二節
「エリス、いいのかい?」
フォルスが門を出た後、ふくよかな体型の使用人がエリスの顔を伺い見る。
「ええ。フォルス様はこの国を守るのが務め。私達はあの方が帰るべき、この場所を守るのが務め。だから、ここで見守っていたいんです」
「私達ねぇ。ふぉふぉふぉ。本音は『私』じゃないのかね?」
老齢の割には背筋が真っ直ぐ伸びた執事が白くなった顎髭をさすりながらエリスをからかう。その言葉に頬を赤くするエリスを見て皆が笑い出した。いつものように我らの主は帰ってくる。ご無事を祈ります。彼等の思いは一つとなり、皆が誰ともなく祈りを捧げていた。
ヘクターは傍に居た年頃の娘を片腕で軽く抱きかかえ、即興で支離滅裂な歌を口ずさんでいる。この男は戦場と夜の盛り場での武勇伝に事欠かない。そんなヘクターの歌に合わせて陽気に歌い踊り出す兵と市民達。
その先頭には平和な笑顔のフォルスが黒馬に揺られながらゆったりと進む。黒狼団の行進は王都の外門まで続き、門外にて待機していたアルセニア王国軍の一団を率いる銀色の鎧に身を包んだ騎士の前で止まった。騎士の背後には残りの軍が整然と並んでいる。草の匂いを含んだ風が頬を撫で、朝露の残る草が軍靴を湿らせる。静寂に包まれた厳かな雰囲気の中、兵達の視線がフォルスに集まった。
「やあ、ヴォルト殿。待たせたな」軽く右手を振り、フォルスは目の前の騎士に挨拶をする。
ヴォルトと呼ばれた大柄な騎士は、ヘクターに比べるとやや小柄となる。茶味がかった髪を短く刈り上げ、彫りの深い顔からは穏やかな目がのぞく。雷光を模した兜を鐙に提げ、隙間なく鉄片に埋め尽くされた重鎧を着込んでおり、関節部などからは鎖帷子がみえる。背には巨大な楕円形の盾を背負い、両腰には鈍く光る戦棍が提げられている。跨る馬はその重量を支えるのに十分な巨馬で、馬用の重鎧で覆われている。この馬は名馬としても名高い。彼の名はガイウス・ヴォルト。国軍の将軍であると同時に、代々ボルウェイ近隣の、王都からすれば最終防衛線ともいえる要衝の守護を務める貴族でもある。その用兵は粘り強く、堅実で無駄のないことで定評がある。戦場での指揮経験も豊富で、フォルスが最も信頼する友であり武人の一人である。
「おはようございます、フォルス殿。今日もまた賑やかな出陣ですな」
「はは。地獄への門出だ。景気よくいかないとね」
「ふふ、願わくばザルディンの者にとっての地獄でありたいものです」
「あぁ。連中が二度と妙な気を起こさないよう、徹底的に叩くさ」
「ええ。あの戦い――リュクセンの奇跡の再来を」
「また”それ”か。なるようにしかならんよ」
「では、なるようにしていただきましょう。貴殿にはそれが出来る」
「ふぅ。何を根拠にそのような――」
「リュクセンの奇跡が根拠です」ヴォルトの言葉にフォルスは溜息で答えた。しかし反論はせず、ゆっくりと空を見上げ、みつめる。
リュクセンの奇跡。反ザルディン同盟瓦解後、報復を恐れた同盟諸侯は各々の所領へと急ぎ撤退を始めた。その追撃軍を指揮したのがザルディン帝国軍大将、ガーウィン・ヘルシュタット率いる一軍であった。このときガーウィン子飼いの白銀軍と呼ばれる精強な重装騎兵隊による、圧倒的な突撃力を誇る猛追撃により、名だたる反ザルディン諸侯や武将達は、大波にさらわれるかのように打ち砕かれ、押し流され、次々と戦場の露と消えていった。当時、国境の都市リュクセン郊外まで撤退していたアルセニア軍も当然の如く、ガーウィンの追撃軍の猛攻を前に全滅の危機を迎えた。
その危機を救ったのがフォルスの策であった。まずは自軍背後にある、リュクセン西方の草原に火を放ち、兵達の退路を断った。それもザルディンの殲滅作戦であるというデマを流したうえで。実際の追撃軍の戦術は、あえて退路を残し突撃を繰り返し、ナイフで果物の皮を削いでいくように戦力を損耗させ、機を見つけた瞬間に総攻撃を掛けるというものであった。火を放ち退路を断つようなことは決してしないのである。それでは相手も必死に抵抗するということをガーウィンは十分承知していたし、当然警戒もしていた。
相次ぐ快進撃のため、ザルディン軍全体に油断もあった。しかし決定的であったのは、草原の大火事を目の当たりにし、軍馬が火を見て怯えだしたことにある。重装鎧を着ている者にとって落馬とは生命の危機を意味する。精兵として名高い白銀軍であっても同じである。彼らが馬を宥めようと気を取られたとき――追いつめられたアルセニア軍が倍増した怒りの火を、憎しみを糧として爆発させ、業火の如く攻め立てた。そして火と敵襲に混乱した白銀軍にそれは起きた。ヘクター率いる黒狼団の一群が側面から猛突撃を敢行したのである。このときの被害は甚大であり、ザルディン軍は潰走。ガーウィンはこの戦闘で自身の親友であり腹心の将である、ブランドル・ザルツァを失った。アルセニア軍は悠々と焼け野原を後に引き揚げた。二年ほど前の話である。
この功と、その後幾度かの小規模な戦いを勝利に導いたフォルスは、殆ど無名な存在から一気にアルセニアの英雄として同胞からは讃えられ、敵からは魔術を使う「黒狐」とさえ呼ばれ恐れられる存在となった。
「ま。やるしかないんだけどな」暫く眼を閉じ、風を感じる。
そしてフォルスは静かに眼を開き、腰に差した片刃剣を音もなくゆっくりと引き抜く。それに合わせてヘクターは幅広の剣を、ヴォルトも戦棍を腰から引き出す。三人の得物は円陣の中央に差し出され、フォルスの剣の下に切っ先が折り重なる。
「我らが目的はただ一つ」
凛とした、深い声でフォルスが静かに、ゆっくりと叫ぶ。下に向けた剣を流れるように天にかざし、ヘクターとヴォルトもそれに続く。全員の視線が太陽の洗礼を受けたフォルスの剣に向けられた。
「ザルディンを此の地から排除することに在り!」
辺り一面に響く透き通った声でフォルスは高らかに宣言した。その声に続き戦士達と、彼らを見守る民衆達の歓声が大地を揺らす。アルセニア軍の士気は最高潮となり、緊張と恍惚、誇り高い意志が、戦士達の表情に漲っていた。
「ガーウィン。この戦いでお前を、潰すぞ」頭上に掲げた剣先を見つめながら、黒衣の将は心中で静かな決意を呟いた。




