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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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カルテ11、多頭飼い猫と新米主婦



 朝の診察室に、柔らかい鳴き声が響いた。


「にゃぁ……にゃぁぁぁぁぁ……!」


 キャリーケースの中で、白黒の猫が必死に訴えている。

 それだけならよくある光景だけど――

 今日は違った。キャリーが三つもある。


 受付の前に立っていたのは、二十代半ばくらいの女性。

 エプロン姿で、髪をひとつに束ねている。

 目の下にクマがあり、寝不足なのがひと目でわかった。


「先生……! すみません、どれから診てもらえば……」

 彼女の声は、半分泣きそうだった。


「落ち着いて。順番に見ますから」


 キャリーの中には、三匹の猫。

 一匹は真っ白、一匹は三毛、もう一匹は黒猫。

 どの子も毛づやは悪くないけれど、少し痩せている。


「お名前、聞いてもいいですか?」

「えっと……シロと、ミケと、クロです」

「……正直でいい名前だね」

 思わず笑ってしまったら、彼女は恥ずかしそうに俯いた。


 診察を始めると、猫たちは順番にわたしを睨んだ。

 中でも三毛のミケがいちばん強気だ。

『触るな人間! また注射だろ!』


「大丈夫、大丈夫。ちょっと見るだけ」

『どうせ痛いんでしょ!』

「痛くないよ、たぶん」


『“たぶん”って言った! 信用ならん!』


 ミケがシャーッと威嚇して、女性が慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい! この子、気が強くて……!」

「いいんですよ。むしろ元気な証拠」


 順に診ていくうちに、事情が見えてきた。

 三匹とも健康状態は悪くない。


 でも、問題は――ストレス。

 食欲不振や軽い下痢、毛づくろい過多。

 どうやら家庭環境に変化があったらしい。


「最近、引っ越しか何かされました?」

「はい……結婚して、この春から新しい家に。もともと実家でこの子たちを飼ってて、私が連れてきたんです」


「ご主人は?」

「猫、ちょっと苦手で……。でも、“頑張って慣れるよ”って言ってくれて」

 言いながら、彼女の指がエプロンの裾をぎゅっと握った。


 ――新婚生活と、多頭飼い。

 その両立がどれほど難しいか、わたしは想像できた。


「ご飯やトイレの場所、変わりました?」

「全部新しくして、きれいに揃えたんです。──せっかくだから、って。でも……落ち着かなくて」


 ミケが小さく鼻を鳴らす。

『あの人の匂いがする。ソファもカーペットも、知らない匂い』

「“あの人”って、彼女のご主人のこと?」


『うん。悪い人じゃないけど……私たち、置いていかれたみたいだった』


 置いていかれた――

 その言葉が胸に刺さった。


「……あなたたち、彼女のことが好きなんだね」

『あったりまえ。毎日遊んでくれたもん。今は、台所で泣いてばっかり』


 わたしは女性の方を見た。

 彼女はうつむいたまま、ミケの頭を撫でていた。

 目尻が少し赤い。


「……泣いてるの、見られてたみたいですよ」

「え?」

「ミケちゃんが、そう言ってます」


 彼女はきょとんとしたあと、ふっと笑った。

「先生って、本当に動物の言葉がわかるんですね」

「まぁ、たぶん。嘘だと思ってもいいですけど」

「いえ……なんか、信じたくなります」



 それから一週間後。

 また、彼女が三匹を連れてきた。

 今度は少し明るい顔をしていた。


「先生、この子たち、前より元気になってきたんです!」

「それは良かった。何か変えたんですか?」

「夫と話したんです。最初は“猫の数が多い”って言われて、ケンカになっちゃって……。

 でも、ある日、クロが夫の膝に乗ったんです。

 そのとき、夫が“あ、意外とあったかいな”って言って」


 彼女の声が弾んでいた。

 ――そうか、クロ。やるじゃない。


 黒猫のクロが、テーブルの上でどや顔をしている。

『俺、できる猫だからな』


「偉いね。でも、どうして急に?」

『あいつ、ずっとテレビばっかり見てた。だから、顔の前にドンって座ってやったんだ。“俺を見ろ”ってな』


「強引だねぇ」

『愛は大胆にだ』


 思わず吹き出したら、彼女が不思議そうに首をかしげた。


「先生、今、何か……?」

「いえ、クロくんが“愛は大胆に”って言ってました」

「ふふっ、ほんとそんな性格なんです」


 その笑顔を見て、胸が少し軽くなった。

 少しずつ、この家族が形になってきている。





 けれど、穏やかな日々は長くは続かなかった。


 三匹のうち、シロが突然食べなくなったのだ。

 再び病院に運ばれてきたとき、シロは毛布の中で震えていた。


「昨日までは元気だったんですけど……急に」

 わたしは体温を測り、血液検査をした。

 数値に異常はない。

 でも、瞳がどこか虚ろだった。


『……ごめんね。私、邪魔かもしれない』


「邪魔? どうしてそんなこと言うの」

『あの人、私を見ると眉が動く。気づかないふりしてるけど、わかるの。

 “また毛が落ちてる”って顔』


 胸が痛んだ。

 新しい家の空気。人の気配。匂い。

 猫たちは、すべてを敏感に感じ取る。


「ご主人、掃除が苦手ですか?」

「いえ、むしろ綺麗好きで……。だから、シロの抜け毛が気になるみたいで。私も気をつけてたんですけど、完璧にはできなくて」


「そのことで、喧嘩した?」

「……少しだけ」


 彼女の目が揺れた。

 たぶん、喧嘩というより、すれ違いだ。

 彼も悪気はない。けれど、シロには伝わってしまった。


 ――“自分は迷惑なんだ”と。


 その夜、わたしは診療室の隅でシロのケージを見守った。

 深夜。静まり返った病院に、時計の針の音だけが響く。

 シロが薄く目を開け、かすかな声で言った。


『……先生、あの人、泣いてたよ』

「奥さんが?」


『ううん、男の人。キッチンで一人で。“俺、向いてないのかも”って言ってた。だから……帰りたい。あの家に。』


「いいの? つらかったんじゃないの?」

『でも、あの人たち、笑うとき、あったかい。

 ミケもクロも待ってる。私も、あそこが好き。』


 わたしはシロの頭を撫でた。

 その毛並みは、やわらかくて、少し温かかった。



 三日後。


 夫婦揃って、シロを迎えに来た。

 夫はスーツ姿で、ぎこちなく笑った。

「先生……迷惑をかけました」


「いえ。むしろ、あの子が寂しがってましたよ」

「……そうですか」


 シロをキャリーに入れようとすると、彼が小さくため息をついた。

「最初は、正直きつかったんです。家に帰ると、あちこち毛だらけで。でも、いなくなってみたら、静かすぎて……」


 彼の目尻が、少しだけ赤かった。


「この子、家にいるとき、よく俺の椅子の上で寝てたんですよ。その跡が、ずっと残ってて。捨てられなくて」


 わたしは微笑んだ。

「それ、立派な“家族”ですよ」


 キャリーの中で、シロがそっと鳴いた。

『……ただいま』


 その声に、彼の肩が少しだけ震えた。



 それから数週間。

 また、三匹そろっての定期健診。

 キャリーを開けた瞬間、三匹が一斉に鳴いた。

 それは、以前よりずっと明るい声だった。


『ねぇ先生、聞いて! 朝ごはんが二人分になったの!』

『夫婦喧嘩のあと、必ずおやつタイムになるんだ!』

『この家、意外と悪くない!』


 わたしは笑いながら彼女を見る。

「順調そうですね」

「はい。夫が猫の寝相写真を撮るのにハマっちゃって……。

 毎晩、“今日のベストショット”って見せてくれるんです」


 彼女の頬が柔らかく緩んでいた。

 愛情が、ちゃんと混ざり合ってる。

 猫たちがその空気を感じ取って、ようやく安心したのだろう。


 ――人と動物は、似ている。

 環境が変わると、不安になる。

 でも、少しずつ、心の居場所を作っていく。


 カルテを閉じながら、わたしは思った。

 この三匹は、きっとこの家の「家族の形」を作る調律者になる。

 人が笑えば猫が安心し、猫が喉を鳴らせば人が穏やかになる。

 それを繰り返しながら、日々はやわらかく重なっていくのだ。



 その夜。


 診療を終えて、病院の灯を落とした。

 窓の外に、雨の匂いが漂っている。

 ふと、父の言葉を思い出した。


 ――「獣医ってのは、命を治すだけじゃなく、“暮らし”を整える仕事なんだ」


「……うん、そうだね、父さん」


 机の上のカルテを開き、ペンを取る。

 いつものように、端に小さく書き加える。


 ――「シロ・ミケ・クロ/新米主婦と夫宅。家庭環境改善により完治。心音、全員良好。」


 書き終えたあと、窓の外で小さな声がした。


『先生、今度の診察のとき、焼きカツオ持ってきて!』


 ミケの声だ。いや、きっと幻聴だろう。

 でも、聞こえた気がした。


「了解。次は特別サービスね」


 そうつぶやくと、どこかでグレさんの声が混じった。


『やれやれ、また猫が増えたな。こいつら、にぎやかすぎるぜ』


「いいじゃない。賑やかなほうが、病院も生きてる感じがする」


 雨音が優しく屋根を叩く。

 その音が、まるで三匹の喉の音みたいに心地よかった。


 ――命と心をつなぐ場所。


 宗方動物病院の看板が、街灯の下で静かに光っていた。




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