八節
朝靄も明け切らぬ頃、ザルディン本陣が俄に慌ただしくなってきた。空気の異変に思うところのあったガーウィンとアイードの主従は互いに目配せをする。それまで撓んでいた糸が一気に張り詰める。複数の、金属と布がそれぞれ擦れ合う音が段々と強くなる。「敬礼っ!」という勇ましい声の波が、押し寄せてきた。それは身分高き者達、畏敬の対象となる者達の訪れを意味した。そして伝令が貴人の到着を伝えた直後、彼らは現れた。
「おぉぉ! ヘルシュタット卿! 久しいですなぁ。それにザルツァ卿も! これはまことに素晴らしい! 帝国軍西方軍団の雄が揃い踏みと相成っておるのですからなぁ。此度の戦、もう勝ったも同然ですな。これで負けるような者など、帝国貴族とはいえますまい。いやぁ、しかしまことに、まことに素晴らしい!」
こういって訪れた小柄の男は、ジークベルト・ヘンツェ。帝国軍中将である。古くからの名家であり、皇帝の姻戚でもあるヘンツェ伯爵家の当主でもある。男は巻き毛の鬘の金髪と口髭を弄びながら、総大将であるガーウィンと副将アイードに声を掛ける。その声は甲高く、地に足の付いていないような印象をガーウィンは常に抱いていた。
「む。ジークベルト、遅かったではないか。大将であるヘルシュタット殿はとうに布陣を済ませておるというのに、なんだその体たらくは。貴様、己の立場について自覚はあるのか!」
「ははは、ザルツァ卿。そう興奮なさらずに。実はですな、此処へ参る途中に反乱軍に襲われましてな。いやぁ、もう見たくないものを見せられて気分最悪でしてね」
「なにが気分最悪だ。たかだか反乱軍で泣き言をいうとは、貴様も落ちぶれたものだ。既に敵領深く切り込んでおるのだ。襲撃のひとつやふたつ、予想もつくだろうに」
「いやいやいやいや、そうではない、違うのだ。こいつが……」
といってヘンツェは後ろを振り向くと、全身傷だらけの身体と不釣り合いな細面で鋭い目つきの優男が顔を出す。
「お初にお目にかかります。ヘルシュタット様、ザルツァ様。わたくしはフランコ・ティツィアーノ。ヘンツェ様と契約している傭兵隊の隊長でございます」
「ティツィアーノ? 聞かぬ名だな。ヘルシュタット卿、ご存知か? ――問い掛けられたガーウィンは目配せで知らぬと答える――……ふむ。知らぬとみえる。ジークベルトよ、また訳の解らぬ者を連れ歩きおって。酔狂も大概にせいよ」
「ザルツァ様もなかなか手厳しいですな。蛇眼のティツィアーノといえば少しは名が売れたと思いましたが、まだまだのようですね。今回の戦では、存分に槍を振るいますゆえ、是非ともお見知りおきを」
首を傾げ、おどけた身振りをしながらティツィアーノは答え、恭しく礼をしたあと、後ろに引き下がった。このとき、彼の『蛇眼のティツィアーノ』という言葉にアレイオスが反応した。隣でその雰囲気を察したガーウィンにアレイオスが耳打ちする。
「蛇眼のティツィアーノ……、あれは危険な男です。というよりも狂っています。お気を付けください」
「使えるのか」
「使えます。ただ、使い”こなせる”保証はありません」
「そうか。ならばいい。使えるだけで十分だ」
「畏まりました」と軽く礼をするアレイオスに視線を移すことなく軽く頷き、ガーウィンはティツィアーノを一瞥し、ヘンツェに視線を戻す。
「こいつは大した趣味の持ち主でしてな。捕らえた反乱軍の者どもを生きたまま串刺しにし、股を割き、皮を剥いで焼き鏝を当てたり、火で炙ったり……とてもじゃないが耐えられる代物ではなかったのだ」
「ふふふ、見せしめですよ。そうやって恐怖を植え付けておけば、連中も無闇矢鱈と騒ぎ立てたりしないですからね。同時にこちらの軍規も引き締まるというもの。我ながら有効な策だと思いますがね……それにヘンツェ様も、お楽しみであったご様子に見えましたよ。とくにほら、美しい娘の苦しむ顔を見るとき、断末魔の叫びを聞くときの貴方様のお顔ときたら……」
「しっ! 声が大きいぞ」と小声でティツィアーノを叱るヘンツェに対し、本人は悪びれる様子もなく口元を歪め頭を下げる。イーデンは呆れた様子で側近のゴルドスと目を見合わせ、ガーウィンは冷め切った鉄の眼差しをヘンツェに向けていた。
「まぁ、よいではないか。なかなか面白い余興であったしな。アルセニア陥落の際は、また見物よ。ティツィアーノとやら。励むがよい」
そう後ろから声を掛け、でっぷりと突き出た腹を揺らしながら前に出てきた禿頭の男はアンゼルム・シュタムラー。帝国軍少将であり、謀略により子爵まで成り上がった野心家である。飽食と暴飲によって嗄れたかのような声が場に新たな音を加える。賛同者の支援を受けたティツィアーノは眼を細め、シュタムラーに一礼する。