カルテ13、マンチカンとホステス
俺の名前はリボン。
オスだけど、ピンクの首輪をつけられてる。
鏡を見るたびに、どうにも締まらねえ顔してるなと思うけど、
まあ、似合ってるって本人(=ミカ)が言うんだから、いいんだろう。
ミカ──俺の飼い主だ。
三十代の半ば。夜の街でホステスをやってる。
スナック「花みずき」の看板娘ってやつ。
よく笑うけど、笑うたび、どこか寂しい音がする。
あれを聞くと、胸の奥が冷たい空気に触れたようにチクンと痛むんだ。俺はあの音を消してやりたかった。
夜の十時過ぎ。
ミカが帰ってくると、いつも俺の頭を撫でてくれる。
「リボン、ただいま。寒くなってきたねぇ」
酒の匂いと香水の匂いが混ざって、
なんだか“人間の夜”って感じがする。
俺は喉を鳴らして答える。
──おかえり。今日もがんばったね。
ミカはよく話す。
店のこと、客のこと、同僚の女たちのこと。
俺はその足元で丸まりながら、
ただ“聞いてる”だけ。
それだけで、彼女は少しだけ落ち着くみたいだった。
そんなある晩、ミカは帰ってこなかった。
一晩中、玄関の前で待った。
二晩目の明け方、やっと帰ってきたとき、
目の下が赤くなってた。
俺を抱き上げて、髪をくしゃっと撫でながら言った。
「ねえ、リボン。あたし……結婚するかもしれない」
“結婚”ってのは知らなかったけど、
その声の響きでピンときた。
それは俺にとって、たぶん悪い知らせだ。
相手は「中村さん」。
四十代後半。ネクタイと煙草の匂い。
ミカがよく話してた。
“真面目で優しい人なの。でもね──猫がダメなのよ”
ダメ? 何が? と思ったが、すぐにわかった。
その夜、ミカは電話していた。
「え、猫? ……うん、うちの子。そんなにアレルギーひどいの?」
しばらく黙って、それからため息。
俺は床の上で丸まりながら、
胸の中で、何かが少しずつ冷えていくのを感じた。
夜更け、ミカが俺の頭を撫でながら言った。
「どうしようね、リボン。あんたといると、落ち着くんだけどね……」
俺は彼女の膝に顔を押しつけた。
“俺はどこにも行かないよ”──そう伝えたかった。
数日後、ミカは俺を抱えて、白い建物に連れて行った。
宗方動物病院。
玄関のドアが開くと、消毒薬と土の匂いが混ざって鼻をついた。
中から出てきたのは、白衣の女。宗方紬。
動物の心が聞こえるって噂の獣医だ。
診察台に乗せられて、俺は彼女と目が合った。
その瞬間、何かを見透かされた気がした。
宗方先生は、ゆっくりと俺の頭を撫でて言った。
「……君、泣いてるね」
ミカが笑ってごまかした。
「先生、うちの子、元気でしょ? でもね、ちょっと事情があって……しばらく預かってもらえるかしら」
“事情”。
その言葉を聞いた瞬間、俺は先生の袖を噛んだ。
『置いてくな。俺は悪い子じゃない』
声にならない声が喉を震わせた。
宗方先生は何も言わずに俺を抱きしめた。俺は必死で先生の白衣に爪を立てた。
「この子、わかってますよ。あなたが嘘をついていること、そしてそれが本気の嘘ではないことも」
ミカの手が止まった。
「……そうですか」
その声は、泣く一歩手前の声だった。
夜、ミカは俺を抱いたまま眠った。
頬が濡れていた。
俺は舌で涙を舐めた。しょっぱかった。
そのしょっぱさを、俺は一生忘れないと思った。
翌朝、病院の待合室。
ミカは俺を抱きしめ、長いキスをしてから
「少しの間だけね」と言った。
でも俺は知ってた。
“少し”は嘘だ。人間が別れを言うときの言葉だ。
ドアが閉まる。
ミカの足音が遠ざかる。
俺は鳴いた。ひと声だけ。
宗方先生がそっとケージの鍵を閉めた。
「……ごめんね」
その言葉が風みたいに静かに落ちた。
季節がひとつ過ぎた。
春になって、ミカは一度だけ戻ってきた。
新しいコート、新しい指輪。
俺のケージを覗いて笑った。
「元気そうだね、リボン」
俺は鳴かなかった。
鳴いたら、きっと壊れちゃう気がしたから。
「幸せにね」
そう言って、彼女は去った。
ドアが閉まったあと、俺は静かに鳴いた。
──にゃあ。
それは“行くな”でも“好きだ”でもない。
ただ、俺の全部を込めた音だった。
夜、宗方先生がケージの前で言った。
「君はちゃんとわかってるね」
俺は目を閉じた。
あの人の声も、匂いも、
今もこの毛布の中に残ってる。
窓の外では春の雨。
屋根を叩く音が、ミカの笑い声に少し似ていた。
俺は丸くなり、尾で鼻を隠した。
──人間ってやつは、
愛するときも、離れるときも、どうしようもなく不器用なんだな。
でもまあ、それでいい。
俺はこの街で、今日もあの日のピンクの首輪をつけた“リボン”として生きている。




