(番外編4)灰色猫の憂鬱 ─雨の日のグレさん─
朝から雨だった。
しかも中途半端に冷たい。
夏の終わり、湿気と泥と、排気ガスのにおいが混ざった、あの感じ。
こういう日は、俺は大抵、宗方動物病院の裏の段ボール箱で一日をやり過ごす。
屋根の下。先生が気まぐれで置いてくれた古い毛布の上。
風よけはあるけど、湿気は容赦なく毛皮の奥まで染みてくる。
外の通りは静かだった。
いつもなら小学生の声やスクーターのエンジン音がするのに、今日は雨音しか聞こえねぇ。
ぽつ、ぽつ、ざああ。
それがまるで時計の針みたいに、時間を刻んでた。
俺の名前はグレ。
灰色の毛に、ちょっと切れた左耳。
この町じゃそこそこ名の知れたボス猫だ。
だけど最近は、ボスって呼ばれるほど威張る気にもなれない。
歳をとるってのは、怒る理由より、黙る理由のほうが増えることだ。
宗方先生は、朝から病院のシャッターを半分だけ開けていた。
雨の日は来客が少ない。
犬も猫も、みんな濡れるのが嫌いだ。人間もそうだ。
「グレ、今日はおとなしいね」
白衣の裾を濡らしたまま、先生が言う。
あの人は動物の声が聞こえる。
でも、こっちが何も言わない時は、何も聞かないふりをしてくれる。
その“距離感”がいい。
猫ってのは、甘やかされるよりも、放っておかれる方が救われることがあるんだ。
先生はコーヒーをすすって、ため息をひとつ。
「今日は休診にしようかな」
その声に、俺は心の中でつぶやいた。
『そりゃ正解だ。こんな日は、寝るに限る』
けど先生は俺の方をちらっと見て、にやっと笑った。
「聞こえてるよ」
……まったく、油断ならない。
雨の日は、街の音が変わる。
足音が短くなり、会話が減る。
代わりに“心の音”が大きくなる。
俺は毛布の上で丸まりながら、昔のことを思い出してた。
初めて雨に濡れた日のことだ。
まだ子猫だった頃、段ボールごと捨てられて、冷たいアスファルトの上で震えてた。
体が小さくて、鳴く声も出なかった。
そのとき、通りかかったのが宗方先生の父親――先代院長だった。
「おい、寒いだろ」
大きな手が、俺を包んだ。
その匂いを、今でも覚えてる。
薬とタバコと、少しのアルコールの匂い。
それは“人間の匂い”でありながら、不思議と安心する香りだった。
“人に拾われた猫”ってのは、運命の片側を人に預けちまう。
だから、俺はここから離れられない。
昼すぎ、裏路地の向こうでガタガタと音がした。
のぞいてみると、小さな影がいた。
子猫だった。
白い足先が泥に汚れて、細い尻尾を震わせてる。
たぶん生後三ヶ月ってとこだ。
『おい、坊主。どこから来た?』
近づくと、子猫が目を見開いた。
『……お腹、すいた』
声が小さかった。
俺は溜息をついた。
『ったく、雨の日にうろつくなんて、バカかお前は』
宗方先生に知らせに行くと、すぐにタオルを持ってきた。
小さな体を拭いて、毛布にくるむ。
子猫はぐっすり眠った。
「グレ、優しいね」
先生が言った。
『別に優しくねぇ。ただ、寒いのは嫌いなんだよ』
またニヤリと笑われた。
「本音、聞こえてるよ」
……まったく、ほんとにやっかいな人だ。
夕方、雨は少し弱まった。
街の明かりがにじんで、アスファルトが金色に光る。
屋根の上で水滴がはじける音が、遠いピアノみたいに聞こえた。
子猫が目を覚ました。
『ここ、どこ?』
『宗方動物病院。お前、運が良かったな』
『うん……でも、ママ、来るかな』
その言葉で、少し胸が痛んだ。
ママ。
あの言葉を聞くたびに、過去の傷がうずく。
猫は群れない生き物だが、母親のぬくもりだけは別格だ。
雨の日には特に、その匂いを思い出す。
『……来るさ』
俺はそう言ったけど、自分でも嘘だと思った。
夜になっても雨はやまなかった。
先生は帰り支度をして、俺の頭を撫でた。
「グレ、今夜はこの子のそばにいてやって」
『わかってるよ』
「聞こえてるよ」
『だから言ってねぇっての!』
先生は笑って帰っていった。
病院の中は静かだ。
機械の点滅だけが、星みたいに明滅してる。
外では雨が細くなって、時々、風が窓をたたく。
子猫がもぞもぞと動いて、俺の尻尾に顔をうずめた。
小さな寝息が聞こえる。
『おい……離れろよ。重い』
でも、体はあたたかかった。
俺はゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏で、雨がまだ降っていた。
夢を見た。
昔の裏路地。
カラスのクロが、電線の上で笑ってる。
『おい、グレ。雨ってのはな、空のため息だ』
『はあ?』
『降らせてる間だけ、空は泣けるんだよ。だから、泣きたい時は濡れろ。そうすりゃ、誰も気づかねぇ』
あいつらしい台詞だった。
夢の中でも、笑ってしまった。
朝。
雨が上がっていた。
空気は洗われて、街の色が少し明るい。
子猫が外を見て、目を丸くしている。
『お外、きれい……』
『雨が洗ってくれたんだ。汚いもんも、ちょっとだけ流してくれる』
俺は背伸びをして、濡れた空気を吸いこんだ。
土と草と、少しだけ希望のにおい。
宗方先生が出勤してきた。
「おはよう、グレ。よく頑張ったね」
俺は小さくあくびをした。
『別に頑張ってねぇよ。ただ、寝ただけだ』
「へー、そうなんだ」
まったく、やっぱり敵わねぇ。
外の路地には、昨日までの雨の名残があった。
空き缶の水たまり、濡れた新聞紙、流された葉っぱ。
それら全部が、光を反射していた。
子猫が足を伸ばして、一歩踏み出す。
『冷たい!』
『だから言ったろ。濡れるってのは、そういうことだ』
子猫が笑った。
俺も笑った。
灰色の雲の隙間から、陽が差してきた。
まぶしくて目を細める。
それでも悪くない。
俺は空を見上げて、ひとつ呟いた。
『……なあ、クロ。お前の言ったとおりだったよ。──濡れるのも、悪くねぇな』
風が、ふっと吹いた。
遠くでカァ、と鳴いた声がした。
俺は尻尾を立てて、子猫の背中を押した。
『行け。──濡れながら、生きてみろ』
子猫は振り向いて、にゃあと鳴いた。
その声が、雨上がりの空に吸いこまれていった。
──雨上がりの匂いは、いつも新しい。
土と排気ガスと、過去の記憶が混ざって、街全体が呼吸を始めるのを感じる。
空は泣きたいだけ泣き、そして静かに笑う番だ。
俺も同じだ。
濡れて、立ち直って、灰色の毛を揺らす。
──これが、生きていくってことだ。




