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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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カルテ14、盲導犬と獣医学生



 午後三時。

 曇り空のすき間から、少しだけ日がのぞいている。


 宗方動物病院の裏口で、奈緒はモップを握ったまま、空を見上げていた。

 獣医学部二年。叔母の宗方紬(むなかたつむぎ)のもとで、週一でアルバイトをしている。


「ふぅ……犬のシャンプーって腰にくるなあ」


 ため息をついたその時、裏口の方で、かすかな足音がした。

 トコ、トコ、トコ──律儀なテンポ。

 見上げると、泥まみれのラブラドールが立っていた。


 黄色い首輪。ぬれた体。

 目は、どこか遠くを見ていた。


「……盲導犬?」


 タグには、「○○盲導犬協会」と刻まれている。

 奈緒は慌てて駆け寄り、タオルを取ってきた。


「大丈夫? 迷子になっちゃったの?」


 犬は答えず、ただ目を伏せた。

 まるで「もう、どうでもいい」と言わんばかりに。




 「へぇ……盲導犬か」


 診察室に入ってきた紬が、白衣の袖をまくりながら言った。

 犬の体をそっと触り、足の様子を確かめる。


「少し腱を痛めてるけど、大したことはないね。しばらく休めば治る」


「でも先生、盲導犬って脱走なんてします? ちゃんと訓練されてるのに」


「……うん」

 紬は少し間をおいて、犬の目を見た。


 その瞬間、声が届いた。


『もう、やってらんねぇよ……』


 かすれた、年齢を感じる声だった。

 紬は黙って、犬の頭を撫でる。


『子犬のころ、あの家の“おばちゃん”の膝で寝てた。あったかかった。あの人は、俺の耳の後ろをよく掻いてくれた。──でも訓練所に入ってからは……毎日、怒鳴られて、引っぱられて。“できない犬”だって言われた。それでも我慢して覚えたんだ。止まれ、進め、右、左。でもな――』


 犬の瞳が、ほんの少し震えた。


『“ありがとう”って言われたこと、一度もねぇんだ』


 紬は目を閉じた。

 その言葉の重さが、手のひらにじんわりと染みるようだった。


 


「先生? どうしました?」


 奈緒が首をかしげている。

 紬は微笑んで、聴診器を外した。


「……奈緒ちゃん、この子、ちょっと疲れてるだけ。明日、協会に連絡してみよう」


「はい。でも、不思議ですね。盲導犬って、使用者さんと心で繋がってるって聞きました。ほら、“息が合う”っていうか……お互いが相棒みたいな」


「……そうだね」


 紬は曖昧にうなずいた。

 奈緒の中にはまだ、理想の絵がある。

 犬も人も信じあって、支えあって、生きているという絵。


 けれど、現実の犬は黙っていた。

 リードを失い、心の行き場をなくしたまま。




 翌日。

 盲導犬協会の職員が来た。使用者の男性も一緒だった。


 五十代半ば。黒いサングラス。声が硬い。

 どこか、まだ犬との距離をつかみかねている感じ。


「お手数をおかけしました。まだ預かって一か月で……慣れないことが多くて」


 奈緒は笑顔で男性に話しかけた。


「いえ、無事でよかったです。ボナちゃん、がんばって歩いたんですね」


 犬──ボナは、彼女の言葉に反応しなかった。

 ただ、視線を落とし、前脚をぺたりと床につけた。


『あの人……俺が何を考えてるか、わからない。俺も、あの人の声が、まだ“見えない”。怒ってるわけじゃないのはわかってる。ただ、怖いんだ。前が暗いのは、俺のせいじゃないのに……』


 紬はその声を、静かに聞いていた。

 奈緒には、ただ沈黙だけが見えた。


 


「奈緒ちゃん」

 紬がぽつりと言った。


「動物にもね、“仕事”っていうのがある。でも、それは人間が作った“役目”とはちょっと違うの」


「え?」


「自分で選んだ“誰かを守る理由”を見つけた時、それが本当の仕事になる。だけど、それを押しつけられたら、ただの鎖だよ」


「うーん……そうなんですか」


「そのうちわかるよ」


 紬は笑って、ボナの背を軽く押した。

 ボナは、ゆっくり立ち上がる。


『……あの人の“目”になるのが俺の仕事。でも今は、それが怖い。──見えないのは俺のほうかもしれないな……』


 玄関の方で、男性がリードを握った。

「ボナ、行こう」


 犬は一瞬だけ紬を見た。

 目の奥に、「行きたくない」があった。


 でもそのまま、リードに引かれて外へ出た。


 奈緒は笑って見送った。

「よかったね、ボナちゃん。ちゃんと帰れた」


 紬は何も言わなかった。




 夜。

 診察室の灯りを落としたあと、紬は一人、カルテに記録を書きながらつぶやいた。


「──“帰る”って、どこまでを言うんだろうね」


 窓の外では、風が吹いていた。

 遠くの道の向こう、白い杖の音が小さく響く。

 そして、その横を歩く犬の足音。


 きっと、まだ息は合っていない。

 けれど、歩こうとしている。


 


 紬はペンを置き、静かに目を閉じた。

 耳の奥で、かすかな声がした。


『……明日も歩くよ。もう少しだけ、がんばってみる』


 その声は、風に溶けて消えた。


 紬は小さく笑い、つぶやいた。


「うん。焦らなくていい。仕事なんて、誰だって最初は迷子だからね」


 


 翌朝。

 奈緒が出勤すると、紬はいつものようにコーヒーをいれていた。


「先生、昨日の盲導犬の子、どうなりました?」


「ちゃんと帰ったよ」


「よかったぁ。やっぱり絆って、すごいですね」


「……そうだね」


 紬は窓の外に目を向けた。

 街路樹の下を、ラブラドールと男がゆっくり歩いていくのが見えた。

 リードの間には、まだぎこちない距離があった。

 でも、確かに同じ方向を向いていた。


 


 空の色が少しだけ明るくなっていた。

 そして、その光の中に、ボナの金色の毛がちらりと輝いた。



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