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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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カルテ2、迷子犬と老婆




 犬というのは、不思議な生き物だ。


 たとえば猫なら、ちょっと距離を置いて人を観察してから、「まあ、悪くはないな」みたいな顔で寄ってくる。

 でも犬は違う。初対面でも、目が合った瞬間に「君こそ、私が探していた人だ!」って顔をする。

 あれはあれで、ずるい。


 そんな犬が、ある朝、うちの病院の前で震えていた。


 雨上がりのアスファルト。

 犬は白い毛に泥をつけ、首輪もなく、耳を垂らしていた。

 小型の雑種。歳は七つか八つくらいだろう。

 見た瞬間、わたしは思った。――この子、帰り道を失くしてる。


 しゃがんで声をかける。


「おいで。怖くないよ」


 犬は一瞬だけためらって、それから、わたしの白衣の裾に鼻を押しつけてきた。

 その途端、声が聞こえた。


『……ごめんなさい。おばあちゃん、怒ってるかな』


 おばあちゃん?


 わたしはそっと犬を抱き上げた。ずしりとした重みと一緒に、その子の不安が伝わってくる。

 病院の扉を開けると、いつもの診察室がほんの少し広く見えた。



 診察の結果、どこも悪くなかった。

 ただ、足に小さな擦り傷があって、少し疲れてるだけ。

 洗って、包帯を巻いて、温かいタオルで体を拭く。


「ねぇ、君の名前、なんて言うの?」


『ポチ。ほんとは“ハナ”って呼ばれてたけど、散歩のときは“ポチ”って呼ばれるから、どっちでもいいの』


「いいのかい。大人だねぇ」


『おばあちゃん、日によって呼び方が変わるんだ。忘れっぽいけど、優しい人だよ』


 そう言う声が、少し寂しそうだった。

 なるほど、認知症の進んだお年寄りの家で飼われてたのかもしれない。



 午後になると、病院の電話が鳴った。

 市役所の迷子動物センターだった。

「白い雑種犬を探してるおばあさんがいます」とのこと。


 ――やっぱり。


 住所を聞いてみると、病院から徒歩十五分。

 そのおばあさん、ひとり暮らしで、名前は「宮内スエ」さん。

 電話の向こうの担当者が、ちょっと困ったように言う。

 「おばあさん、昨日から『ポチが帰ってこない』って泣いてまして……でも、近所の人は“ハナ”って言ってるらしいんですよ」


 わたしは笑ってしまった。

「たぶん、どっちも正解です」



 夕方、ポチ(あるいはハナ)をキャリーに入れて、宮内さんの家へ向かった。

 古い平屋の前庭には、洗濯物が風に揺れている。

 チャイムを押すと、しわだらけの手がカーテンを少し開けた。


「……はい?」


 小柄で、背の丸い老婆だった。

 目が澄んでいて、どこか子どもみたいな表情をしている。


「宗方動物病院の者です。ポチちゃんを、お預かりしてまして」


 その瞬間、彼女の目が見開かれた。


「……ポチ? ポチなの?」


 キャリーの中の犬が、尻尾をちぎれそうに振った。

 おばあさんの手が震えて、扉を開け放つ。

 犬は一目散に飛び出して、彼女の膝に顔をうずめた。


『おばあちゃん! ごめんね! もうどこにも行かない!』


「ポチ……! あぁ、ポチ……」


 おばあさんの声は、泣き笑いみたいに震えていた。

 その様子を見ながら、わたしは思った。

 ――帰る場所ってのは、人にも犬にも必要なんだな。



 居間に通されて、麦茶を出された。

 壁には古い家族写真。

 若い夫婦と小さな子ども、それに犬が写っている。


 その犬は、今のポチにそっくりだった。


「この子はね、昔飼ってた“ハナ”って犬に、そっくりなのよ」

 おばあさんは写真を撫でながら言った。

「ハナはね、十年前に死んじゃってね……そのあと、道端で拾ったこの子に“ポチ”って名前つけたの。でも、時々“ハナ”って呼んじゃうの。まぎらわしいねぇ」


 ポチはおばあさんの足元に顔をうずめ、満足そうに息をついた。

『おばあちゃん、わたしはハナでもポチでもいいよ』


 わたしはその言葉を聞きながら、胸が少し熱くなった。



 帰り際、おばあさんがわたしに言った。

「先生、あの子……時々、誰もいない方を見て尻尾を振るの。まるで、ハナがそこにいるみたいでね」

「そうですか」


「もしかして、本当に見えてるのかしら」

「ええ、たぶん見えてると思いますよ」


 そう答えると、おばあさんは安心したように笑った。

 玄関の外、夕暮れの風がカーテンを揺らした。

 ポチがふとこちらを見て、目で何かを言っている。


『……先生、ありがとう。わたし、ちゃんと帰れたよ』


「うん。よかったね、ポチ」


 彼女はしっぽを一度振って、それからおばあさんの足元にぴたりと寄り添った。

 まるで「もう離れない」と言っているように。



 病院へ戻る途中、空に一番星が出ていた。

 道路の向こうから、父の声が聞こえた気がした。


つむぎ、よくやったな。動物は、“帰る”ために生きてるんだ』


「……わかってる。わたしも、帰ってきたんだよ。父さんの病院に」


 わたしはそうつぶやいて、ポケットの中のカルテ用ペンを握った。

 家に戻ったら、カルテの片隅に書こう。


 ――「ポチ(ハナ)・宮内スエ宅に無事帰還。傷も心も、完治。」



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