カルテ19、堅実な野良犬と団地っ子
犬は、実に律儀な生き物だ。
どんなに野良であっても、ルールというものを持っている。
──人間の世界に入りすぎない。夜は騒がない。やたら吠えない。
この三原則を守って生きてる犬は、案外少ない。
でも、この町の河原には一匹だけいた。
きちんとした“野良”が。
──ノラ。
それが、彼の名前。
いや、正確には名前なんてものはなかった。
だけど、みんながそう呼ぶ。
犬自身もまんざらでもなさそうだった。「名を持たない自由」ってやつを、うまく利用してるタイプだ。
ノラとは、たまに会っていた。
うちの病院の裏手から河原へ抜ける小道があって、朝のゴミ捨てのついでに行くと、彼は草の上であくびをしていた。白い体に陽の光を浴びながら、この世で一番のんびりした顔をして。
『おう、先生。今日も早いな』
そういう声が聞こえる。
私は動物の“心の声”が聞こえる獣医だ。
便利というより、やっかいな才能。
黙ってても、彼らの本音が聞こえてくるから。
「ノラ。最近ちょっと痩せたね」
『夜風が冷たいんだよ。毛布の代わりに新聞紙探してたら、朝になってやがんの』
「風邪ひくよ。診せにおいで」
『冗談。お前んとこ行ったら、注射されるだろ』
そんなやりとりを、もう半年くらい続けていた。
うちに来る動物の中で、彼がいちばん人間臭い。
世間をハスに見ながらも、妙に筋が通っている。
それが、野良犬ノラという男(いや、犬)だ。
そして、もう一人。
最近、彼の隣によく座っている少年がいる。
ランドセルの代わりに釣り竿を持った小学五年生。
木村将太くん。
団地に住んでいる。母親と二人暮らし。
彼はいつもパンの耳をポケットに入れている。
それをちぎってノラに渡す。
ノラは受け取る時だけ、やけに礼儀正しい。
『ありがとう、将太坊。パンの耳ってのは、人間社会の“余白”みたいな味がして好きだ』
──そんなことを言う犬、他にいない。
私は遠くからその光景を見ていた。
まるで、互いに“居場所を分け合ってる”ように見えた。
どっちも、世界の隅っこで生きてる者同士。
その日の午後、病院のドアが勢いよく開いた。
「先生!」
息を切らせて立っていたのは、河原の少年だった。
「先生、この犬、預かってよ」
ノラが、申し訳なさそうに入ってきた。
尻尾を下げて、けれどどこか堂々としている。
「どうしたの?」
「僕、飼うことにした。だから、先生のとこで預かって」
「……は?」
彼の言葉を咀嚼するのに、五秒かかった。
「将太くん、飼うって、団地でしょ。動物禁止だよね」
「うん。でも、だからさ、先生のとこに置かせてよ。庭もあるし。餌も持ってくるし、迷惑かけないから」
その口調があまりに真っ直ぐで、思わず笑ってしまいそうになった。
ノラはというと、やや引き気味に尻尾を振っている。
『おいおい、ガキ。話が違うぞ』
「話?」私は二人を交互に見た。
『“会いに来る”だけの約束だったろ。オレ、檻とか苦手なんだよ』
少年は必死で、犬は冷静。
この組み合わせ、何か胸がざわつく。
「動物を飼うってことはね、責任を持つってこと。ご飯をあげるとか、遊ぶだけじゃないんだよ。病気したら面倒を見るし、最期までそばにいるってこと」
「わかってる。僕、毎日来るよ。放課後も、土日も。ここに来て、ノラの世話する」
「でも……」
「お願い! あいつ、団地にいたら怒られるんだ」
その“あいつ”は、少し離れた場所であくびをしていた。
『先生、悪いな。コイツ、思い込んだら止まらんタイプで』
「ノラ、どうしたいの?」
『オレか? ま、寒くないならどこでもいい。──でも、檻は勘弁な。あと、注射も』
「治療しないと、うちじゃ預かれないよ」
『だよな……ま、人生ってのはそんなもんだ』
ノラはそう言って、のそのそと窓の外に出ていった。
少年が追いかけようとしたが、私は手を上げて止めた。
「放っておきな。ノラは、“逃げ方”を知ってるから」
将太は唇をかんだ。
「……逃げてないよ」
その声は震えていた。
「あいつ、ちゃんと待ってるもん」
そう言って、玄関を飛び出していった。
診察室に残ったのは、
ほんの少しの犬の毛と、少年の体温だった。
夕方、河原へ行ってみると、ノラがいた。
将太の姿はない。
犬は草むらの中で寝転がって、川の流れを眺めていた。
『先生、あのガキ、泣いてたぞ』
「そう……」
『オレに“飼う”とか言ってたけど、“飼う”ってのは、自分の世界に閉じ込めるってことだろ……オレ、外が好きなんだよ。風の匂いとか、遠くの匂いとか。人の家のカレーの匂いもな。──そういうの、檻の中じゃ嗅げない』
「でも、寂しくない?」
『寂しいのと自由は、だいたいセットなんだ』
犬の哲学ってやつは、時々、人間より深い。
私は彼の背中を見ながら思った。
──この子は、どこにも属さない生き方を選んだんだ。
病院の、郵便受けにメモが入っていた。
将太の字だった。
「ノラのごはん代 五百円」
メモの横には、百円玉が五枚。
丁寧にセロテープで貼ってある。
泣けた。
あの子なりに、ちゃんと“責任”を果たそうとしてる。
翌朝。
病院の裏庭に、ノラがいた。
毛並みが少し濡れて、足を引きずっている。
「どうしたの?」
『転んだ。人の家の屋根裏に忍び込んで、パン盗もうとしたら、瓦がズレやがった』
「泥棒じゃないの」
『余りもんだ。誰も食ってねぇやつだ。“無駄にするなら食ってやるほうがいい”って、この辺によく居た灰色猫も言ってたぞ』
「グレさんね……」
『そう言えば、あいつ最近見ないな。おしゃべりカラスも』
「グレさんもクロも行っちゃったからね……クロは二代目が時々来るけど」
傷口を見て、思わずため息が出た。
「ノラ、病院嫌いなのに、なんで来たの」
『あのガキの匂いがしたからな。ここに居りゃそのうち来るだろ』
「将太くん?」
『ああ。あいつ、泣き顔のまま寝たら、風邪ひく』
そう言うと、ノラは大人しく診察台に乗った。
体温を測ると少し熱があった。
点滴の準備をすると、彼が小さく唸った。
『頼む、細めの針でな』
「わかってる」
注射のあと、彼はうとうとと眠った。
私は、その寝顔を見つめながら思った。
──自由って、案外、脆いものなのかもしれない。
誰にも縛られない代わりに、誰にも守ってもらえない。
昼過ぎ、雨が降り出した。
裏庭のノラは、濡れるのも構わずじっとしていた。
点滴の管が風に揺れている。
私は白衣のポケットからタオルを取り出して、そっと拭いた。
『先生、あのガキ、今日来ると思うか』
「来るよ。あの子は“来る”って決めたら来るタイプ」
『そっか。まあ、来なくてもいいんだけどな。あいつ、団地のルールに逆らって、このオレなんかのために怒られてんだぜ』
「聞いたの?」
『噂話ってのは風に乗るんだ。“団地で犬を隠してるガキがいる”って』
ノラは少し笑った。
『人間って、群れるとめんどくせぇな』
「犬だって、群れるよ」
『あんなのは“群れ”じゃねぇ。“監視”だよ。吠える奴がいれば、他の奴が合わせて吠える。静かな奴は浮く。だからオレは一匹でいい』
その言葉が妙に胸に残った。
群れない自由と、守られない孤独。
たぶん、この犬は“生き方”で悩んだことのある大人と同じだ。
夕方。
雨が上がると同時に、玄関のドアが開いた。
将太だった。びしょぬれで、息を切らせている。
「先生! ノラ、いる!?」
「いるよ。裏庭で休んでる」
少年は靴のまま駆けていった。
ノラのもとに辿りつくと、顔をくしゃっと歪めて泣いた。
「ノラ、よかったぁ……。団地の人に見つかっちゃって、警察呼ばれるとこだったんだ。僕、逃げて……」
ノラはその言葉を聞いて、尻尾をゆっくり振った。
『バカだな、お前。オレなんかのせいで』
「怒られたっていい。ノラがいないほうが嫌だ!」
『……ガキんちょは真っ直ぐすぎるんだよ』
私は聞こえたその言葉を胸の奥で繰り返した。
「ノラ、熱があるの。しばらくここで預かるね」
「僕、手伝う!」
「だめ。風邪ひいてる子が風邪ひいた犬を看るのは非効率」
「でも……」
「明日も会わせてあげるから、今日は帰りなさい」
将太はしばらく迷ってから、
ポケットの中のパンの耳を取り出してノラの足元に置いた。
「これ、明日も持ってくるから」
ノラはそのパンを見て、『お前、明日も来るつもりか。……ま、悪くねぇけどな』と呟いた。
その夜、ノラの呼吸が荒くなった。
小さな呻き声が喉の奥から漏れる。
私は横で見守りながら、そっと酸素マスクをあてた。
雨音だけが、静かに時間を刻んでいた。
彼は目を細めて、かすかに尻尾を動かした。
『先生、オレ、なんか悪いことしたかな』
「してないよ」
『将太のガキ、泣かせちまった。──“自由”って言葉を教えたつもりが、あいつの世界を狭くしただけかもな』
「……そんなことない」
『オレは野良だ。どこの誰のものでもねぇ。でもあいつは、オレを“誰か”にしたがってる。名前も、家も、首輪も。──あいつにとっちゃ、それが“愛”なんだろうな』
ノラは静かに目を閉じた。
「将太くんも、自由に憧れてるんだと思うよ」
『人間が自由に憧れるってのは、檻の中にいるからだ。外の寒さ、知らねぇからな』
私は言葉を失った。
犬に諭されるなんて、久しぶりだ。
翌朝。
ノラの熱は下がったが、表情が少し遠かった。
私は開院の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、団地の自治会長を名乗る年配の男性が立っていた。
「先生のところに、野良犬がいるそうですね」
「ああ……治療で預かってます」
「団地の子どもが、あの犬に関わってましてね。危ないんですよ。狂犬病とか。それに、動物禁止区域に入ってきたって苦情が出てます」
私は頭を下げた。
「治療が終わったら、放します。心配しないでください」
「放さず役所にでも──」
会長はまだ何か言いかけたが、診察台の方からノラの低い声が響くと、少し怯んで帰っていった。
『ああいうのがいちばん怖ぇんだ。吠えもしねぇのに、群れを動かす』
「……ほんと、よく見てるね」
午後、将太が再びやって来た。
手には小さな紙袋。
「ノラに、クッキー作った」
「犬用?」
「人間用。でも、味薄いから平気だと思う」
彼がノラの頭を撫でると、
ノラはゆっくり目を開けて尻尾を振った。
「心配してくれてるの? みんなからは怒られてる。けど、もういい」
『強くなったな』
その瞬間、私は確信した。
この二人の間にあるのは、飼い主と犬の関係じゃない。
もっと曖昧で、もっと深い。
“世界の端で見つけた、居場所の共有”だ。
三日後の朝。
ノラはいなかった。
裏口の扉が少し開いていて、そこから抜けたらしい。
将太が来て、必死で河原を探した。
「ノラ――っ!」
声が空に吸い込まれていく。
私は静かに言った。
「ノラは、きっと自分で帰り道を選んだんだと思う」
「帰り道……」
「そう。ノラにとって、“自由でいられる場所”が家なんだよ」
「……じゃあ、僕は?」
「君は、“誰かを待つ場所”を持ってる。それは、すごいことだよ」
将太は涙をぬぐって、うなずいた。
その顔を見ながら、私はノラの声が遠くで響いた気がした。
『泣くなよ、ガキ。オレはどこにも行かねぇ。風の中にいりゃ、いつだって会える』
一週間後。
団地の裏手のフェンスに、子どもたちが集まっていた。
「おーい! 白い犬がいる!」
駆けつけると、ノラが草むらの上にいた。
体は少し汚れていたが、元気そうだった。
フェンス越しに将太が声をかける。
「ノラ!」
ノラは尻尾を一度だけ振った。
それから、ゆっくりと河原の方へ歩いていく。
振り返らない。振り返る必要もない。
その歩き方が、どこまでも自由で、格好良かった。
私は胸の奥で呟いた。
──さよならじゃない。
この町のどこかで、また会える。
その夜、カルテの端に書き残した。
「ノラ(推定三歳・オス)
治癒。帰還。
少年一人、心を獲得」
書き終えた瞬間、窓の外で風が鳴った。
まるで、誰かが笑っているような音だった。
日曜日。
将太と母親が病院に来た。
母親は少し気まずそうに頭を下げる。
「先生、この子、勝手なことばかりして……」
「いいえ。ちゃんと責任、取ってましたよ」
「え?」
「ノラくんのごはん代、ちゃんと払ってました」
母親は目を丸くした。
将太は顔を真っ赤にして、「もうやめてよ!」と叫んで走り出した。
外で風が吹き、彼の笑い声が溶けていった。
夕方、私は久しぶりに河原に行った。
あの草むらのあたりに、犬の足跡があった。
土の上に、小さな前足と後ろ足が二つずつ。
その間に、パンの耳が一枚だけ置いてあった。
『先生、パンの耳ってのは、人間の優しさの端っこだな』
あの声が、確かに聞こえた。
私はしゃがみこんで、パンの耳を手に取った。
柔らかく、どこか懐かしい匂いがした。
病院に戻って、カルテ棚の上を見た。
そこには、ひとつの空いたスペースがある。
「ノラ」と書いたフォルダをそっと差し込んだ。
その瞬間、どこかで犬の遠吠えが聞こえた気がした。
宗方動物病院──
“命と心をつなぐ場所”と看板にあるけど、
たぶんそれは“心を預かる場所”でもある。
ノラの居場所は、風の中にある。
将太の居場所は、その風を待つ心の中にある。
そして私は、その二人をほんの少しだけ、
見守る場所にいる。
──それで、十分だ。
夜の窓を開けると、河原の方から小さな鳴き声が聞こえた。
『先生、あのガキ、元気にしてるか?』
「うん。元気だよ」
『そっか。じゃあ、オレももう少し自由でいられるな』
風が頬を撫でた。
私は笑って、夜空に向かって小さく答えた。
「うん。お互いに」
河原の草が、静かに揺れていた。




