カルテ9、ピンクのひよことヤクザ
午前の診察がひと段落したころ、受付のベルが鳴った。
「すみません、予約してねぇんだが……」
低くてかすれた声。
顔を上げると、扉のところに――でかい男が立っていた。
黒いスーツ。刈り上げた頭。腕には刺青がのぞく。
鼻筋の通った顔だが、目つきは鋭く、威圧感がすごい。
……うん、これは明らかに“その筋”の人だ。
「どうされました?」
「ひ、ひよこが……」
「ひよこ?」
「ああ。ちょっと、変なんで」
男の手元を見ると、小さな段ボール箱を抱えていた。
中には、ふわふわのひよこ。
でも――ピンク色だ。
「……すごい色してますね」
「ですね。拾ったときからこれで。最初、なんかのイベントの景品だったらしくて。うちの組の前にダンボールごと置かれてたんですよ」
彼は頭をかきながら、困ったように言った。
「“組”の前に、ですか」
「えぇ、まぁ……そういう関係で。すんません、脅かす気はねぇんですけど」
わたしは笑って首を振った。
「うちの病院、来るのは猫も犬も人もいろいろですから。ひよこもヤクザさんも初めてじゃないですよ」
男はぽかんと口を開けた。
「マジすか……」
箱の中のひよこが、か細い声で鳴いた。
「ぴ……ぴぴ……」
聞こえた。いつもの“声”だ。
『おなか、すいた。こわい。あのひと、こわい顔してる』
「大丈夫。こわくないよ」
わたしがそう言うと、男がびくりとした。
「え、今俺に言いました?」
「いえ、この子にです」
彼は不思議そうに眉を寄せた。
「先生……もしかして、動物の気持ちわかるタイプですか?」
「まぁ、獣医師なんで」
「へぇ……そりゃすげぇ」
診察台の上にひよこを乗せ、羽毛を軽く広げる。
ふわふわしているが、根本がやけにべたつく。
「染料ですね。ペットショップとか、祭りで売るために人工的に染めたんだと思います」
「そんなことすんのかよ……」
「ええ。かわいく見せるためですけど、皮膚が弱い子には負担です」
小さな羽毛の下に、うっすら炎症が見える。
痛みもあるはずだ。
「かわいそうに……」と、男がつぶやいた。
その声は意外なほど優しかった。
『この人、声は怖いけど、あったかい匂いする』
ひよこがそう言う。
「あなた、動物好きなんですね」
「いや……そうでもねぇっすけど」
彼は照れくさそうに視線を逸らした。
「昔、犬飼ってたんですよ。名前、マル。でも、ガキのころ、事情あって手放して……それっきり」
彼の声の奥に、少しだけ寂しさが滲んでいた。
「この子、今は弱ってますけど、ちゃんとケアすれば治ります」
「本当ですか」
「ええ。まずはお湯でやさしく洗って、染料を落としましょう」
彼のごつい手が、驚くほど慎重に動いた。
ひよこがくすぐったそうに鳴く。
『あったかい。さっきより、こわくない』
治療を終えて、乾かしたひよこは――ほとんど白になっていた。
ほんのりピンクが残っているのは、羽の奥まで染まっていたせいだ。
「おぉ……だいぶ違うな」
「清潔にして、体温を保ってあげれば大丈夫です。この子、まだ一週間くらいの子ですよ」
「そんなにちっちゃいのか……」
「ええ。よくぞここまで生き延びました」
男は腕を組み、しばらくじっとひよこを見ていた。
その表情は、まるで子どもを見る親のようだ。
「……俺、育てられますかね」
「もちろん。生き物に必要なのは、“怖くない時間”です。それがある人なら、誰でも大丈夫です」
「怖くない時間、ねぇ……」
彼はぽつりとつぶやいた。
「うちの世界、怖い時間ばっかでよ。でも、こいつ見てると、なんか、胸の奥が柔らかくなるな」
その言葉に、わたしは少し笑った。
「それが命の力ですよ」
一週間後、再診の日。
彼はまたやってきた。
黒スーツはそのままだが、表情は柔らかい。
肩にちょこんと乗っているのは――ひよこ。
しかも、ちょっと太った。
そして、うっすら桃色が残った羽をふるわせている。
「先生、こいつ、“ピン子”って名前にしました」
「ピン子ちゃん、いい名前ですね」
「ぴー! ぴー!」
元気いっぱいの声が弾む。
「組のみんなも可愛がってて、今じゃ誰もタバコ吸えねぇ。“ピン子が煙たがるからやめろ”って」
そう言って笑う彼の顔は、最初に来たときとはまるで別人だった。
『この人、笑うと目が三日月になるんだよ。かわいいでしょ?』
ピン子が胸を張って言う。
たしかに、かわいいかもしれない。
「ピン子ちゃんのごはん、何をあげてます?」
「ネットで調べて、専用の雛用ペレット買いました。あと、保温箱も。高かったけど、命には代えらんねぇと思って」
「立派ですね」
「いえ、こいつが笑うと、なんか救われるんですよ。俺が悪さしても、ピン子は関係ねぇって顔して寄ってくるし」
男が照れくさそうに後頭部を掻いた。
「ええ、まぁ。ピン子ちゃん、いい子ですね」
「わかります? こいつ、最近、誰か怒鳴るとすぐ泣くんすよ。“ピーピー”って。そしたら、誰も怒鳴れなくなる」
「それ、平和の象徴ですね」
「まじで、組の空気変わったっす」
彼の言葉には嘘がなかった。
その瞳には、優しい火が灯っていた。
──「怖くない時間」。
彼はきっと、それを作る側になったのだろう。
ある日の午後、病院にまた彼が現れた。
今度は黒いスーツではなく、淡いグレーのパーカー姿。
肩には相変わらずピン子。
「先生、報告です」
「どうしました?」
「俺、組、抜けました」
その言葉に、わたしは目を見張った。
「大変だったんじゃないですか?」
「まぁ、揉めましたけどね。でも、ピン子が“ピーピー”泣いて止めるんすよ。“喧嘩しないで”って」
『そうだよ。血、こぼれるのイヤ。』
ピン子が胸を膨らませて言う。
「……それで、今は?」
「小さい動物カフェ、始めようかと思って。保護された動物たちと、人が触れ合える場所」
「すごいですね」
「いえ、先生の真似です。“命を治すだけじゃなく、暮らしを整える”って言ってたじゃないですか」
思わず息を呑んだ。
それは、父が昔わたしに言った言葉だった。
「よく覚えてましたね」
「俺、頭悪いけど、大事なことは忘れません」
『先生、ありがとう。ピン子、いま幸せ!』
ピン子が羽をばたつかせる。
ひよこだったはずの彼女は、もう立派な若鶏になっていた。
でも、その羽は──うっすらと、今でもピンクを帯びていた。
「その色、残ったんですね」
「はい。でもまぁなんか、ピン子らしいなって。過去の傷も、今の色なんでしょう」
その言葉に、胸が熱くなった。
ピンクのひよこが、ヤクザの心を変えた。
命は、ときどき、人より強く人を導く。
夕方、彼が帰ったあと、窓の外を見上げると、薄桃色の夕雲が流れていた。
あの色が、ピン子の羽のように見えた。
『先生、見て。きれいでしょ?』
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
「うん、きれいだね」
宗方動物病院の看板の灯がゆっくりと点く。
小さな命が、人の心をやわらかく照らしていく。
──命は、いつも、怖い時間を優しい色に変えてくれる。




