カルテ16、気遣うペンギンと転校生
私は、カルテ整理の手を止めて、手伝いに来てもらっている獣医学生の姪に声をかけた。
「奈緒ちゃん。コーヒー飲む?」
「頂きます。あ、私が淹れますね」
「ありがとう。催促したみたいで悪いわね」
夕暮れの宗方動物病院はゆったりとした時間が流れていた。
保護猫のチャトラもケージの中で惰眠を貪っている。
奈緒ちゃんの淹れるコーヒーの香りが漂う。私は、コーヒーメーカーの上に飾られたペンギンの絵を見た。
少し、羽が乱れたように見えるこの絵は、昔の記憶を呼び覚ます。そして、その時聞いた、かすかな「声」も。
***
地方都市の水族館というのは、だいたいどこも似たような匂いがする。
魚と海水と消毒液の混ざった、ちょっと生臭い空気。嫌いじゃない。むしろこの匂いを嗅ぐと「ああ、また実習が始まるな」とスイッチが入る。
今回の実習先は、海のない県の端っこにある「せせらぎ水族館」。
名前は涼しげだけど、真冬の今は風が痛いほど冷たい。最寄り駅から歩いて二十分。吐く息が白く、途中の川は半分凍っていた。
自動ドアが開いた瞬間、むわっとした暖かい空気と魚の匂いが顔にぶつかる。
受付で学生証を見せると、女性職員が言った。
「宗方さんね。ペンギン舎の担当です。飼育員の大原が案内しますから」
カウンターの奥から「おーい」と声がして、ずんぐりした体の男性が現れた。
腰に魚の入ったバケツを提げ、毛糸の帽子に分厚い手袋。まるで“北の漁師 in 海なし県”だ。
「獣医学生さん? 助かるよ、ムトの調子が悪くてね」
ムト? 魚の名前かと思ったらペンギンらしい。
「食欲が落ちて、昨日から何も食べない」とのこと。
「この子、もともと気が強いのにさ。岩の上から動かなくなっちゃって」
私はペンを取り出してメモをとりながら頷いた。
実習初日からペンギンの体調不良。いや、ある意味“獣医冥利”ではある。
ペンギン舎は外から見ると、ただのプールだった。
水面には氷が薄く張っていて、フンボルトペンギンたちが短い足でぴょこぴょこ歩いている。
思っていたより小さい。そして、思っていたより目が鋭い。
その群れの中で、一羽だけ隅にうずくまっているのがムトだった。
羽が少し乱れ、胸のあたりに黒い汚れ。目を閉じたまま、風に耐えるようにじっとしている。
「この子がムト。三歳、メス」
大原さんが言う。
「性格はツンデレでね。好きな人にはべったりだけど、気に入らないとクチバシ飛んでくる」
私はしゃがみこんでムトを見た。
その瞬間、胸の奥で何かがかすかに響いた。
──『あの子、来ないの?』
え? と思う間もなく、もう一度。
──『今日も来ないの?』
……やれやれ、まただ。
たまに聞こえる、動物の“声”。理屈じゃ説明できないけど、小さいころから時々ある。
便利かと言われれば、そんなこともない。むしろ面倒なことの方が多い。
私は大原さんに訊いた。
「この子、誰かによく懐いてるとかあります?」
「んー、ボランティアで来てた中学生の子がね。転校してきたばかりの女の子。ひなたちゃんって言ったかな。ムトと仲良くてね、よく話しかけてた」
「今は来てないんですか?」
「最近はぱったり。学校で何かあったみたいよ」
私はムトを見つめた。
目を閉じたまま、風に吹かれている。
これは単なる体調不良じゃないな。
心のどこかが、空っぽになっている感じ。
昼休み、館内のカフェで紙コップのスープをすすっていたときだった。
窓の外を、小柄な女の子が歩いていくのが見えた。
赤いマフラーに黒いセーター。猫背気味で、靴のつま先ばかり見て歩いている。
たぶん、あの子だ。
私はスープを一気に飲み干して外へ出た。
「朝倉ひなたちゃん?」
女の子はびくっとして振り向いた。
「……はい。どなたですか」
「宗方紬。実習で来てる獣医学生。ムトの具合を見ててね、ちょっと気になって」
「ムトが……どうかしたんですか?」
心配そうな声。
私は少しだけ迷ってから言った。
「ムトがね、君を探してた」
口にしてから、しまったと思った。変な人みたいじゃないか。
けれどひなたは驚きもせず、むしろホッとしたように微笑んだ。
「やっぱり。最近、あの子元気ないって聞いて……」
その声のかすれ方で、彼女がどれだけ気にしていたか分かった。
ペンギン舎に着くと、ムトがぴくりと首を上げた。
ガラス越しにひなたの姿を見つけると、立ち上がり、くちばしを近づけた。
ひなたも両手をガラスにあてる。
ガラス越しのムトの目が、ひなたの瞳の奥を覗き込んでいるようだった
「ねえ、宗方さん」
ひなたがぽつりと聞いた。
「動物って、人の気持ちが分かるんですか?」
私は息を白くしながら空を見上げた。
曇った冬空。遠くでカラスが鳴いている。
「うん。分かるよ。人が思ってるより、ずっと」
私は少し笑って言った。
「少なくともムトは、君が笑わないと元気出ないみたい」
ひなたはきょとんとして、次に少しだけ笑った。
その瞬間、ムトが短く鳴いた。
風の中に、小さく音が溶けた。
次の日も、私はペンギン舎にいた。
氷の張ったプールを見つめながら、ムトの様子を観察する。
昨日よりは少しだけ動きがある。岩の上で羽づくろいをしている。
でもまだ、餌を食べようとしない。
そのとき、背後で小さな声がした。
「おはようございます」
振り返ると、ひなたが立っていた。
昨日よりも少し明るい顔をしている。
ポケットから手を出し、私に小さく頭を下げた。
「昨日の……ありがとうございます。あのあと、ちゃんとムトの夢を見たんです」
「夢?」
「はい。ムトが波に浮かんでて、『魚なんかいらない』って言う夢」
午前中の給餌のことを思い出して、私は吹き出しそうになった。
「それは心配だね。仕事減っちゃう」
ひなたは笑いながら肩をすくめた。
「でも、夢の中で私が笑ったら、ムトが急に泳ぎ出して。なんか、“やっと見つけた”って顔してたんです」
あの子の言葉は、どこか夢と現実の境い目に立っているような響きがある。
私はその年齢特有の“世界との距離感”を懐かしく思った。
「ねえ、宗方さんって、どうして獣医になりたいんですか?」
ひなたが唐突に聞いてきた。
この質問は、獣医学部あるあるの筆頭だ。
答え慣れてはいるけれど、毎回ちょっとだけ胸がチクッとする。
「うーん、気づいたらこうなってた感じかな。動物が好きっていうより、“生き物の言葉”を聞くのが好きなんだと思う」
「言葉?」
「うん。たとえばね――」
私はペンギン舎を指さした。
「今のムトは、“気を使ってる顔”してる」
「気を……使ってる?」
「そう。仲良しの君が元気ないから、自分も食べる気しない、みたいな」
ひなたはびっくりした顔をして、次にうつむいた。
「……そんなの、困ります」
「だよね。でもムトは、優しいから」
そのあと、二人でしばらく黙ってペンギンたちを見ていた。
風の音と、遠くの子どもたちの笑い声。
ムトはゆっくり水に入り、氷の下をくぐって反対側へ顔を出した。
昼の休憩室で大原さんがコーヒーを淹れてくれた。
「ムト、今日はちょっと泳いだな。あの子のおかげかもな」
「ひなたちゃん、ずっと来てなかったんですよね」
「ああ。前は毎日来てた。絵が上手でさ、ムトのスケッチいっぱい描いてくれたよ」
「どうして来なくなったんです?」
大原さんは少し言いにくそうに頭を掻いた。
「転校先で、クラスに馴染めなくて。なんか“ペンギンの女”って言われたとか」
「……ペンギンの女?」
「ほら、動物の話ばっかするからさ。ムトのこと話すたびに、“ペンギンに恋してる”とか、“気持ち悪い”とか言われてね」
コーヒーの湯気が、少し苦く鼻を刺した。
私は思わずカップを両手で包んだ。
「そういうの、ほんとしょうもないよね」
「まあ、子どもだからなあ」
子ども、という言葉の響きがやけに遠く感じた。
私も昔、同じように言われたことがある。
“変わってる”“動物と話してる変な子”。
それでも父は笑って、「いいじゃないか。命の通訳になれる」って言ってくれたっけ。
午後、ペンギン舎に戻ると、ひなたがガラスに絵を描いていた。
白いペンでムトの輪郭をなぞっている。
「すごいね。ちゃんと特徴つかんでる」
「美術部だったんです。でも今の学校には、ないんです」
ひなたの声が、少しだけ曇った。
「もうすぐまた引っ越すんです。お父さんの仕事で」
「え、そうなの?」
「はい。今度は、海の近く。だから……ムトとは、もう会えないかも」
私は何も言えなくなった。
ガラスの向こうでムトが首をかしげる。
彼女の言葉を、ちゃんと聞いているみたいに。
「ねえ、宗方さん」
ひなたが小さく言った。
「ムト、私がいなくなっても、大丈夫かな」
私は静かに息を吸い込んで答えた。
「大丈夫。でも……“大丈夫にしてあげる”のは君だよ」
ひなたは何かを飲み込むように頷いた。
その目が少し赤いのは、風のせいかもしれない。
その夜。
宿舎に戻ってノートに日誌を書きながら、私はずっとムトのことを考えていた。
食欲不振の原因は、単なるストレス?
それとも、もっと深い“喪失”かもしれない。
ペンギンも人も、群れで生きる。
仲間がいないと、体温が下がってしまうのだ。
窓の外は雪。
街灯に照らされた白い粒が、ゆっくりと舞っている。
私はペンを置き、呟いた。
「ムト……明日は、ちゃんと食べようね」
その瞬間、耳の奥でかすかに響いた。
──『うん。でも、あの子が笑ったらね』
私は小さく笑って、毛布に潜り込んだ。
そうだよね。
ムトだって、きっとそう言うと思った。
翌朝。
ペンギン舎に入った瞬間、空気が違うのがわかった。
水の音が妙に静かで、他の個体たちが落ち着かない。
ムトの姿が見当たらなかった。
「ムト?」
探すと、岩陰でうずくまっていた。
羽が濡れ、目が半分しか開いていない。
胸に手を当てると、呼吸が浅い。
私はすぐに獣医スタッフを呼び、簡易検査を始めた。
体温低下、脱水、採血では軽い炎症反応。
ストレス性の胃炎──そう診断するには、あまりにも心拍が弱い。
「輸液始めます」
私はマスク越しに言った。
ペンギン用の翼脈に針を入れる。
冷たい体温が伝わってきて、背筋がぞくりとした。
ムトの目が、かすかに開く。
その黒目が、まっすぐ私を見ていた。
──『ひなた』
声が、頭の奥で確かに響いた。
「ひなたを……呼んで」
私は振り返り、大原さんに頼んだ。
「朝倉ひなたちゃんに連絡を。至急」
昼過ぎ、ひなたが息を切らして駆け込んできた。
制服のまま、髪には雪が張りついている。
「ムト!」
彼女が叫んだ瞬間、ムトの瞼が微かに動いた。
その小さな反応が、命綱みたいに見えた。
「ひなた、声をかけてあげて」
私が言うと、彼女は震える手でガラス越しに触れた。
「ムト、ごめん。もうすぐ引っ越しちゃうけど、ちゃんと笑ってバイバイするから。だから……元気出して」
ムトのくちばしが、かすかに開いた。
ほんの少しの空気の震え。
──『ありがとう』
その瞬間、私は命を確信した。
モニターの数値がゆっくりと安定し始めた。
体温も上がっていく。
ひなたの涙がガラスを伝って落ちた。
三日後。
ムトは驚くほど早く回復した。
群れの中を泳ぎ、餌の魚を勢いよく飲み込む。
「ほら、やっぱり食べる気出たじゃん」
私が笑うと、ひなたも笑った。
その顔は、昨日までの曇りが嘘みたいに晴れていた。
「宗方さん、ありがとうございました」
「礼なんていらないよ。ムトががんばっただけ」
「でも、宗方さんがいなかったら──」
「ううん、違う。私もムトも、きっと君に助けられた」
ひなたは小さく首を傾げたが、何も言わなかった。
ただ、ムトが泳ぐのをずっと見ていた。
出発の日。
ひなたは水族館に最後の挨拶に来た。
スケッチブックを胸に抱えて、少し背伸びして立っている。
「これ、ムトの絵です。宗方さんに」
開くと、ムトが水中で翼を広げていた。
その上に、鉛筆で書かれた小さな文字。
“笑って見送ること。”
「きっと、また来ます。海のそばに引っ越すから」
「うん。そのときは、ムトの仲間にも会えるね」
「宗方さんも、ムトのこと、ちゃんと忘れないでくださいね」
私は笑った。
「大丈夫。あの子は、忘れようにも忘れさせてくれないよ」
ひなたは頷いて、少し泣き笑いの顔をした。
雪の降りしきる中を、彼女はゆっくり歩いていった。
夜。
水族館が静まり返ったころ、私はもう一度ペンギン舎に寄った。
ムトは群れの中で、一番先頭を泳いでいた。
照明が水に揺れて、銀の光がゆらめく。
「ムト、よかったね」
私が呟くと、またあの声がした。
──『あの子、ちゃんと笑ってたよ』
私は思わず目を閉じた。
胸の奥が温かくなって、涙が出そうになる。
「うん。笑ってたね」
──『じゃあ、今度は君の番』
「え?」
でももう声はしなかった。
代わりに、ムトが水面から顔を出して、私の方を見た。
その黒い瞳に、雪明かりが映っていた。
宿舎に戻ってノートを開く。
“ペンギンの食欲不振、回復。”
その下に、私は小さく書き添えた。
“命の通訳とは、たぶん、笑いの翻訳者のことだ。生き物の悲しみを、誰かの笑顔に変えていく、その橋渡しになることだ。”
ペンを置いて、私はゆっくり息を吐いた。
外では雪がまだ降っている。
きっと、ひなたの街にも同じ雪が降っているだろう。
──『またね、宗方さん。立派な獣医さんにね』
耳の奥で、かすかな声がした。
私は思わず笑って、窓の外を見た。
白い世界の向こうで、ペンギンが翼を広げた気がした。
***
コーヒーカップを置いてクッキーをつまむ。
「奈緒ちゃん。がんばりなさいね」
「いきなりなんなんですか?」
きょとん顔を向けた奈緒ちゃんに、私は、微笑みだけをかえした。




