カルテ18、走るリスと銀行員
たとえば「人生がリスの回し車みたいだ」と言ったら、君は笑うだろうか。
いや、笑ってくれたほうがいい。俺自身、笑うために言ってるんだから。
地方銀行の融資課に勤めて十五年。いまじゃ係長だ。係長といえば聞こえはいいが、実際のところは責任ばかりで権限のない中間管理職である。
上からは「数字を上げろ」
下からは「精神的にキツいです」
顧客からは「もうちょっとなんとかならない?」
家では「あなた、ボーナス減ったの?」
──これのどこに逃げ場があるというのか。
髪の毛も、逃げ場を求めているのかもしれない。
ある朝、鏡の前で頭頂部を見たら、そこだけ砂漠みたいになっていた。
妻は気をつかって「光の加減よ」と言うけど、電気を消しても輝いてるんだから光のせいじゃない。
うちには小学二年と幼稚園の娘がいる。ふたりとも、俺よりはるかに生命力に満ちている。
ある日、長女の芽衣が量販店のペットコーナーで「これがいい!」と叫んだのがすべての始まりだった。
指差した先にいたのは、拳ほどの茶色い毛玉。リスだ。
店員の兄ちゃんがニコニコして言う。「手乗りになりますよ~。人懐っこくて可愛いですよ~」
……その笑顔が今でも許せない。
リスは確かに最初の数日は可愛かった。
回し車を全力で回しながら、時々こちらを見上げてくる。
「見てるか? 俺は頑張ってるぞ」みたいな顔で。
だけど一週間もすると、娘たちは飽きた。
餌やりは母親──つまり妻の仕事になり、掃除も妻。俺は遠巻きに眺めるだけ。
最初は「家族の癒し」だった小動物が、いつしか「家庭内の負担リスト」に転落していく。
それは銀行の貸出先みたいなものだ。最初は“成長産業”でも、すぐに“リスク要注意先”になる。
そしてある朝、妻が悲鳴を上げた。
「この子、息が荒いの!」
ケージの中を見ると、リスがまるでエンストを起こした車みたいに肩で息をしている。
体を丸め、目も半分閉じている。
呼吸のたびに小さな胸が上下し、音を立てていた。
キュ、キュ、と笛のような音。
娘たちは泣き出し、妻は俺を見る。
なぜ俺を見るんだ。
俺に医療資格はないし、動物保険の知識もない。融資ならできるが、蘇生は無理だ。
「どうしよう……宗方動物病院、行こうか」
妻がスマホで検索しながら言った。
その名前を聞いたとき、俺は妙な déjà vuを感じた。
数ヶ月前、支店の顧客リストに“宗方動物病院”の名があった。開業四十年、小規模。父親の代から続く個人経営。
たしか、融資の返済計画がやや遅れ気味で──
いや、いかん。仕事とプライベートを混ぜるな。
病院は街のはずれ、駅から少し離れた住宅街の中にあった。
雨上がりの午後、看板には古びた筆文字で「宗方動物病院 命と心をつなぐ場所」とある。
……標語が眩しい。俺の職場にも「地域と未来をつなぐ銀行」というスローガンが掲げてあるが、誰も未来を感じていない。
中に入ると、若い女性の獣医が出てきた。白衣の袖をまくり、髪を後ろでまとめている。
どこか、落ち着いていて、目が真っ直ぐだ。
「こんにちは。どうされました?」
「リスが……息が苦しそうで」
妻が抱えたケージを差し出す。
獣医は中をのぞき込み、眉を寄せた。
「……呼吸器の感染ですね。少し熱もあります」
「助かりますか」
気づけば俺が口を出していた。
彼女は一瞬こちらを見て、静かに頷いた。
「大丈夫。まだ若いし、頑張ってくれると思います」
診察のあいだ、待合室で俺はぼんやり壁のポスターを見ていた。
“ペットも家族です”
“心のケアも忘れずに”
“命は、支えあって生きている”
……この病院、経営大丈夫だろうか。掲示物の紙質がちょっと黄ばんでいる。
だが、なぜか温かい。
しばらくして、獣医が出てきた。
「点滴を打ちました。今日は入院させてください」
「お願いします」
妻が深く頭を下げる。
俺もつられて頭を下げた。
そのとき、彼女が少し笑って言った。
「この子、頑張り屋さんですね。目が“まだ走りたい”って言ってます」
走りたい、か。
銀行員の俺には、最近そんな目をした部下が一人もいない。
誰も彼も、疲れ切っている。
金利も低い、給与も低い、希望も低い。
まるで、酸素の薄い世界で回し車を回してるみたいだ。
「お父さん、帰ろ」
妻に声をかけられて、病院を出た。
車の中で、次女が後ろの席から訊いた。
「リス、死んじゃうの?」
「死なないよ」
とっさにそう言ったけど、自信はなかった。
最近、俺は“死なないよ”という言葉を、どこかで信じられなくなっている。
融資先の中小企業が倒れるたびに、誰かの小さな夢が終わるのを見てきた。
夢ってのは、たいてい、借金で支えられている。
命も、同じかもしれない。
家に帰ると、妻がため息をついた。
「この子たち、飽きるの早いわね。動物を飼うって大変なのに」
娘たちはテレビに夢中で、もうリスのことを話題にしない。
俺は、ビールの缶を開けた。
プシュッという音が、どこか呼吸器っぽく聞こえた。
「頑張り屋さん」──宗方先生の言葉が、耳の奥でリフレインしていた。
その夜、久しぶりに夢を見た。
リスが回し車を回している。
俺はスーツ姿のまま、その回し車を押している。
走っても走っても、車輪は止まらない。
息が切れて、しゃがみこんだとき、リスが振り向いて言った。
『お前も回ってるな』
──そこで目が覚めた。
枕元のスマホが震えていた。宗方動物病院からの着信だった。
電話の向こうで、宗方先生の声がした。
「……すみません、夜分に。今、ちょっと呼吸が不安定で」
その一言で、胸の奥がぎゅっとなった。
仕事柄、「不安定」という言葉には慣れている。経済も、住宅ローンも、為替もみんな不安定だ。
けれど、“命の不安定”は別次元だ。
「すぐ行きます」
妻は子どもを寝かしつけていて、俺ひとりで車に飛び乗った。
雨がぽつぽつ落ちている。
フロントガラスに滲む街灯が、まるで心電図みたいに揺れていた。
病院の待合室には誰もいなかった。
白い蛍光灯の下、宗方先生がケージの前にしゃがんでいた。
リスは丸まって、微かに息をしていた。
あの回し車は外され、毛布がかけられている。
「……かなり頑張ってるけど、苦しいと思います」
先生が静かに言う。
「ご家族、呼びますか?」
「いや……寝てるので。俺がいます」
先生は頷き、リスの頭をそっと撫でた。
その仕草が、妙に丁寧で──見ているだけで、胸が詰まった。
「この子ね、怖がりだけど強いですよ。ずっと『走らなきゃ、走らなきゃ』って思ってるみたい」
「……走らなきゃ?」
「ええ。私には、動物の“心の声”が少し聞こえるんです」
そう言って、先生は少し照れたように笑った。
たぶん普通なら、俺はその言葉を笑い飛ばしていたと思う。
けどその夜だけは、なぜか信じられた。
なぜなら、俺も同じように“息が苦しい”からだ。
先生は続けた。
「この子、こう言ってます。『回さなきゃ、止まったら終わる』って」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
思わず、笑ってしまった。
「……俺と同じだ」
「え?」
「いや、仕事が。止まったら死ぬみたいなもんで。走り続けて、いつの間にか何のために回してるのかわからなくなる」
先生は小さく頷いた。
「でも、リスって、本当は走るために回してるんじゃないんですよ」
「はい?」
「彼らにとって、回し車は“逃げるための場所”なんです。怖い時、どうしていいかわからない時に、走る。止まると、自分の心臓の音が聞こえちゃうから」
その説明を聞いて、息を飲んだ。
まるで、自分のことを言われているようだった。
営業数字、ローン残高、与信限度。
頭の中はいつも数字でいっぱいだ。
止まったら、何か大事な音が聞こえてしまう気がしていた。
──たとえば、自分が本当に疲れてる音とか。
「先生……」
言葉に詰まった俺を見て、宗方先生が微笑んだ。
「怖がりで、頑張り屋。あなたが飼い主だから、似ちゃったんですね」
そう言って、リスを包んでいる毛布をそっと直した。
その瞬間、ケージの中でリスがかすかに動いた。
『……ごめんな。もう、回せねぇや』
確かにそう聞こえた。
錯覚かもしれない。でも、たしかに“声”がした。
俺は、そっとケージの金網に指を当てた。
「無理すんな。もう休んでいい」
リスは、ほんの一瞬だけ目を開けて、息を吐いた。
そのまま、静かに眠るように動かなくなった。
先生が手を合わせた。
俺も、深く頭を下げた。
心のどこかで、“助かった”という感情と、“救われた”という感情が同時にあった。
おかしな話だ。動物が死んで、救われる人間がいるなんて。
帰り際、先生が小さな箱を差し出した。
「この子、頑張り屋さんの証拠を、少し持って帰ってください」
箱の中には、小さな毛束が入っていた。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
その帰り道、夜風がやけに澄んでいた。
翌日。
職場の朝礼で、支店長が高らかに叫んだ。
「下期の目標は一人あたり一千万アップ! 地域を支える気概を!」
その声が、頭の中で“回し車”の音に聞こえた。
みんなが頷く。誰も本心では賛同していない。
俺も、いつものように“はい”と答えた。
だけど、その瞬間、頭の中で小さなリスの声がした。
『止まってもいいんだぜ』
午後、得意先の町工場に融資の相談で行った。
社長は五十代、手が油まみれで、目が死んでいない人だ。
「最近どうです?」と聞くと、笑って言った。
「まあ、回し車だな」
思わず吹き出した。
「……俺もです」
「そうか、仲間だな」
ふたりで笑って、缶コーヒーを開けた。
プシッという音が、あの夜と同じ音に聞こえた。
会社に戻ると、後輩の吉田が机に突っ伏していた。
「係長、もうやってらんないっす」
「どうした」
「ノルマですよ。やってもやっても、“まだ足りない”って言われるんです」
俺はふと、宗方先生の言葉を思い出した。
“止まると、自分の心臓の音が聞こえちゃうから、走るんです”
だから、そっと言った。
「たまには止まってみろよ。いい音、聞こえるかもよ」
吉田はポカンとしていたけど、少し笑った。
一週間後の日曜。
裏庭の隅に、リスの小さな墓を作った。
娘たちは花を摘んできて、妻は木の枝で小さな十字を立てた。
芽衣が泣きながら言った。
「もう、回し車いらないね」
「そうだな」
俺はしゃがみこんで、土をかけた。
小さな穴だけど、何か大きなものを埋めた気がした。
その夜、妻が洗い物をしながらぽつりと言った。
「最近、あなた、少し優しくなった気がする」
「そうか?」
「うん。なんか、呼吸が柔らかくなった」
思わず笑った。
呼吸。リスの病気も呼吸だった。
あの小さな胸の上下を思い出す。
“息をする”って、簡単なことじゃない。
生きることと、ほとんど同じだ。
寝室に入って電気を消したとき、枕元で小さな音がした。
カラ、カラ……。
回し車の音だ。
もちろん、そんなものはもうない。
でも、確かに聞こえた。
『お前、もう走ってるか?』
『いや、今日はやめとく。風が気持ちいいからな』
そう答えたつもりだった。
数日後、俺は宗方動物病院に立ち寄った。
お礼を言いたかったのと、なんとなく気になったからだ。
先生はカルテを書いていた。
俺を見ると、軽く会釈した。
「調子はどうですか」
「ええ。ぼちぼち、回してます」
先生は笑った。
「ゆっくり回してくださいね」
診察台の端には、小さなカゴが置いてあった。
中には別のリスがいた。
「この子もですか?」
「ええ。近所の子どもが拾ってきたんです」
リスは、毛づくろいをしていた。
俺を見上げた気がした。
その瞳が、あの夜のリスと同じ色をしていた。
帰り際、先生が言った。
「銀行って、大変なお仕事ですよね」
「まぁ、いろいろ。命より数字が重いときもあります」
「でも、数字も命も、どっちも“息をしてる”と思いますよ」
「……え?」
「どちらも止めたら、消えちゃう。だから、動かすのは大事です。でも、動かす人の心が呼吸してなきゃ、どっちも苦しくなる」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は小さく頷いた。
「ありがとうございます。……先生、また借りに来てもいいですか?」
「借りに?」
「息、です」
先生は少し驚いて、それから笑った。
「利子は要りませんよ」
病院を出ると、風が吹いていた。
秋の空は高く、雲が回し車みたいにゆっくり動いていた。
胸の奥で、小さな声がした。
『おい、もうちょっと走れるだろ』
『うるさい、今日は定休日だ』
そう答えて、俺は笑った。
笑うと、なぜか深呼吸がしたくなった。
久しぶりに、ちゃんと息ができた気がした。
宗方動物病院の看板が、夕日に光っていた。
“命と心をつなぐ場所”──あの文字の意味を、ようやく少しだけわかった。
回し車は止まってもいい。
でも、呼吸は止めちゃいけない。
リスは、それを教えてくれたのだ。
家に帰ると、娘たちがリビングで笑っていた。
その笑い声を聞きながら、俺はポケットの中の小さな毛束をそっと握った。
柔らかい感触が、まだそこに息づいていた。
夜風が、少し冷たかった。
でも、悪くなかった。
──リスよ。ありがとう。
俺も、もう少しだけ、ちゃんと生きてみる。




