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心声を聴く獣医 宗方つむぎのカルテ  作者: 真野真名


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カルテ1、ボス猫と女子高生



「しくじったなぁ。いてて……」


 そんな声を聞いたのは、診療所の裏手にある生垣の向こうからだった。

 夜の八時。雨上がりの濡れたアスファルト。

 誰もいない通りに、わたしの足音と、かすかに湿った土の匂いだけがあった。


 最初は、人間の声かと思った。けれど、どう聞いても猫の声だった。

 正確に言うと「猫の声」じゃなくて、「猫の言葉」だ。


 ――聞こえるんだよ、わたしには。動物の心の声が。


 父が死んで半年。わたしは父の遺した宗方動物病院を継いだ。

 正直、迷ってた。前の職場――市立動物園では、もっと大きな動物を診ていた。ライオンとか象とか。

 それに比べると、こぢんまりしたこの町の動物病院は、やたら人間臭くて、猫も犬もどこか人間じみてる。

 ――けど、こうして夜道を歩いてると、時々、父の気配がする。


 そして、こんなふうに「声」を聞くんだ。まるで誰かが導いてるみたいに。


 生垣をかき分けると、いた。

 薄汚れた、けれどどこか風格のある大きなトラ猫。

 片耳が欠けてて、尻尾は太い縄みたい。

 この辺りじゃ有名なボス猫、「グレさん」だ。


 「……グレさん?」


 近づくと、低い唸り声が返ってきた。

 だけど、それは威嚇じゃない。痛みに耐えてる声だった。


 「いてぇ……内臓、やっちまったかもな」


 猫のくせに、そんな言葉を吐くなよ、と思った。

 でも、わたしの手はもう動いていた。

 抱き上げると、重かった。いや、重いというより――ずしりと「生きる重み」が腕に伝わってくる。

 その瞬間、彼の体温と一緒に、心の声が流れ込んできた。


 『……助けなきゃ。あの子を』




 病院に連れ帰ると、すぐに診察台の上へ。

 レントゲンを撮るまでもなく、嫌な予感があった。

 腹部がパンパンに腫れている。

 エコーを当てると、内臓が破裂してるのがわかった。


「……こりゃ、やばいね」


 わたしは一人つぶやいた。

 看護師も助手もいない。閉院後だった。

 それでも放っておけない。父なら絶対、放っておかなかった。


 手術室の灯をつけて、麻酔を準備する。

「大丈夫。わたしがやるから」

 そう声をかけると、グレさんが薄目を開けて、口角をちょっとだけ上げた。

 まるで「おう、頼んだぜ」って顔だ。




 手術は三時間かかった。

 出血は多く、損傷も深い。

 けど、命の火はまだ残っていた。


「持ちこたえて、グレさん」


 わたしは心の中で叫びながら、最後の縫合を終えた。


 夜が明けていた。

 カーテンの隙間から、オレンジ色の光がのぞく。

 わたしは疲れ切って椅子に沈み込みながら、眠るグレさんを見つめた。

 点滴の管が静かに揺れている。

 彼の呼吸は浅いけど、確かに生きていた。


「どうして、あんなところで?」


 わたしの問いに、彼はゆっくりまぶたを開けた。

 そして、掠れた声が頭の中に響いた。


『……助けたんだ。あの子を』




「助けたって、誰を?」


『あの……女子高生。いつも何かしらくれる子。デブネコって呼ぶんだ。悪気はねぇ』


「デブネコ……ね」


『あの夜、公園で泣いててよ。バカな男に絡まれてた。怖くて動けねぇのが分かったから、飛びついたんだ。そいつの顔、ひっかいてやった』


「それで、蹴られたの?」


『ああ。けど、あの子が無事で良かった。痛ぇのは慣れてるしな』


 グレさんは、息を吐いた。

 その音が、やけに遠く聞こえた。

 その後、彼は少し笑った。――ほんの、ほんの少しだけ。


『……俺さ、あの子が笑うと、うれしかったんだよな』




 二日後、グレさんは静かに息を引き取った。

 夜明け前、わたしがケージの掃除をしているときだった。


「おはよう、グレさん」


 声をかけた瞬間、彼の体が小さく震えて――そのまま止まった。


 まるで、眠るみたいに。

 まるで、やっと安心できたみたいに。


 わたしはしばらく動けなかった。

 泣く代わりに、無言で毛並みを撫でた。


 指先に、もう温もりはなかった。

 だけど、不思議と静かだった。

 悲しいのに、どこか満たされてる。そんな夜明けだった。




 次の日。

 グレさんを埋めたあと、わたしは公園に行った。

 そこに、ひとりの女子高生がいた。

 制服のスカートの裾を握って、じっとベンチを見ていた。


 彼女の足元には、紙袋が置いてある。

 中にはカリカリとツナ缶。

 ……あぁ、君が、グレさんの言ってた「あの子」か。


 わたしは声をかけようとして、やめた。

 その顔が、あまりにも真っ直ぐだったから。

 まるで、何かを信じるように。

 彼女は袋の中のカリカリをベンチの下に置いて、つぶやいた。


「デブネコ、また来てね。ちゃんと朝に来るからさ。夜は危ないから、約束ね」


 わたしは立ち尽くしたまま、何も言えなかった。

 その子の横顔が、少し笑っていたから。

 泣いているようにも見えたけど、たぶん違う。

 あの笑顔を、グレさんは守りたかったんだ。




 その後ろ姿を見送りながら、ふと思った。

 父も、こうやって動物たちと人の間に立ってきたんだろうな、と。

 ただ「治す」だけじゃない。

 命のやりとりの中に、心のバトンがある。


 グレさんからあの子へ。

 あの子の笑顔から、また誰かへ。

 そうやって、小さな優しさがつながっていくんだろう。


 その朝、公園の風がやけに心地よかった。

 ベンチの下に置かれたツナ缶が、朝日に光っていた。

 そして――どこかで、低く渋い声が聞こえた。


『……おい、ツナは嫌いじゃねぇけど、できれば焼きカツオがいいな』


 わたしは思わず吹き出した。

 声の主は、もちろんもういないはずのボス猫、グレさん。

 でも、聞こえた気がしたんだ。

 あの、ちょっとすねたような声が。




 宗方動物病院の看板には、父の字がそのまま残っている。


 “宗方動物病院――命と心をつなぐ場所”


 その言葉の意味を、ようやく少しだけわかった気がする。


 ――そう、動物と喋るってのは、便利な能力なんかじゃない。

 痛みを分け合うこと。

 そして、誰かの「思い」を、次に渡すことなんだ。


 わたしはカルテの端に、そっと書き加えた。


「グレさん――ありがとう。またどこかで」









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