カルテ17、怒りん坊うさぎと消防隊員
まったく、やってられない。
おれは今、煙の中でクソみたいに咳き込みながら、ケージの中で足をドタバタさせてる。ドタバタしたところで、ドアも開かないし、煙はどんどん入ってくる。
──あー、これが人生の終わりってやつか。短かったな。オレ三歳。ウサギ年齢なら、まぁ中年。まだ毛並みも悪くないのに。
ドン、ドン、と何かが壊れる音がした。ガラスが割れる。ヒトの怒鳴り声。
煙のむこうに、真っ赤なヘルメットが見えた。でかい体。厚い手袋。で、でかい声。
「生きてるかー!?」
うるせぇよ。生きてるわ。咳しながら、精いっぱい足を伸ばしてケージの隙間から声にならない声を出した。
「ぴ、ぴぴっ」
それを聞いたのか、そいつはおれのケージをひっつかんで持ち上げた。ごんごん揺れて、中でおれはゴロゴロ転がった。
ちょっとは丁寧に持てや、このゴリラ。
外に出ると、世界はオレンジと黒でできてた。熱気でヒゲがチリチリする。
でも空気がうまい。おれはそのまま目を閉じた。気を失うっていうのは、案外気持ちいいもんだな。
次に目を開けたら、冷たい空気と、変な匂い。消毒液と汗と、鉄みたいな臭い。
目の前にそいつがいた。あのゴリラ。
いや、ヘルメットを脱いだら意外に若くて、目つきの悪い人間だった。
ほっぺに煤がついてて、髪が湿ってる。Tシャツの袖から覗く腕は、やっぱりゴリラ。
おれのケージを抱えて、何かに向かって怒ってた。
「ウサギは診られないって、どういうことだよ!? 生きてるんだぞ!」
病院の白衣のヒトが困った顔をしてた。「申し訳ありません、うちは犬猫専門で……」
なるほど。世の中、ウサギは二の次らしい。
まぁわかるけどな。犬猫は鳴く。ウサギは黙る。
おれだって、別に助けてくれなんて頼んじゃいねぇ。でも、煙の中で拾われた以上、こうして息してるわけで。
「勝手に寄り道は、さすがにまずいですよ。始末書だけじゃ済まないです」
男と同じような格好をした、やや小さめの男が何か文句を言っていた。
「……ちょっと待っててくれ」と言って、男はケージを抱えたまま外へ出た。
歩きながら、ケージの中を覗く。
「おまえ、よく頑張ったな」
低い声だった。
ああ、なんだよ。そんな声出されたら、文句言えなくなるじゃねぇか。
車の中はゴトゴト揺れる。
おれのケージは助手席にくくりつけられてる。
男は運転席で、ハンドルをがっしり握ってた。信号で止まるたびに、ちらっとおれを見る。
「怒ってんのか?」
そりゃ怒るだろ。急に煙の中から引きずり出されて、知らねぇところに運ばれて、しかも腹は減ってる。
「悪かったな。……でもな、置いとけなかったんだ」
そう言って、ため息をついた。
助手席の窓の外は、灰色の街。消防車のサイレンの余韻が遠くに消えてく。
おれはふんと鼻を鳴らした。怒ってる、というより、どうでもよくなってた。
燃えた家。いなくなった飼い主。
たぶん、もう帰る場所はない。
どれくらい走っただろう。
気づくと、車はちょっと寂れた通りに入ってた。古い家屋と、新しい病院が並んでる。
「……ここなら」
男が呟いた。ブレーキを踏む。
玄関の看板には「宗方動物病院」と書いてあった。
入口には若い女がいて、スリッパのまま飛び出してきた。髪を後ろでまとめて、白衣の裾がひらっと揺れる。
「宮内さん!? どうしたんですか、そのケージ!」
「火事現場で保護した。診てもらえないか?」
「ウサギ……? あ、うちなら大丈夫です!」
──宮内、っていうのがこのゴリラの名前か。
おれは診察台に乗せられ、目と口とお尻を順番にチェックされた。
その女(あとで宗方ってわかった)は、柔らかい手つきで、おれの毛を撫でた。
「火の粉で少し焦げてるけど、やけどは浅い。呼吸も安定してます」
「助かる……」
宮内は肩の力を抜いて、どっと座り込んだ。
「本当は動物を持ち帰るなんて規定違反なんだけどな」
「じゃあ、今日は私が預かります。飼い主さんは?」
宮内は答えなかった。
宗方もそれ以上聞かなかった。
そのかわり、そっとケージのドアを開けた。
「もう大丈夫だよ、モカ」
モカ? 誰それ──って、おれか?
勝手に名前つけんなよ。……でも、まぁ悪くねぇ響きだ。
夜になって、病院の灯りが落ちた。
おれはケージの中で耳をぴくぴくさせながら、隣の部屋の物音を聞いてた。
宮内の声がした。
「……あいつ、元気そうだったな」
宗方の声が続く。「ええ。でも、あの子、あなたの顔を見たとき……ちょっと嬉しそうでしたよ」
嬉しそう、だって?
冗談じゃねぇ。おれは怒ってた。
でも──少しだけ、胸のあたりがあったかくなったのも、否定できなかった。
その夜、おれは夢を見た。
焦げた家のにおいの向こうに、あの太い腕と、あの声があった。
「よく頑張ったな」
まったく、寝つけねぇ夜だ。
朝が来た。
おれはまだ生きてた。
ふわふわのタオルの上、腹はぬくぬく、鼻先にはチモシーと水。
……悪くない。いや、ちょっと良すぎる。
こんなに快適だと、また怒るタイミングを見失う。
宗方って人間は、朝っぱらからやたら優しかった。
「おはよう、モカ」って笑って、おれの耳の向きを整えたりする。
そんなもん整えてどうすんだ。耳なんて風で動くもんだ。
だけど、その声がやけに穏やかで、うっかり『おはよう』って返しかけた。ウサギ語でな。ぴぴっ。
あの宮内って男は、あれから顔を出してない。
宗方の話では、「なんか、いろいろあるみたいよ」とかなんとか。
まぁ、どうでもいい。別に会いたくねぇし。……いや、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけなら。
昼すぎ、病院に小学生くらいのガキが来た。
犬を抱えて泣きそうな顔してる。
宗方が「大丈夫、大丈夫」って声をかける。
診察台の下から覗いてたおれには、犬のかすかな息と、ガキの涙のにおいが混ざって届いた。
なんだか胸がざわざわした。
火事のときのことを思い出したのかもしれねぇ。
あのとき、おれの飼い主のババァ──いや、おばあちゃん──は、煙の中でおれを呼んでた。
「ミミ! ミミ!」
声はしてたのに、足が動かなかった。
ドアの向こうで倒れた音がして、それきりだった。
だから、おれは怒ってる。
自分に。
動けなかった足に。
助けられなかったおばあちゃんに。
全部、腹の底でぐるぐる混ざって、トゲみたいになってる。
そうだ。おれは怒りん坊ウサギなんだ。
夕方になって、病院が静かになったころ、ドアが開いた。
足音でわかった。
宮内だった。
「……よぉ、元気か」
ケージの前にしゃがみこんで、帽子をとった。
顔は相変わらず煤けたみたいに黒くて、でも少し疲れた笑い方をしてた。
「宗方先生に聞いた。だいぶ落ち着いたってな」
おれは鼻を鳴らした。ぴっ。
「怒ってる?」
当たり前だろ。勝手に連れ出して、勝手に放っといて。
でも、なぜかケージ越しに見たその目が、妙に静かで、
「……ありがとう」って言いたくなった。
言えねぇけどな。ウサギだし。
宮内はポケットから何かを出した。
焦げた金属の輪。
「おまえの家の……ケージの鍵だ。火事のあと、玄関のそばで見つけた。」
手のひらの上でそれがカチャカチャ鳴る。
あの音で思い出した。
おばあちゃんが、いつも夜になると「おやすみ、ミミ」って鍵をかける音。
それを聞くと安心して眠れた。
胸が、どくん、と痛くなった。
怒りのかわりに、涙が出そうになった。……ウサギも泣くんだぜ。
その夜、宮内は病院の裏のベンチで煙草をふかしてた。
宗方がコーヒーを持って出てきた。
「吸いすぎですよ」
「わかってるよ。……でもな、現場の匂いが抜けねぇんだ」
「命の匂い、ですか?」
宮内は黙って煙を吐いた。
「火の中で助けられなかった人がいた。どうしても、そっちの顔ばかり浮かぶ」
宗方は首を横に振った。
「でも、あなたはこの子を助けた。小さな命を救ったら、それはもう立派な仕事です」
窓の中から、その会話をおれは聞いてた。
胸の中で何かがほどけていく感じがした。
ああ、そうか。
あの人間も、誰かを助けられなくて怒ってたんだな。
おれと同じ、怒りん坊だ。
次の日の朝。
宗方がいつものように言った。「おはよう、モカ」
おれはぴっ、と返事した。
すると、待合室のドアが開いた。
宮内が立ってた。
「……迎えに来た」
宗方が笑って、「よかったですね」と言った。
宮内はおれのケージを持ち上げ、そっと言った。
「今度はちゃんと、連れて帰る」
その声が妙に照れくさくて、おれは思わず足をバタつかせた。
怒ってるんじゃない。ただ、照れてるだけだ。
車の中。
助手席にはまた、おれのケージ。
でも前みたいに揺れなかった。
窓の外には秋の山。ススキが揺れてる。
「なぁ、モカ。おれんち、ウサギ飼うの初めてなんだ」
知るかよ。
「でもさ、いいよな。……怒ってる顔、ちょっと俺に似てるし」
なんだそれ。失礼な。
けど、悪くない気がした。
おれは、ぴっ、と短く鳴いて、丸くなった。
宮内の家は、木造の小さい平屋だった。
部屋の隅に新しいケージ。
チモシーと水と、あと皿にリンゴのかけら。
「ほら、食えよ」
おれは皿に近づいて、リンゴをかじった。甘い。
宮内が少し笑った。
「怒りん坊も、やっと機嫌直ったか」
おれはそっぽを向いた。
でも、耳の先っぽが少し揺れた。
あれは風のせいじゃない。たぶん、ちょっとだけ嬉しかったんだ。
夜になって、外で虫が鳴いてる。
宮内はテレビを見ながらうたた寝してた。
その横で、おれは毛をなめて、丸くなった。
火のにおいはもうしない。
かわりに、コーヒーと煙草と、なんか懐かしい匂い。
「……おやすみ、モカ」
誰かがそう言った気がした。
今度は、鍵の音じゃなくて、心の中で“カチャ”っと鳴った。
おれはそのまま、目を閉じた。
怒りん坊ウサギ、ちょっとだけ、幸せになった。
明日もたぶん、怒るけどな。




