カルテ20、骨折する猫とポールダンサー
猫ってのは、重力を信じてない生き物だと思う。
だってそうだろう。あの体で、あの高さから平気で飛ぶ。
人間で言えば、ビルの三階から日常的にダイブしてるようなもんだ。
しかも着地したあと、何事もなかったような顔をして毛づくろい。
──あれは、傲慢だ。
けど、今回の患者はその「傲慢」が裏目に出た。
家猫のくせに、三度目の骨折。
足にギプス、目はキョトン。
飼い主がキャリーバッグから出すとき、猫は鳴きもせずにため息みたいな声を出した。
『……またやっちまったな』
「また、ですか」
私が言うと、飼い主の女性は、肩までの髪を払いながら苦笑した。
「そうなんです。三回目」
彼女の名は早瀬美咲。
年は三十前後。
スウェット姿なのに、どこか舞台衣装みたいな空気をまとっている。
動きが柔らかい。筋肉がしなやか。
体を使う仕事だとすぐわかった。
「落ちた場所は?」
「キッチンの棚の上です。今度はマットレスも何も敷いてないところで」
「……学習しないタイプですね」
「それは私もです」
少し笑って言う。
その笑い方が、どこか“転んでも笑ってる人”のそれだった。
レントゲンを撮ると、やはり骨折。前脚の中骨。
完治までは三週間はかかる。
猫の回復力は強いけど、彼の場合は“跳ぶ癖”が治らない限り、またやる。
「家の中で高いところ、残ってませんか」
「うーん、ポールぐらいですかね」
「ポール?」
「あ、私、ポールダンスやってて」
「……なるほど」
言葉が出なかった。
猫が跳び、飼い主が舞う家。
物理法則よりも意志が強そうな空間だ。
診察を終え、カルテに「サブ(三歳・アメショー)」と書く。
名前の横に(骨折三回目)と付け加えた。
飼い主に聞くと、「サブ」は“サブマリン”の略だという。
「潜るのが好きで、気づくとソファの下とかにいるんです」
「じゃあ、上に登るのは筋違いですね」
「そうなんですよ……」
彼女がキャリーを抱えて帰るとき、猫の声が聞こえた。
『あの子、自分も飛べると思ってるんだよ』
「飼い主さんのこと?」
『うん。オレと違って、ポールに登って、落ちてもまた登る。だから止められねぇ。止めると、あの子が壊れる』
私は返事をしなかった。
彼の声が、ただの比喩じゃない気がしたから。
二日後、電話が鳴った。
「宗方先生、すみません、ちょっと相談が……」
早瀬さんの声だった。
「サブ、ケージの上に登ろうとして。脚がまだ治ってないのに、もう飛ぼうとするんです」
「止めましょう」
「でも、止めたら、鳴くんです。すごく悲しそうに」
私は少し黙ってから言った。
「人間も、同じですよ。跳ばないと、息が詰まる」
「……先生も?」
「私も、昔は獣医学校でいろいろ跳んでました」
「落ちました?」
「見事に」
二人で笑った。
三日後、彼女が再び来た。
「診てもらえますか。今度は私が」
「え?」
「ポールから落ちました」
「いや、人間用の病院に行きましょうよ」
「あはは。そうでしたね」
屈託なく笑う彼女に湿布を差し出した。
「軽い打撲のようですし、自分で貼ってください」
湿布を貼りながら彼女が言った。
「ポールの上から見る景色、すごく気持ちいいんですよ。でも、降り方っていつまでも難しい」
私は笑いながらも、頭のどこかでサブの言葉を反芻していた。
“あの子、飛べると思ってる”
夜、カルテを書きながら考えた。
──なぜ、猫も人も、そんなに高いところを目指すんだろう。
地べたにいれば安全なのに。
もしかしたら、高さというのは“生きてる実感”そのものなのかもしれない。
登って、落ちて、痛くて、それでもまた登る。
その繰り返しで、命は形を保っている。
サブが夢の中でつぶやいた。
『人間って、骨より心のほうが折れやすいんだな』
「……よく知ってるね」
『あの子、見てりゃわかるさ』
数日後、私は早瀬さんのポールダンススタジオを訪ねた。
商店街の二階。
薄暗い階段を上がると、白い壁の中で金属のポールが天井まで伸びていた。
早瀬さんは音楽に合わせて踊っていた。
身体が空中に浮かび、逆さまになり、回転する。
落ちそうで落ちない。
見ているこっちの方が息が止まる。
音楽が止まると、彼女が笑った。
「先生、意外。来てくれるなんて」
「仕事のついでです」
「猫の視察ですか?」
「ええ。飼い主の方を診に」
彼女は汗をぬぐいながら笑った。
「サブ、私のマネしてるのかもしれないですね」
「登って、落ちる?」
「そう。私が落ちても笑ってるから、あの子も“痛くない”と思ってるのかも」
その言葉が、胸に刺さった。
笑いながら落ちる──それが彼女の生き方か。
帰り際、サブの声が頭の奥で囁いた。
『先生、あの子、空を信じすぎなんだ。オレは落ちる前に地面を見るけど、あの子は落ちても空を見てる』
私は黙って頷いた。
獣医ってのは、骨を治す仕事だけど、
時々、心の“降り方”まで考えさせられる。
あれから十日後。
サブはまたやらかした。
夜十時過ぎ。閉院間際に電話が鳴った。
「先生、サブが、また……!」
受話器越しの早瀬さんの声が、かすれていた。
「すぐ来て」
玄関を開けた彼女の腕の中に、ぐったりしたサブがいた。
脚が変な方向に曲がっている。
私は無言で受け取り、手術室へ運んだ。
レントゲンを撮るまでもなく、また骨折。
前脚、今度は反対側。
「家から出してないんですよ」
「……知ってます」
淡々と処置をしながら、心の中では叫んでいた。
──なぜ、何度も飛ぶんだ。
麻酔をかけ、骨を固定し、縫合。
終わるころには夜が明けていた。
窓の外が青白くなりはじめた頃、サブの心の声が聞こえた。
『……先生。あの子、昨日泣いてたんだ』
「早瀬さんが?」
『ああ。ポールの大会、落ちたらしい。“踊る場所がなくなった”って呟いてた。オレ、あの子が泣くの見て、反射的に飛んだんだ。落ちても大丈夫だって、見せたかったんだよ』
私は手を止めた。
「それで飛んだの?」
『ああ。バカだろ? でも、あの子、笑ったぜ。“あんた、私より勇気あるじゃん”って』
彼の声に、涙腺が緩んだ。
猫にそんな意図があるはずない、という理性と、
そうであってほしいという感情が、胸の中でぐちゃぐちゃになった。
手術が終わって数時間後、早瀬さんが戻ってきた。
夜を徹していたらしく、目の下にクマをつくっている。
「どうですか」
「命に別状はありません。でも、もう飛ばせない方がいい」
「……はい」
彼女はケージの前にしゃがみ、サブの頭を撫でた。
「ごめんね。もう無茶しないで」
サブは目を細めた。
『お前もな』
私はそのやりとりを見ながら、
なんとなく病院の窓を開けた。
朝の風が入ってくる。
──あぁ、息ってこうやってするんだ。
忙しさにかまけて、しばらく忘れてた。
一週間後、サブは包帯のままリハビリを始めた。
キャリーから出すと、三本足でぴょんぴょん歩く。
それを見て早瀬さんが言った。
「やっぱり、登りたがってる」
「本能ですよ。猫も人も“上”が好きなんです」
「先生も?」
「まあね。高い木から落ちたこと、何度もある」
「立ち上がったんですか」
「立たないと、動物の前で説得力ないですから」
彼女は少し笑った。
「私もまた登りたい。舞台、決まったんです」
「よかったですね」
「テーマ、“再生”です」
タイミングが良すぎて、思わず笑ってしまった。
サブも一緒に、「ニャッ」と鳴いた。
その週末。
彼女から招待状が届いた。
“Pole Dance Performance『Rebirth』”
場所は小さなライブハウス。
観客席の隅で私は腕を組んでいた。
ステージに立った早瀬さんは、
以前よりずっと穏やかな顔をしていた。
音楽が流れる。
彼女はゆっくりポールに登る。
高さは以前より低い。
でも、その動きは確かだった。
派手な技より、降りるときの静けさが美しかった。
落ちるのではなく、“帰ってくる”みたいな降り方。
その瞬間、思った。
──サブの手術も、あの子の踊りも、同じなんだ。
壊れたものを繋ぐ仕事。
骨でも、心でも。
公演のあと、楽屋で会った。
「先生、見てくれたんですか」
「仕事の研究です」
「どうでした?」
「落ち方が上手くなってました」
「ひどい褒め方ですね」
「最高の褒め言葉です」
彼女は笑い、タオルで汗を拭いた。
「サブ、最近おとなしいんですよ。ポールの下で寝てばっかり」
「いいじゃないですか。見守り役ですよ」
「……そうかも」
帰り際、彼女がぽつりと言った。
「先生、人って何回まで折れていいんですかね」
「何回でも。折れるたびに、強く、そして少し柔らかくなるから」
その言葉を自分で言いながら、
──ああ、これ、自分に言ってるな、と思った。
数日後。
朝の見回りをしていると、待合室の窓辺にサブがいた。
早瀬さんが出かける前に預けたらしい。
窓際の光の中、サブがこちらを見た。
『先生。あの子、もう泣かなくなったよ』
「そう」
『オレも、もう飛ばねぇ。……多分な』
「多分ってなに」
『あの子が笑ってるうちは、オレも地面でいい』
私は笑って窓を開けた。
風が吹き込み、カーテンがふわりと揺れた。
その揺れが、まるでポールの上の動きのようで、
私は一瞬、空と地面の区別がわからなくなった。
夜。
カルテを書きながら、
「サブ(三歳・アメショー)」の欄に新しい一行を加えた。
──「三度の骨折、完治。
飛翔、再開。
飼い主・再生。
“降り方”を習得。」
ペンを置いたとき、
サブの低い声が耳の奥で響いた。
『先生。オレ、今度は落ちても笑える気がするよ』
「うん。私も」
窓の外、夜風が静かに吹いた。
街の灯が点いて、ひとつひとつの窓の向こうに
誰かが登ったり、降りたりしている気がした。
──人生ってのは、ポールダンスみたいなもんだ。
登る勇気と、降りる優雅さ。
どっちも、骨がいる。
私は椅子に深く座り、
背伸びをした。
関節がコキコキ鳴る音が、
サブの小さな鳴き声と重なった。
夜の宗方動物病院。
窓の外に、猫の影が一瞬よぎった。
その姿勢はまるで、
──落ちるというより、踊っているようだった。
私は笑って、灯を消した。




