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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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20/35

(休診日)宗方紬、お見合いをする。



 犬の手入れ用バリカンが唸りを上げていた。

 毛の匂いとシャンプーの香りが入り混じった待合室で、私は汗を拭う。


 日曜の午前。診察もひと段落して、カルテの整理をしていると、電話が鳴った。

 発信者名は「母」。嫌な予感しかしない。


「もしもし」


『紬? 今週の日曜、空いてる?』


「……仕事、かな」


『ダメダメ、たまには休みなさい。ちょうどね、うちの町内の“すっごくいい人”が──』


 はい出た。

 母の“すっごくいい人”は、だいたい“すっごく地味か、すっごく濃い”。


『三十すぎたら早いよ、紬。あんた動物のことばっかりで、人間の方が絶滅危惧種になっちゃうよ』


「いや、別に人間を保護するつもりはないけど」


『とにかく、お見合い! 日曜! ホテル雅苑のラウンジね!』


 言うだけ言って、電話は切れた。

 母の決定は、いつだって“通知”であって“相談”ではない。



 お見合い当日。

 私は白衣を脱ぎ捨てて、久々に“女装”した。

 とはいえ、髪をまとめただけで化粧は控えめ、スーツはグレー。

 “真面目な保険外交員”にしか見えない。


 鏡の中でため息をつくと、背後のケージから声がした。


『毛づくろいしてるが、出かけるのか? デート?』


 ケージの中から猫のチャトラがシッポをゆっくり振りながらこちらを見ていた。


「うるさいな、ちょっとした用事」


『にしては、今日は香水つけたね。おいらの鼻が曲がる』


「動物病院のニオイ取らなきゃ失礼でしょ」


『ふうん、“失礼”なんて言葉、先生の口から聞くとはね』


「それほど長くは掛からないから、ケージの中でおとなしく留守番よろしく」


『約束する。……信じるかどうかは別だけど』



 ホテルのラウンジには、母と仲人さん、そして“お相手”がすでに座っていた。


 お相手――斎藤修一、三十五歳、銀行勤務。

 スーツはきっちり、靴はピカピカ、声は少し高め。

 優等生そのものだ。


「初めまして、宗方紬と申します」


「こちらこそ。動物のお医者さんなんですよね?」


「はい、町の小さな動物病院で」


「へぇ、すごいですねぇ。僕、犬とか猫とか苦手で」


 あ。


 出会い頭に地雷。


「苦手って、アレルギーとかですか?」


「いや、あの……昔、犬に追いかけられたことがあって。それ以来、ちょっと怖くて」


 彼の笑顔はぎこちない。

 その瞬間、背後の植え込みの影から“声”がした。


『犬はバカだからな。走るものはなんでも追いかける』


 おそらく退屈してる野良猫だろう。

出かける私を見つけて着いてきたのかもしれない。


 動物の“心の声”が、こんなときにも聞こえてしまう。

 便利なようで、困りものだ。



 お見合いの話は、穏やかに進んだ。

 彼は誠実で、気遣いもできて、真面目そのもの。

 ──なのに、会話が乾いていた。


「休日はどう過ごされてるんですか?」


「病院の掃除をして、診療予約を整理して、あと、動物の散歩とか」


「へぇ……動物って、何匹くらい?」


「居候が三匹。猫とシマヘビとミニブタ」


「ブタ……ですか」


 彼の顔が微妙に引きつった。


「ブタって、意外と綺麗なんですよ。お風呂も好きだし」


「そうですか……」


 彼の頭の中で、なにかが遠ざかる音がした。

 おそらく、“結婚”という二文字。



 デザートが運ばれてきたころ、彼が少し真剣な顔になった。

フォークを持つ手が、わずかに震えている。


「あの……ひとつ、宗方先生に聞きたいことがあるんです」

「はい、どうぞ」


「さっき、犬が苦手だって話をしましたよね。あれ、子供のころの出来事なんです。追いかけられて転んで……それ以来、ずっと怖くて」

 彼はうつむいて、少し苦笑した。


「いい大人になっても、犬を見ると体が固まってしまう。そのたびに、自分が欠けてるんじゃないかって思ってしまうんです。──“男なのに情けないな”って」


 その言葉に、私は少し胸が痛んだ。

 彼の笑顔の裏に、こんな小さな傷が隠れていたとは思わなかった。


「……斎藤さん、それは“欠けてる”んじゃありませんよ」

 私はフォークを皿に置き、言葉を選んだ。


「それは“体が覚えた信号”です。怖かった記憶を、守るように刻んだだけ。壊れてるんじゃなくて、ちゃんと“生きてる証拠”です」


「信号……?」


「ええ。犬が吠えるのも、恐怖や不安を伝える信号。あなたが避けるのも同じ。体が、自分を守ろうとしてるだけです」


 彼は小さく息を飲み、しばらく私を見つめた。

 ホテルの喧騒の中で、二人だけが時間から外れたように静まり返る。


「でも……それでも、克服したほうがいいのかな」


「克服って、“誰のために”ですか?」

 思わず、声が柔らかくなる。


「無理に好きになる必要はないと思います。苦手なものがあるって、それだけで人間らしいことですよ」


 私は、背後の植え込みの陰に動いた気配を感じた。

 コムギだ。じっとこちらを見ている。


「ただね、斎藤さん。──好きにならなくてもいい。でも、“生き物として認めてあげる”それだけで、十分です」


 沈黙。

 彼はふっと口元を緩めた。


「……不思議な人ですね、宗方さん」


「よく言われます」




 お見合いの帰り道。

 ホテルを出て、湿った風の中を歩きながら、胸の奥がざわざわした。


 確かに彼はいい人だ。

 誠実で、優しくて、きっと家庭を大事にする。

 でも──たぶん、私は“家庭”を作るより“居場所”を守る方が性に合ってる。


 足元の植え込みで、カサッと音がした。

 茶色い影がぴょんと飛び出す。


『お、帰り? スカした服やん』


「コムギ……」


 裏の神社に住みついている野良猫だ。

 やはり私を追ってきていたらしい。


『あんた、今日はにおいが違う。なんか、“人間の匂い”してる』


「お見合いだったの」


『オミアイ? オヤツの名前?』


「違う」


『ふ、知ってるさ。で、どうだった? 気に入った?』


 私は首を振った。


「悪い人じゃないけど、ちょっと違った」


『そりゃそうだ。あんたに似合うのは、同じ泥んこの匂いするやつだよ』


「泥んこねぇ……」


『オレとかさ』


「いや、猫とは結婚しない」


『冗談だよ。でもさ、“人間”よりオレらの言葉がわかるあんたに、人間の伴侶はムリだと思うよ』


 図星だった。

 笑うしかない。



 病院に戻ると、ケージの中からチャトラのあくび混じりの声が聞こえた。


『おかえり。で、どんなオスだった?』


「銀行員。犬と猫が苦手」


『アウト。ろくなもんじゃない』


『ねー、ブタは?』

 ミニブタのトン子が加わった。


「んー多分、動物全般苦手っぽい感じね」


『先生ってば、人間の中で生きるの、下手くそよね』

『だな』


「うん。でも、動物たちとは上手くやれてる」


『それでいいじゃん。オスなんて腐るほどいるけど、話の通じる獣医は滅多にいないからな』

 チャトラがあくびをした。

 私は笑って、診察台の上のカルテをめくった。



 夜。

 雨が降り出した。


 窓の外で、カラスの声が遠く響く。

 チャトラが丸くなって眠り、ミニブタが毛布の中でくすくす動いた。


 私はコーヒーを啜りながら、母にメールを送った。


《お見合い、ありがとう。いい人だったけど、たぶん合わない》


 送信ボタンを押して、電気を消す。


 静かな部屋に、猫の寝息と雨音だけが残った。


 “ああ、これでいい”と思った。


 結婚も、家庭も、たぶん悪くない。

 でも、私にはこの匂い、この静けさ、この命の鼓動が、何よりも必要なんだ。


 外でカラスが鳴いた。


『おーい、またフラれたのか?』


「うるさい」


『ま、いいじゃん。オレらがいる』


 その声に苦笑して、私は照明を落とした。

 チャトラ寝返りを打ち、毛布の中でため息をついた。


『いいオスがいたら、紹介してやるよ』


「期待しないで待ってる」


 そう言って、私は診察台に突っ伏した。

 雨の音が、やさしく世界を包んでいた。




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