

「俺はノラ。どこにも属さねぇ、流れ犬だ」


 ──その夜、俺たちは初めて名乗り合った。



 翌朝、ノラの足は腫れ上がっていた。

 噛まれた跡が赤黒く膨らみ、歩くたびに血が滲む。


 俺はため息をついて言った。

「ほらみろ。病院行くぞ」

「病院? 人間の巣か?」

「巣じゃねぇ。まあ、たまに痛い思いはするが、生きるための場所だ」


「……嫌な予感しかしねぇな」

「俺のツケで診てもらえる」

「猫にツケがあるのかよ」


「あるんだよ、“信頼”っていうツケがな」


 宗方動物病院の裏口をノックする。

 カラン、と鈴が鳴った。


「グレさん、また喧嘩?」

 出てきたのは宗方紬。白衣の裾をまくり上げた女獣医だ。


 目が笑ってる。怒ってる時ほど、あの人は笑う。


『今日はこいつのほうが客だ』

 俺が顎でノラを示すと、

「まあ……立派な子。ちょっと中入って」

 と、まるで散歩の犬でも連れてきたみたいに言った。


 ノラは抵抗した。

『触るなよ。噛むぞ』

「大丈夫、噛まれるの慣れてるから」

 そう言って紬は、タオルで彼の足を拭いた。

 ノラが唸る。


 俺はその横で、ちょこんと座って見ていた。



 治療はすぐ終わった。

 包帯が巻かれ、ノラはしょんぼりとベンチに座った。

「……注射、痛くねぇな」

「ほら見ろ。人間だってたまには悪くねぇだろ」


「あんた、よくここ来るのか?」

「まあな。俺にとっての“病院”は、宿みたいなもんだ」

「宿ねぇ……。俺は外の風が好きだ」


「外の風も、たまに休ませる枝がいるもんだ」


 その日、ノラは病院の裏庭で一晩寝た。

 俺は屋根の上から見ていた。

 月が白くて、風が静かだった。

 “自由ってのは、案外こういう夜のことを言うのかもな”と、思った。



 それから、時々会うようになった。


 ノラは河原を根城にして、俺は町の屋根を渡り歩く。

 たまに、缶詰を分け合ったり、どうでもいい話をしたり。


「グレ、お前、人間を信じてるのか?」

「信じてるわけじゃねぇ。ただ、悪くねぇ奴もいる」


「俺はまだ分かんねぇな。人間って、笑ってる時ほど寂しそうだ」

「……犬のくせに詩人だな」


 ノラは生き方がうまかった。

 食い物を盗む時も、匂いを消して、誰にも見つからない。

 “野良のプロ”ってやつだ。

 俺が知る限り、あいつほど器用な犬はいない。


 だけど、ときどきふっと黙り込む。

 “群れの声”が恋しいのかもしれない。

 犬ってのは、本能的に仲間を求める生き物だ。

 けど、ノラは群れなかった。

 “群れに入ったら、自分が自分でいられなくなる”って顔をしてた。


 それが、あいつの矜持だった。



 ある晩、雨が降った。

 冷たく、硬い雨だった。

 ノラは物置小屋の軒下で雨宿りしていて、俺は乾いた縁の下から見ていた。


「おい、白いの。風邪ひくぞ」

「猫はどこにでも入り込めていいな」


「猫の毛は防水性がないんでな、濡れない場所は常に確保してあるのさ」


 雨音に混じって、遠くで電車の音がした。

 ノラがぽつりと言った。

「俺、昔は飼われてたんだ」


「だろうな。その目は、誰かを見てた目だ」

「飼い主のばあさんが死んでな、家がなくなった。残ったのは首輪の跡だけだ」

「それで流れてきたのか」


「ああ。自由ってのは、あんがい唐突に始まるもんだな」


 ノラは笑った。

 でもその笑いは、雨みたいに冷たかった。


 俺は何も言わなかった。

 ただ、縁の下で尻尾を巻いた。


 ──猫は、他人の悲しみに口を出さない。

 それが、俺たちの流儀だ。



 春が近づくころ、ノラは町の顔になりつつあった。

 パン屋の前に座ればパンの耳が出てくるし、

 八百屋の兄ちゃんが時々、肉の端をくれる。


「野良にしては礼儀正しい」と評判だった。

 礼儀ってのは、媚びることじゃねぇ。“一線を越えないこと”だ。

 あいつはそれをよくわかってた。


 グレとノラ。

 猫と犬。

 交わらないはずの二本の線が、町の中でときどき重なってた。


 宗方先生も気づいていた。

「最近、白い犬がいるわね。グレさんの友達?」

『まあ、そんなとこだ』


『おい、勝手に友達にすんな』

『違うのか?』

『……まぁ、嫌いじゃねぇ』


 そのやりとりに、先生が笑った。

 “嫌いじゃねぇ”ってのは、犬の世界じゃ最高級の褒め言葉だ。



***



 ある夜、ノラがいなかった。

 河原にも、パン屋の裏にもいない。

 胸がざわついた。


 探して歩くうち、町外れの倉庫で、

 あの三匹の野犬どもと再会した。

 ガルたちだ。


 その真ん中に、ノラがいた。

 背を向けて、無言で立ってた。


「まだやる気か、白いの?」

「借りは返す主義なんでな」

 あいつはそう言って、一歩踏み出した。


 俺は屋根の影から見てた。

 助けに入るべきか、迷った。

 けど、ノラの背中が言ってた。

 “これは俺の戦いだ”


 戦いは短かった。

 ノラはもう、以前のノラじゃなかった。

 俺との稽古が効いてたのかもしれねぇ。

 犬の動きで、猫の間合いを使ってた。

 見事なもんだ。


 ガルが倒れ、他の二匹が逃げた時、

 俺はやっと近づいた。


「……無茶しやがって」

「これでヤツらへの借りが消えた」

「律儀だな」



 ノラは笑って、地面に座り込んだ。

 その横顔が、月明かりで白く光ってた。


 “自由ってのは、誰かに借りを返した後に残る時間のこと”

 あの時、ふとそんな言葉が浮かんだ。



 その後、ノラは宗方病院の裏庭に来るようになった。

 夜になると、静かに寝転がって、風の匂いを嗅いでいた。

 まるでそこが、自分の寝床だとでも言うみたいに。


 宗方先生はそれを知っていて、知らないふりをした。

 「ノラくん、また来てるのね」と笑いながら、

 玄関の陰に水皿を置いて帰る。

 気づくと、その横にはツナ缶がひとつ。

 グレ専用のはずなんだが、最近二匹分に増えた。


 俺が文句を言うと、先生は笑って言った。

 「仲良く分けて食べてね」

 『猫と犬を一緒くたにするな』

 『いいじゃねぇか、腹が満たされりゃ同じだろ』

 ……まったく、犬ってやつは論理が雑だ。


 けど、その夜。

 缶詰の半分を残したまま寝たノラを見て、

 俺は少しだけ、胸が温かくなった。

 “分け合う”ってのは、たぶんこういうことなんだろう。



 ノラは妙に几帳面だった。

 餌を食う時も、皿の周りを一周して匂いを嗅ぐ。

 水を飲む前に、必ず一口だけ空気を舐める。

 雨の日は病院の軒下を掃除するように歩き、

 晴れた日は日陰を選んで座る。


 俺がそれを見て、「犬ってのはマメだな」と言うと、

 ノラは涼しい顔でこう言った。

「自由でいるには、段取りが要るんだよ」


 “自由に生きる努力”ってやつを、あいつは毎日ちゃんとやってた。


 宗方先生がよく言ってた。

 「ノラくんは律儀ね。人間だったら郵便局員になってたかも」

 『悪くねぇ仕事だな。配って歩くってのは、風みたいだ』

 ノラはそう言って笑った。


 あの笑い方をするときだけ、少しだけ若返るように見える。


 俺は、そんな犬を他に知らない。



 春の終わり。

 夜風が暖かくなってきた頃。


 宗方先生は、珍しく遅くまで電気をつけていた。

 カルテの山を前にして、肩を丸めてる。

 疲れた目をしてた。

 きっと、あの“父親の字”がまだ消せないからだろう。


「おい、先生。寝ろよ」

 心の中でそう呟いても、もちろん届かない。


 すると、ノラが静かに近づいた。

 窓の外から覗いて、ぽつりと言った。

「あの人、悲しいのか?」

「悲しいっていうより、寂しいんだ」


「寂しいのと悲しいのは違うのか?」

「寂しいのは、消えねぇ誰かの温もりを、まだ覚えてる時間だ」


「じゃあ、悲しいのは?」

「その温もりが、もう二度と戻らないと悟っちまった時間だ」


 ノラはしばらく黙ってた。

 やがて、ぽつりとつぶやいた。

「……俺も、寂しいほうかもな」


 そう言って、病院の裏口の前に座った。まるで、誰かを見守る番犬みたいに。

 いや、“誰か”じゃない。宗方先生をだ。


 犬ってやつは、言葉を使わずに忠義を見せる。


 猫ができねぇ芸当だ。

 だけどその夜ばかりは、俺も同じ気持ちだった。

 屋根の上から、灯の中の先生を、ずっと見ていた。



 グレとノラ。

 猫と犬。

 気づけば、町の風景の一部になっていた。


 クロは屋根の上から笑って言った。

「おいグレ、白いのとはどういう関係だ?」

「腐れ縁みたいなもんだ」


「友情って言えよ、素直に」

「猫がそんなベタな言葉使えるか」


「じゃあ“共犯者”だな」

「……それは、悪くねぇ」


 そう答えた俺に、クロはケラケラ笑って飛び立った。



 季節は、夏になった。

 蝉が鳴き始め、アスファルトが焦げる。

 ノラはその影で寝転がり、俺は塀の上から町を眺める。

 風がゆるくて、どこか人間臭い。


 ある日の夕暮れ。

 ノラが言った。

「グレ、お前、昔は群れを持ってたのか?」

「猫は群れねぇよ。自由業だからな」


「俺もそうだったけど、最近思うんだ。自由ってのは、孤独の上に立ってる塔みたいなもんだな」

「ほう、詩人めいてきたな」


「高く立つほど、誰も隣にいねぇ。でも下を見れば町が見える。──それで十分なんだ」


 その言葉を聞いて、俺は妙に胸が詰まった。

 たぶん、あいつが“孤独を受け入れた”瞬間を見たからだ。

 人間でも、そこまで達観できる奴はそういねぇ。


 風が吹いた。

 ツナ缶の匂いが漂った。

 俺は空を見上げて言った。

「ノラ。お前、案外この町に馴染んじまったな」

「ああ。風がいいんだよ、この町は」



 夜。

 宗方先生はカルテを書いていた。

 窓際のランプが、オレンジ色の光を落としている。

 俺は屋根の上。ノラは裏庭のベンチ。


 先生が書き終えると、ペンを置いて言った。

「グレさん、ノラくん、おやすみ」

 その声が、静かな夜気に溶けていった。


 俺は尻尾を巻いて、ひとつ伸びをした。

 ノラが下から言う。

「おいグレ。お前、眠る前に何考える?」

「明日の飯のこと」

「現実的だな」

「猫は夢見ない生き物だからな」

「そうか。俺は夢を見る。でかい空を走ってる夢だ」

「飛んでるんじゃなくて、走ってんのか?」

「ああ。走るってのは、地面を踏んで生きてる証拠だろ」


 俺は笑った。

「お前、ほんとに野良犬のプロだな」

「お前こそ、町の哲学者だ」


 風がふっと抜けた。

 遠くでクロが鳴いた。

 世界が、やけに穏やかに見えた。


 宗方動物病院の屋根の上。

 俺たち三匹──正確には二匹と一人──は、それぞれの居場所で、同じ夜を見ていた。


 ノラは裏庭で眠りにつき、先生はカルテの山を前に、静かに目を閉じた。


 俺は屋根の上で、町の灯を見下ろしていた。


 この町のどこかで、パンの耳の匂いがした。

 誰かが笑って、誰かが泣いて、誰かがそれを聞いている。


 それだけで、この世界は案外、──悪くない。


 俺は目を細めて、夜に呟いた。


「おやすみ、ノラ。おやすみ、先生」


 風が通り過ぎた。

 草の匂いと、ツナの匂い。

 それに混じって、白い犬の寝息が微かに聞こえた。


 ──ああ、今夜もいい夜だ。


 遠くで、ノラが寝返りを打った。

 その音が、まるで返事みたいに聞こえた。




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