三節
アルセニア軍の先制攻撃開始より少し前。
ザルディン本陣ではガーウィンとアレイオスが馬上より自軍の陣を眺めている。白銀の甲冑に身を包んだアレイオスが、白銀の彫像を想起させる、威風堂々たる主に語りかける。
「ヘルシュタット様、敵陣が慌ただしくなってまいりました」
「うむ。アルセニア陣に動きが見られるな。こちらも例の作戦通り、先陣を配するとしよう。ヘンツェめ、肝を冷やすだろうな」
「間違いなく。あの方は小心ゆえ、細心の注意を払い、怠りなく手を回しますが、こればかりは予想外のことでございましょう。なればこそ、その驚きもひとしおかと」
「どう出ると思うか。まさかいつまでも黙っておられるような男ではあるまい」
「わたくしも、黙っておられるような方だとは思いませぬ。ただ、今回の一手についてはどうにも文句のつけようがないかと。精々、苦情らしきもののひとつやふたつ、云ってくる程度でしょう。その後の動きが気になりますが」
「その後、な。さてどういう手を打ってくるか。お手並み拝見というのも悪くない。楽しませてくれるとよいがな。小心者というのは侮れぬが、手の内を正確に推し量れば恐れるほどのこともない。余興としてはこれほど愉快なものもあるまい」
「かといって、油断は禁物でございます。狂犬を飼っておることですし」
「ふむ。蛇眼か。奴の身元は洗えたか?」
「今暫く時をくださいませ。外見や言葉の訛りなどから、南東都市国家群の出身ではないかと予想はされますが、どの国の者か、また身分などは、調査中でございます」
「なるほどな。蛇眼を押さえればヘンツェの動きはかなり制限される。任せたぞ」
「御意」
「ではそろそろだな。先陣に赴き、例の奴の左を守るがよい。ここで奴に死なれてもらっては困るからな。それに父と馬を並べるのも一興だろう」
「は。ザルツァ様と馬を並べるということはともかく、あの御方の護衛、しかと承りました」
「まだそんなことを云うか。頑固者め。ふふ、好きにせい。だが役目を忘れるなよ」
「畏まりました。それでは、参ります」
そう言い捨てると、、アレイオスは愛馬に鞭をいれ小高く土を盛られた陣地を駆け下りていく。その後ろ姿を目で追いながら、ガーウィンは呟いた。
「張り合える親父がいるということは、素晴らしいことなのだぞ。アレイオス」
ザルディン軍先陣隊の陣地では、既にイーデンと、もうひとりの人物が馬を並べていた。イーデンの人馬を覆う深紅の甲冑が異彩を放ち、その傍らでは色鮮やかな群青の甲冑に身を包んだ騎士がいる。
「ぬっふふ、ヘンツェめ、肝を冷やしておるだろうなぁ。あ奴は名誉とかに執着が強いからのぅ」
「ザルツァさんよ、こりゃ笑い事じゃねぇって」
「ほほぅ、笑い事にも値せぬと申すか。ふはははは! 剛毅、剛毅!」
「いや、だからですねぇ、ヘンツェはマジヤバイんですって」
「若いくせに何を恐れておるか。恐れを知らぬのが若さの特権だろうに。そうは思わんかね。ヴィンクラー殿」
「ぬはっ、そんならあんたのほうがよっぽど若くみえますよ! だいいち、これが宰相にばれたら、また陰湿な小言をですね――」
「ヴィンクラー。儂の好きなものが三つある。教えてあげようか。一つ目が、家族じゃ。二つめは、戦場。そして三つ目が、あの陰険爺の悔しがる顔よ! わははははは!」
「こ、こえぇ……」
イーデンの豪放磊落な態度に、改めて畏敬の念を抱きつつ、萎縮するヴィンクラーを他所に、当の本人はひとり呟いた。
「まったく。レンバッハのクソ爺め。甘やかしすぎなのだ」
これまでヴィンクラーは宰相の庇護のもと、宮中に入り浸り、貴族の子女と浮き名を馳せることに勤しんでいた。所属は近衛兵団に属し、天分もあってか剣の腕をあげ頭角を現していったが、帝都警護の軍団に属しているという立場上、戦場というものを知らない。若さゆえ有り余る生命の奔流の行き場は、訓練か女であった。そして自然の流れとして女の尻を追うことになった。
「まぁよい。このイーデン・ザルツァが鍛え直してやるわ」
丁度その頃、ヘンツェの陣に伝令が到着した。椅子に腰掛けたヘンツェは赤い果実酒の入ったグラスを右手に持ち、脚を上下小刻みに揺らしていた。振動により、グラスの表面は波打ち、机も僅かながら揺れている。その様子を、側近が眉を顰めながらみつめている。
「伝令! 先陣を担当する方の情報が判明しました!」
「おぉ、きたか。では準備に――」
人の気配に驚き一斉に飛び立つ鳥の群れのように、椅子から勢いよく腰を浮かせたヘンツェに、伝令兵は恐る恐る口を開く。
「あ、あの……ヘンツェ様。それが、先陣は――」
「ん? どうした。何かあったのか」
落ち着きなく、それでいてにこやかな表情で答えるヘンツェに返す言葉を躊躇う伝令兵は、しかし己の職務を忠実に果たそうと、言葉を継げる。
「は。それが、先陣はヴィンクラー様の隊となったようでございます――」
「なに! ヴィンクラー? どういうことだっ! 序列、実力共に諸侯のうちでは私以外に適任などいないはず。なのにあの若造だとっ!」
「お、恐れながら、もう一点申し上げます。ヴィンクラー様の脇には、ザルツァ将軍と赤竜軍も共におります」
「ぬぬ! そういうことか――」
歯軋りし、いまにも地団駄を踏みそうなヘンツェに、ティツィアーノが声を掛ける。先ほどまで陣の外で部下と打ち合わせをしていたのだが、ヘンツェの剣幕に何事かと出てきたのである。
「よう、ジークベルト・ヘンツェ殿。何かあったんですかい?」
「む。フランコ・ティツィアーノか。大ありだ」
「先陣がヴィンクラー坊っちゃんになったってことですかい?」
「なんだ、もう知っておったのか。ならば何故教えなんだか!」
「いやいやいやいや、そりゃ濡れ衣ですぜ。あんだけ大声で怒鳴ってりゃ、本国にいても聞こえるってもんでさ。で、なんで坊っちゃんが先陣だと問題なんです? 事情を知らない余所者としては、気になるんですよ」
鷹揚な雰囲気で語りかけるティツィアーノの態度に、ヘンツェは冷静さを取り戻していった。ティツィアーノは、こういった何気ない所作で人の心を操る術を心得ていた。その腕前は術中に嵌った者が、そのことに気付かずに誘導されていることが多々あるというほどの域にまで洗練されていた。