表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/35

カルテ19、堅実な野良犬と団地っ子



 犬は、実に律儀な生き物だ。


 どんなに野良であっても、ルールというものを持っている。


──人間の世界に入りすぎない。夜は騒がない。やたら吠えない。


 この三原則を守って生きてる犬は、案外少ない。

 でも、この町の河原には一匹だけいた。


 きちんとした“野良”が。


 ──ノラ。


 それが、彼の名前。

 いや、正確には名前なんてものはなかった。

 だけど、みんながそう呼ぶ。


 犬自身もまんざらでもなさそうだった。「名を持たない自由」ってやつを、うまく利用してるタイプだ。


 ノラとは、たまに会っていた。


 うちの病院の裏手から河原へ抜ける小道があって、朝のゴミ捨てのついでに行くと、彼は草の上であくびをしていた。白い体に陽の光を浴びながら、この世で一番のんびりした顔をして。


『おう、先生。今日も早いな』

 そういう声が聞こえる。


 私は動物の“心の声”が聞こえる獣医だ。

 便利というより、やっかいな才能。

 黙ってても、彼らの本音が聞こえてくるから。


「ノラ。最近ちょっと痩せたね」


『夜風が冷たいんだよ。毛布の代わりに新聞紙探してたら、朝になってやがんの』


「風邪ひくよ。診せにおいで」

『冗談。お前んとこ行ったら、注射されるだろ』


 そんなやりとりを、もう半年くらい続けていた。

 うちに来る動物の中で、彼がいちばん人間臭い。


 世間をハスに見ながらも、妙に筋が通っている。

 それが、野良犬ノラという男(いや、犬)だ。


 そして、もう一人。


 最近、彼の隣によく座っている少年がいる。

 ランドセルの代わりに釣り竿を持った小学五年生。


 木村将太くん。


 団地に住んでいる。母親と二人暮らし。


 彼はいつもパンの耳をポケットに入れている。

 それをちぎってノラに渡す。


 ノラは受け取る時だけ、やけに礼儀正しい。

 『ありがとう、将太坊。パンの耳ってのは、人間社会の“余白”みたいな味がして好きだ』


 ──そんなことを言う犬、他にいない。


 私は遠くからその光景を見ていた。

 まるで、互いに“居場所を分け合ってる”ように見えた。


 どっちも、世界の隅っこで生きてる者同士。


 その日の午後、病院のドアが勢いよく開いた。

「先生!」


 息を切らせて立っていたのは、河原の少年だった。


 「先生、この犬、預かってよ」


 ノラが、申し訳なさそうに入ってきた。

 尻尾を下げて、けれどどこか堂々としている。


「どうしたの?」

「僕、飼うことにした。だから、先生のとこで預かって」


「……は?」

 彼の言葉を咀嚼するのに、五秒かかった。


「将太くん、飼うって、団地でしょ。動物禁止だよね」


「うん。でも、だからさ、先生のとこに置かせてよ。庭もあるし。餌も持ってくるし、迷惑かけないから」


 その口調があまりに真っ直ぐで、思わず笑ってしまいそうになった。

 ノラはというと、やや引き気味に尻尾を振っている。


『おいおい、ガキ。話が違うぞ』


「話?」私は二人を交互に見た。


 『“会いに来る”だけの約束だったろ。オレ、檻とか苦手なんだよ』


 少年は必死で、犬は冷静。

 この組み合わせ、何か胸がざわつく。


「動物を飼うってことはね、責任を持つってこと。ご飯をあげるとか、遊ぶだけじゃないんだよ。病気したら面倒を見るし、最期までそばにいるってこと」


「わかってる。僕、毎日来るよ。放課後も、土日も。ここに来て、ノラの世話する」


「でも……」

「お願い! あいつ、団地にいたら怒られるんだ」


 その“あいつ”は、少し離れた場所であくびをしていた。

『先生、悪いな。コイツ、思い込んだら止まらんタイプで』


「ノラ、どうしたいの?」

『オレか? ま、寒くないならどこでもいい。──でも、檻は勘弁な。あと、注射も』


「治療しないと、うちじゃ預かれないよ」

『だよな……ま、人生ってのはそんなもんだ』


 ノラはそう言って、のそのそと窓の外に出ていった。


 少年が追いかけようとしたが、私は手を上げて止めた。

「放っておきな。ノラは、“逃げ方”を知ってるから」


 将太は唇をかんだ。

「……逃げてないよ」

 その声は震えていた。

「あいつ、ちゃんと待ってるもん」

 そう言って、玄関を飛び出していった。


 診察室に残ったのは、

 ほんの少しの犬の毛と、少年の体温だった。



 夕方、河原へ行ってみると、ノラがいた。

 将太の姿はない。


 犬は草むらの中で寝転がって、川の流れを眺めていた。

『先生、あのガキ、泣いてたぞ』


「そう……」

『オレに“飼う”とか言ってたけど、“飼う”ってのは、自分の世界に閉じ込めるってことだろ……オレ、外が好きなんだよ。風の匂いとか、遠くの匂いとか。人の家のカレーの匂いもな。──そういうの、檻の中じゃ嗅げない』


「でも、寂しくない?」

『寂しいのと自由は、だいたいセットなんだ』


 犬の哲学ってやつは、時々、人間より深い。

 私は彼の背中を見ながら思った。


 ──この子は、どこにも属さない生き方を選んだんだ。


 病院の、郵便受けにメモが入っていた。

 将太の字だった。

 「ノラのごはん代 五百円」


 メモの横には、百円玉が五枚。

 丁寧にセロテープで貼ってある。

 泣けた。

 あの子なりに、ちゃんと“責任”を果たそうとしてる。



 翌朝。

 病院の裏庭に、ノラがいた。

 毛並みが少し濡れて、足を引きずっている。


「どうしたの?」

『転んだ。人の家の屋根裏に忍び込んで、パン盗もうとしたら、瓦がズレやがった』


「泥棒じゃないの」

『余りもんだ。誰も食ってねぇやつだ。“無駄にするなら食ってやるほうがいい”って、この辺によく居た灰色猫も言ってたぞ』


「グレさんね……」


『そう言えば、あいつ最近見ないな。おしゃべりカラスも』


「グレさんもクロも行っちゃったからね……クロは二代目が時々来るけど」


 傷口を見て、思わずため息が出た。


「ノラ、病院嫌いなのに、なんで来たの」

『あのガキの匂いがしたからな。ここに居りゃそのうち来るだろ』


「将太くん?」

『ああ。あいつ、泣き顔のまま寝たら、風邪ひく』


 そう言うと、ノラは大人しく診察台に乗った。

 体温を測ると少し熱があった。


 点滴の準備をすると、彼が小さく唸った。

『頼む、細めの針でな』

「わかってる」


 注射のあと、彼はうとうとと眠った。

 私は、その寝顔を見つめながら思った。

 ──自由って、案外、脆いものなのかもしれない。


 誰にも縛られない代わりに、誰にも守ってもらえない。


 昼過ぎ、雨が降り出した。

 裏庭のノラは、濡れるのも構わずじっとしていた。


 点滴の管が風に揺れている。

 私は白衣のポケットからタオルを取り出して、そっと拭いた。


『先生、あのガキ、今日来ると思うか』

「来るよ。あの子は“来る”って決めたら来るタイプ」


『そっか。まあ、来なくてもいいんだけどな。あいつ、団地のルールに逆らって、このオレなんかのために怒られてんだぜ』


「聞いたの?」

『噂話ってのは風に乗るんだ。“団地で犬を隠してるガキがいる”って』


 ノラは少し笑った。

『人間って、群れるとめんどくせぇな』

「犬だって、群れるよ」


『あんなのは“群れ”じゃねぇ。“監視”だよ。吠える奴がいれば、他の奴が合わせて吠える。静かな奴は浮く。だからオレは一匹でいい』


 その言葉が妙に胸に残った。


 群れない自由と、守られない孤独。

 たぶん、この犬は“生き方”で悩んだことのある大人と同じだ。



 夕方。

 雨が上がると同時に、玄関のドアが開いた。


 将太だった。びしょぬれで、息を切らせている。


「先生! ノラ、いる!?」

「いるよ。裏庭で休んでる」


 少年は靴のまま駆けていった。


 ノラのもとに辿りつくと、顔をくしゃっと歪めて泣いた。

 「ノラ、よかったぁ……。団地の人に見つかっちゃって、警察呼ばれるとこだったんだ。僕、逃げて……」


 ノラはその言葉を聞いて、尻尾をゆっくり振った。

 『バカだな、お前。オレなんかのせいで』


「怒られたっていい。ノラがいないほうが嫌だ!」


『……ガキんちょは真っ直ぐすぎるんだよ』

 私は聞こえたその言葉を胸の奥で繰り返した。


「ノラ、熱があるの。しばらくここで預かるね」

「僕、手伝う!」


「だめ。風邪ひいてる子が風邪ひいた犬を看るのは非効率」

「でも……」

「明日も会わせてあげるから、今日は帰りなさい」


 将太はしばらく迷ってから、

 ポケットの中のパンの耳を取り出してノラの足元に置いた。

「これ、明日も持ってくるから」


 ノラはそのパンを見て、『お前、明日も来るつもりか。……ま、悪くねぇけどな』と呟いた。



 その夜、ノラの呼吸が荒くなった。

 小さな呻き声が喉の奥から漏れる。

 私は横で見守りながら、そっと酸素マスクをあてた。


 雨音だけが、静かに時間を刻んでいた。


 彼は目を細めて、かすかに尻尾を動かした。


『先生、オレ、なんか悪いことしたかな』

「してないよ」


『将太のガキ、泣かせちまった。──“自由”って言葉を教えたつもりが、あいつの世界を狭くしただけかもな』


「……そんなことない」


『オレは野良だ。どこの誰のものでもねぇ。でもあいつは、オレを“誰か”にしたがってる。名前も、家も、首輪も。──あいつにとっちゃ、それが“愛”なんだろうな』


 ノラは静かに目を閉じた。


「将太くんも、自由に憧れてるんだと思うよ」

『人間が自由に憧れるってのは、檻の中にいるからだ。外の寒さ、知らねぇからな』


 私は言葉を失った。

 犬に諭されるなんて、久しぶりだ。



 翌朝。

 ノラの熱は下がったが、表情が少し遠かった。

 私は開院の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。


 ドアを開けると、団地の自治会長を名乗る年配の男性が立っていた。


「先生のところに、野良犬がいるそうですね」

「ああ……治療で預かってます」


「団地の子どもが、あの犬に関わってましてね。危ないんですよ。狂犬病とか。それに、動物禁止区域に入ってきたって苦情が出てます」


 私は頭を下げた。

「治療が終わったら、放します。心配しないでください」


「放さず役所にでも──」

 会長はまだ何か言いかけたが、診察台の方からノラの低い声が響くと、少し怯んで帰っていった。


『ああいうのがいちばん怖ぇんだ。吠えもしねぇのに、群れを動かす』


「……ほんと、よく見てるね」



 午後、将太が再びやって来た。


 手には小さな紙袋。

「ノラに、クッキー作った」

「犬用?」


「人間用。でも、味薄いから平気だと思う」


 彼がノラの頭を撫でると、

 ノラはゆっくり目を開けて尻尾を振った。


「心配してくれてるの? みんなからは怒られてる。けど、もういい」

『強くなったな』


 その瞬間、私は確信した。

 この二人の間にあるのは、飼い主と犬の関係じゃない。

 もっと曖昧で、もっと深い。

 “世界の端で見つけた、居場所の共有”だ。



 三日後の朝。

 ノラはいなかった。


 裏口の扉が少し開いていて、そこから抜けたらしい。

 将太が来て、必死で河原を探した。

「ノラ――っ!」


 声が空に吸い込まれていく。


 私は静かに言った。

「ノラは、きっと自分で帰り道を選んだんだと思う」

「帰り道……」


「そう。ノラにとって、“自由でいられる場所”が家なんだよ」

「……じゃあ、僕は?」


「君は、“誰かを待つ場所”を持ってる。それは、すごいことだよ」


 将太は涙をぬぐって、うなずいた。


 その顔を見ながら、私はノラの声が遠くで響いた気がした。


『泣くなよ、ガキ。オレはどこにも行かねぇ。風の中にいりゃ、いつだって会える』



 一週間後。

 団地の裏手のフェンスに、子どもたちが集まっていた。

 「おーい! 白い犬がいる!」

 駆けつけると、ノラが草むらの上にいた。


 体は少し汚れていたが、元気そうだった。


 フェンス越しに将太が声をかける。

「ノラ!」


 ノラは尻尾を一度だけ振った。

それから、ゆっくりと河原の方へ歩いていく。


 振り返らない。振り返る必要もない。

 その歩き方が、どこまでも自由で、格好良かった。


 私は胸の奥で呟いた。

 ──さよならじゃない。

 この町のどこかで、また会える。



 その夜、カルテの端に書き残した。


 「ノラ(推定三歳・オス)

  治癒。帰還。

  少年一人、心を獲得」


 書き終えた瞬間、窓の外で風が鳴った。

 まるで、誰かが笑っているような音だった。



 日曜日。

 将太と母親が病院に来た。


 母親は少し気まずそうに頭を下げる。

「先生、この子、勝手なことばかりして……」

「いいえ。ちゃんと責任、取ってましたよ」


「え?」

「ノラくんのごはん代、ちゃんと払ってました」


 母親は目を丸くした。

 将太は顔を真っ赤にして、「もうやめてよ!」と叫んで走り出した。


 外で風が吹き、彼の笑い声が溶けていった。



 夕方、私は久しぶりに河原に行った。

 あの草むらのあたりに、犬の足跡があった。

 土の上に、小さな前足と後ろ足が二つずつ。


 その間に、パンの耳が一枚だけ置いてあった。


『先生、パンの耳ってのは、人間の優しさの端っこだな』

 あの声が、確かに聞こえた。


 私はしゃがみこんで、パンの耳を手に取った。


 柔らかく、どこか懐かしい匂いがした。



 病院に戻って、カルテ棚の上を見た。

 そこには、ひとつの空いたスペースがある。

 「ノラ」と書いたフォルダをそっと差し込んだ。

 その瞬間、どこかで犬の遠吠えが聞こえた気がした。


 宗方動物病院──

 “命と心をつなぐ場所”と看板にあるけど、

 たぶんそれは“心を預かる場所”でもある。


 ノラの居場所は、風の中にある。

 将太の居場所は、その風を待つ心の中にある。

 そして私は、その二人をほんの少しだけ、

 見守る場所にいる。


 ──それで、十分だ。


 夜の窓を開けると、河原の方から小さな鳴き声が聞こえた。

『先生、あのガキ、元気にしてるか?』


「うん。元気だよ」

『そっか。じゃあ、オレももう少し自由でいられるな』


 風が頬を撫でた。


 私は笑って、夜空に向かって小さく答えた。


「うん。お互いに」


 河原の草が、静かに揺れていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ