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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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カルテ8、野良犬とミュージシャン



 冬の入り口だった。

 吐く息が白く見えはじめた朝、病院の裏口に段ボールが置かれていた。

 濡れた新聞紙と、小さな体。


 その犬は痩せ細り、毛布代わりの濡れた新聞紙に張り付くように、骨が透けて見えた。


「先生、これ……」

獣医学生で姪の奈緒ちゃんが、震える声で箱を指差した。「生きてます」


 私はうなずいて箱を抱き上げた。

 その瞬間――


『さむい。……あのひと、どこ?』


 胸の奥に、声が落ちてきた。

 それは、言葉というよりも感情そのものだった。


「大丈夫。もう、ひとりじゃないよ」

 そう声に出して言うと、犬はかすかに目を閉じた。



 段ボールの底に、にじんだ紙が入っていた。


“この子をお願いします。名前はトムです”


 その字は震えていて、まるで泣きながら書いたようだった。



 トムは弱っていた。

 肺炎と栄養失調。

 点滴を打ち、酸素室に入れて、

 それでも呼吸の音がどこか悲しかった。


『……まだ、あのひとの歌、聞きたい』


 私は思わず手を止めた。

「歌?」


 犬が、歌を待っている。

 そんなこと、普通はありえない。

 でも、その声には確かな“想い”があった。



 三日後。

 その“あのひと”が現れた。


 ギターケースを背負った、痩せた青年。

 声はかすれ、瞳は夜みたいに深かった。


「この犬、トムって言いますか」


「ええ。あなたが――」

「飼い主じゃないです。……友達です」


 春樹と名乗ったその男は、ストリートで歌をうたっていたという。

 倒れた夜、トムが吠えて人を呼んだらしい。


「俺は助かって、こいつが……」

 声が途中で折れた。


 その瞬間、酸素室の中でトムが動いた。

『きた……! うた、きた……!』


 私は思わず息をのんだ。



 春樹は毎日のように病院へ通ってきた。

 古びたギターを抱えて。

 廊下の片隅で、小さな声で歌う。


 ねむれ トム

 暖かな風のなかで

 明日の夢を 見ていろよ

 君に響け 希望の音


 トムのまぶたが震え、尻尾がわずかに動いた。


『ここだよ。聴いてるよ』


 春樹はそれを知らない。

 けれど、私は聞こえていた。



「春樹さん」

 私はある日、思わず声をかけた。


「この子、あなたの歌を聴くと落ち着きます」

「本当ですか」


「ええ。不思議なんですけど……きっと、心でつながってる」


 春樹は少し笑った。

「トムは、俺の唯一の客なんです」

『そうだよ』

 その声に、私は少しだけ泣きそうになった。



 雪の日の夜だった。

 トムの容体が急変した。

 春樹が駆け込んでくる。

 私は酸素マスクを押さえながら言った。

「今、あなたの声が必要です」


 春樹は泣きながらギターを弾いた。


 行かないで、トム……

 もう一度だけ、歌わせてくれ


『ありがとう』

 その声は、ただの犬の響きではなかった。まるで魂が解放されたかのような、やさしい響きが、確かに私の中に届いた。


 次の瞬間、トムの体から力が抜けた。

 私は思わずその名を呼んだ。


『だいじょうぶ。おれ、先にいく』


 トムは静かに、笑っていた。



 翌朝。

 春樹はもう来なかった。

 窓辺のケージの上に、封筒がひとつ。


 “この子を、俺よりいい場所へ”


 短い手紙と一緒に、

 小さなピックが置かれていた。


 その夜、公園でギターケースだけが見つかったと聞いた。

 中には、錆びた首輪。

 刻まれた文字は──


 TOM



 埋葬の朝、私は土をかけながら、

 トムの声をもう一度探した。

 でも、何も聞こえなかった。

 風の音だけ。


「先生」

 奈緒ちゃんが小さく言った。

「この子、幸せだったのかな」


 私はスコップを止めて、空を見上げた。


『しあわせだった。だって、おれのうた、きこえたでしょ?』


 ──聴こえた。

 確かに。

 その声は、雪の光の中でゆっくり消えていった。



 夜、カルテを書きながら、私はペンを止めた。

「特記事項:この犬は、最期まで歌を聴いていた」

 それを書いてから、

 小さく付け足した。


「この子の歌は、終わらない」


 静かな夜。

 誰もいない診察室で、

 遠くからギターの音が聞こえた気がした。

 そしてそのあとに──

 あの声が、確かに重なった。


『先生。ありがとう』




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