カルテ15、ハリネズミといじめられっ子
朝から妙な匂いがした。
病院の裏手の植え込みのほうから、焦げたような、乾いた土と鉄の匂い。
猫でもまた誰かが置いていったかと思ったら、違った。
丸まった毛玉みたいな小さな塊──いや、毛玉じゃない。針のかたまり。
ハリネズミだった。
「おや、珍しいのが来たね」
近づくと、針の間から黒い目がちらり。
『触るなよ。今それどころじゃねぇんだ』
という声がした。
わたしには、動物の声が聞こえる。
といっても、別に口を動かして喋るわけじゃない。
体の奥の震えが、言葉に置き換わる感じだ。
みんなが「感じる」って言ってるやつを、もう少し明確に「聞こえる」だけ。
ハリネズミは、針を逆立てたままブルブル震えていた。
少し擦り傷がある。右足を庇ってる。
「誰かにやられたのかい?」
『人間のガキどもだよ。石投げやがった』
ため息が出た。
誰がこんなちっちゃい動物に。
拾い上げて、診察室へ。
丸まったままの背中を、そっとタオルで包んだ。
ちくちくして扱いにくいけど、不思議と温かかった。
数時間後、玄関のチャイムが鳴った。
開けると、ランドセルを背負った少年が立っていた。
いや、正確には“背負ってるふり”をしてるだけ。
肩ひもが片方外れたまま、ランドセルは空っぽだった。
「先生、ハリネズミ、ここに来てませんか?」
声が小さい。
うつむいたまま、目の奥が赤い。
この辺でよく見かける男の子──名前は確か、優樹くん。小五。
「どうして、そう思うの?」
「……三日前に見つけて。うちで飼おうとしたけど、お母さんにダメって言われて。仕方ないから、こっそり庭の隅で飼ってたんです。──でも、今日、朝になったらいなくて……動物ならここかなって」
その言葉に、診察室のハリネズミがぴくりと動いた。
『なんだ、あのガキ来たのか』
どこか怒ってるような、でも照れてるような声だった。
「怪我してたよ。ちょっと痛そうだけど、もう大丈夫」
優樹くんの顔が、ぱっと明るくなった。
でも、すぐ曇った。
「……あいつらのせいなんです」
「あいつら?」
「僕をいじめてるやつら。昨日公園で遊ばせてたら見つかって、“変な動物飼ってる”って笑われて、ハリネズミに石投げたんです」
その時のことを思い出したのか、拳が震えている。
「許せなくて。──あいつらのランドセルに、カエル入れてやろうとか、給食に砂入れてやろうとか……頭の中ではいろんなこと考えたけど……できなくて」
目の奥に、燃え残りみたいな光が見えた。
怒りというより、もう一歩手前──
「自分のことを守れなかった悔しさ」みたいな。
その晩。
ハリネズミを病院の奥のケージに入れて、わたしはカルテを書いていた。
静かな夜。時計の音がやけに響く。
ふと、ケージの方から声がした。
『あのガキ、弱ぇな。オレみたいに針の一本でも出せばいいのによ』
「針を持ってる人間なんて、そういないよ」
『そうか? あの子、腹ん中にいっぱい隠してるぞ』
「腹の中に?」
『ああ。怒りの針だよ。刺したい相手はいっぱいいるけど、自分が傷つくのが怖いから、出せねぇ。──だから、内側で錆びてんだ』
その言葉に、胸がちくりとした。
人間だって、似たようなものだ。
優しさの裏には、出し損ねた針がいくつも埋まっている。
翌朝、優樹くんがまた来た。
今日は姉の美樹ちゃんも一緒だ。中学生。
少し派手なジャージ姿で、弟の肩をぐいっと押しながら入ってきた。
「うちのバカ弟が、またお世話になってすみません!」
明るい声。弟とは対照的なタイプだ。
優樹くんは恥ずかしそうにうつむいている。
「この子、学校行ってないんです」
美樹ちゃんが言った。
「でも、動物のことになると、すごい真剣で。
ハムスターもカブトムシも、ぜんぶ自分で育てるの」
優樹くんは黙ったまま、ケージをのぞきこんだ。
ハリネズミは、丸まらずにじっと彼を見ていた。
『おい、来たのか。もう少しで治るぞ』
声を聞きながら、わたしは笑った。
優樹くんは気づかず、ただ針の先を見つめていた。
「先生、この子……連れて帰って大丈夫ですか?」
「うーん。でも、庭で飼うなら、寒さ対策をしなきゃね」
優樹くんは、少し考えてから言った。
「うちの物置に、ダンボールで家作ってやります」
「そう。いいじゃない」
美樹ちゃんが弟の背中をぽんと叩いた。
「やっとやる気出たね。ま、ハリネズミ先生に感謝しなきゃ」
優樹くんが小さく笑った。
それを見て、ハリネズミがまた針を少しだけ立てた。
まるで「悪くねぇ」って言ってるように。
それから一週間。
病院の裏庭に、時々優樹くんがやってきた。
ハリネズミにミルワームをやりながら、ぼそぼそ独り言を言う。
「“あいつら”がまだバカにしてくるんだ。でも、前より怖くなくなった」
その声を聞きながら、ハリネズミは土をほじっていた。
『針を出すタイミング、覚えたんだな』と呟くように。
人間の強さなんて、そんなもんだ。
痛い目を見た後に、少しずつ育つ。
自分を守る針の使い方を覚えるんだ。
ある朝、優樹くんが一人で来た。
手の中には、小さな箱。
「先生……ハリネズミ、死んじゃいました」
言葉のあと、沈黙。
指先が震えている。
「寒くて……カイロ入れたけど、ダメで。──朝、丸くなったまま動かなくて……」
胸の奥が詰まった。
わたしはそっと箱を開けて、彼の背中に手を置いた。
「……ちゃんと、あったかい家をもらって、幸せだったと思うよ」
『ああ。あのガキ、やっと針を出せるようになったからな』
ふと、そんな声が聞こえた。
わたしは小さく頷いた。
「ハリネズミってね、怖がりだけど、最後まで強情なの。自分が弱いことを、誰にも見せない。でもそれが、誇りなんだ」
優樹くんは泣きながら笑った。
その顔が、やけに大人びて見えた。
午後。
姉の美樹ちゃんが迎えに来て、二人で帰っていった。
その背中を見送りながら、わたしは小さく手を合わせた。
窓の外、風が通る。
植え込みの隙間で、小さな針が光ったような気がした。
『ありがとな。あのガキ、もう大丈夫だ』
声は、そこから吹き抜ける冬風に溶けた。
わたしは机に戻り、カルテに一行書いた。
──「ハリネズミ:治癒。帰還。人一人、救済。」
この仕事、毎日のように出会いと別れがある。
でも、悪くはない。




