カルテ10、ピンクのニワトリと親分
「先生、またお世話になります」
午後三時、診察室のドアが開いて、見覚えのある大きな影が差した。
黒いパーカー、腕にはうっすら刺青。
そして肩の上には──ピンクがかった羽をした一羽のニワトリ。
「こんにちは、ピン子ちゃん。今日も元気そうね」
『ぴー! 先生、会いたかった!』
そう、彼女は“ピン子”。
かつて祭りの景品として捨てられていたピンクのひよこ。
そして彼女を拾ったのが、元ヤクザの若頭・新堂誠さんだった。
数ヶ月前、彼は組を抜けて、小さな動物カフェを始めた。
“ピン子といっしょ”という、少し笑ってしまうような名前の店だ。
今日は、そのピン子ちゃんの定期健診。
「どう? カフェのほうは」
「ぼちぼちですね。常連も増えてきて。ピン子が子どもらに人気で、“アイドル店長”ですよ」
『ぴー! アイドル! でもカツ丼のにおいは苦手!』
わたしが吹き出すと、新堂さんが苦笑した。
診察台の上で、ピン子は堂々と胸を張っていた。
体重も問題なし、羽もつやつや。
けれど――少し、気になることがあった。
「ピン子ちゃん、右足の爪が割れてるね」
「え。いつの間に……」
「歩きすぎかな。最近、外に出ること増えた?」
『うん。おっきい人のとこ、行ったの』
「おっきい人?」
わたしが聞き返すと、新堂さんが少し言いにくそうに頭をかいた。
「……実は。親分が、会いたいって言うんですよ。ピン子に」
「親分、って……あなたの?」
「はい。俺が抜けた組の、上の人です。“あの時のひよこはどうしてる?”って話になって、気になるらしくて」
──なるほど。
ヤクザの親分とニワトリ。どう考えても相性が悪そうだ。
「断らなかったの?」
「断れねぇよ。でも、思ってたより優しい人で。“動物を大事にできる男は裏切らねぇ”って言ってました」
意外だった。
怖い世界にも、そんな理があるのかもしれない。
『その人ね、最初は顔こわかったけど、やさしかったよ。ピン子の頭なでて、“昔、犬飼ってた”って言ってた』
──犬。
わたしの胸の奥に、ふっとあたたかい風が吹いた。
人と動物は、どんな世界にいても、心をやわらげる力を持っている。
三日後。
新堂さんから電話があった。
「先生、すんません、ピン子が……」
背後で人のざわめきが聞こえる。声が少し震えていた。
「今、親分の家です。ピン子、急に動かなくなって……!」
「わかりました。すぐ行きます」
わたしはバッグを抱えて車に飛び乗った。
向かったのは、郊外にある古い屋敷。
門の前には黒塗りの車が並び、スーツ姿の男たちが無言で立っている。
でも、皆の視線は一つの方向――庭の中央に釘づけだった。
そこに、新堂さんと白髪混じりの老紳士がいた。
そして、その腕の中で、ピン子がぐったりしていた。
「ピン子!」
抱き上げると、体が熱い。
呼吸が浅く、羽の間に炎症がある。
「高熱……感染症の可能性があります。すぐに治療を」
「頼みます、先生……!」
彼の目は真っ赤に腫れていた。
親分と呼ばれた男も、無言で深く頭を下げる。
『せんせい……おっきい人、ないてる。どうして?』
「大丈夫。今すぐ楽にしてあげるからね」
わたしは注射を打ち、冷却パッドを当てる。
数分の沈黙。
庭の空気が、息を潜めていた。
やがて、ピン子が小さく鳴いた。
「ぴ……」
その声を聞いた瞬間、みんなが息をついた。
「……助かるのか?」と、親分が問う。
「熱は下がりきってませんが、峠は越えました。ここから数日は安静に」
老紳士の目が細まり、ふっと笑った。
「さすが先生だな。──ピン子、お前、がんばったな」
その手が、まるで孫を撫でるようにやさしかった。
治療を終え、わたしは親分の部屋に通された。
新堂さんとピン子は別室で休ませている。
目の前の親分──黒い着物に、鋭い眼光。
だが、どこか静かな威厳を感じた。
「先生。あんた、宗方動物病院の娘さんか」
「はい。父をご存じで?」
「あぁ。昔、うちの連れの犬が世話になった。“命を直すより、想いをつなぐのが獣医だ”──あの人の言葉、今も忘れとらん」
……父の言葉。
やっぱり、どこかで繋がっている。
「新堂も、あんたに会って変わった。“怖い時間を減らす”なんて言葉、あいつの口から出るとは思わなかった」
「ピン子ちゃんのおかげですよ」
「そうだな。……あの小さな鳥一羽が、人間を変えるとは」
親分は窓の外を見ながら、静かに続けた。
「俺もな、最近は、夜になるとピン子の声が聞こえるんだ。“ピーピー、もう怒らないで”って」
わたしは微笑んだ。
「それ、ほんとに聞こえてると思います」
「そうか……なら、俺もまだ捨てたもんじゃねぇな」
数日後、ピン子は完全に回復した。
再診の日、新堂さんは親分を連れて病院に来た。
「先生、その節はありがとうございました」
親分は深く頭を下げた。
背中にはまだ“親分”の風格があったが、その目は穏やかだった。
『おっきい人、きょうはこわくない顔!』
診察台の上で、ピン子が胸を張る。
「ピン子ちゃん、すっかり元気ですね。食欲もあるし」
『おなかすいた! でも焼き鳥はイヤ!』
ピン子が胸を張って鳴く。
わたしは思わず吹き出した。
親分は怪訝そうな顔をしながら、そっと懐から小さな封筒を出した。
「先生、これを。ピン子の医療費と……それから、保護した動物たちの支援に使ってくれ」
「そんな、大丈夫ですよ」
「いいんだ。ピン子を見てると、命の借りは返したくなる」
その言葉に、わたしは頭を下げた。
「ありがとうございます。きっと動物たちも喜びます」
『おっきい人、いい人になったね!』
ピン子の羽がふわりと光を受ける。
その色は、やわらかい桃色。
まるで、人の心の奥に灯った希望の色のようだった。
夕方。
帰り際、親分がふと立ち止まり、言った。
「先生。……新堂のこと、頼む」
「え?」
「あいつ、まだ過去の尻尾を引きずっとる。けど、ピン子とあんたの存在が、あいつの道を変えた。俺ももう、争い事から足を洗う。──ピン子を見てると、そんな気になるんだ」
その背中が、夕日を受けて金色に染まっていた。
まるで、世界が少しやわらかくなったように感じた。
夜、カルテを整理しながら、わたしはつぶやいた。
「ピン子ちゃん、あなたってほんとに不思議な子ね」
──『だって、みんな怒ってる顔やだもん。ピン子、みんな笑ってほしい』
「うん。きっと、あなたの願いは届いてるよ」
宗方動物病院の看板の下。
夜風がそよぎ、外の街灯が淡くにじむ。
どこか遠くで、あの親分の低い笑い声と、ピン子の「ぴー!」という声が重なった気がした。
──命は、小さくても、世界を変える力を持っている。
怒りをやさしさに変え、怖い時間をあたたかい色に染める。
ピンクのひよこは、今日も誰かの心に羽ばたいている。




