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ボルウェイの雫  作者: 風間 淡然
一章 夜空
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一節

 漆黒の一団が戦場を駆け抜ける。土煙をあげながら、馬蹄が大地を叩く。

 敵も味方も関係なく、彼らは一直線に突き進む。生を穿つ、死の直線。剣も槍も鎚も矢も、その暴威の前に無力だった。眼前に立ちはだかる白銀の騎士達を除いては。




 聖歴一二七〇年五月初頭。プラテュス大陸中央に覇を唱える、広大な領地と相応の強大な軍事力を誇る大国、ザルディン帝国軍五〇〇〇〇が、肥沃な大地の恩恵により西方の雄として君臨する、アルセニア王国国境に進攻を開始した。

 迎え撃つはアルセニア王国軍二〇〇〇〇。率いるは策士として名高いフォルス・シュレーゼン。フォルスが決戦の地として選んだのはボルウェイ平原である。此の場所は大軍を迎え撃つに適した広い平原であり、周囲をドナイの森に覆われ、伏兵を潜ませる事もできる。西側背後には見通しの良いカルタス台地があり、陣を張れば足下に敵陣を一望することも可能である。台地の中央には峻険なサイフォス山脈が聳え、軍隊の通行は不可能となっている。

 カルタス台地を更に西に抜ければ王都アルセニアは目の前。教皇の仲裁と内部の裏切りで反ザルディン同盟瓦解後、この日がくることを予想していたフォルスは、国王に戦争回避のための策を上奏しつつ、長大な木柵をアルセニア側からボルウェイ平原手前に築き、いくつかの策を仕掛けておいた。

 実は反ザルディン同盟瓦解の原因となった教皇の仲裁と内部分裂は、ザルディンの政治工作の結果である。その政治工作の指揮を執ったのが、今回ザルディン軍を率いる名将、ガーウィン・ヘルシュタットである。


 聖歴一二七〇年六月下旬。アルセニア軍本隊は決戦の地にザルディン軍が来るのを待ち構える。その為に敢えて有利に戦える地までザルディン軍を誘導し、地方貴族達の私兵や義勇兵達によるゲリラ戦を展開させ、時間稼ぎと物資の消耗を強いた。その戦術は決して正面から戦わせず、進んでは退くことを繰り返し、アルセニア領深くまでザルディン軍を誘導するものだった。その間、アルセニア本国では王国軍本隊が決戦のために厳しい訓練を続け、戦力を温存していた。それがアルセニアの策と知りながらも、ザルディンの将、ガーウィンは正面から叩き潰し、着実に軍を進めていった。


 聖歴一二七〇年七月初頭。王都アルセニアの貴族区にある、威厳を備えつつも簡素な三階建ての居館のバルコニーに彼はいた。引き絞られた肉体を革製の黒衣で包んだ、耳が隠れる程伸ばされた黒髪と、深い闇を映した静かなる黒瞳の男は、一点の曇りもない夜空を見上げている。星々が瞬き、月が淡い光で屋敷と男を包み照らす。


「明日あたり、降りそうだな……」感情の見えない、低い声がした。


 人の気配を感じた男は、振り向き開け放った窓から灰色の刺繍の入った毛の長い絨毯の上に足を踏み入れる。燭台に照らされた部屋の中央に、女が歩み寄る。腰まである艶のある黒髪を下げた細面で顎の線がなだらかに流れる整った顔立ちをしている。その睫毛は深く澄んだ意思の光を湛える瞳を覆うように豊かに生え揃い、その肌は月明かりのように白く肢体はしなやかな強さを感じさせる。白く柔らかい生地で編まれた長衣の上には、やや頑丈な素材で編まれた清潔感のある白いエプロンを掛けている。足には白いサンダルを履き、頭髪は邪魔にならないよう、白いリボンで留められている。女は繊細な生き物を思わせる指で盆から陶器製のポットを音を立てずに目の前の卓に置くと、同じく盆に載せられた陶器製のティーカップと皿も音を立てずに卓に置いた。丁寧でありながら流れる一連の動きによって器に静寂と共に紅茶が注がれる。そして皿に載せたティーカップを差し出しながら、女は穏やかな声で男に語りかけた。


「フォルス様、こんなに星の綺麗な夜空なのに、どうしてそう思われるのです?」凜とした深みのある、落ち着いた声が部屋に響く。


「あぁ、エリスか。なんでだろうな。空気が妙だから、かな。それとな、昨日会った猟師の爺さんが言ってたのさ。今年は来るかも知れないってね」ティーカップを受け取り、紅茶を口に運びながらフォルスは答える。熱い液体が喉を通過し、身体を温めていく。


「今年は来るって、何がです? ここに私たちが住んでもう五年くらいになりますが、特にこの時期は天気が良いではありませんか。今年も雨が降らなくて困るって、昨日も使用人同士で話していたくらいですよ」盆を抱きかかえたまま、エリスはにこやかに話す。


「そうだよな。それがさ、聞いてくれよ。なんでもその爺さんがいうには、この天気の良い季節にでかい雨が来ることがあるらしいんだ。どうかしたら渇水になりそうな、この季節にだ。面白い話だよな。だから憶えているんだとさ」


「まぁ。だったらどうしましょう。乾物とか片付けておかないといけませんね。洗濯物もお外には干せませんから、お部屋で干すことになるのかしら」


「ふふふ、そうだな。そうしておいてくれ」


 いつもと変わりのない会話をしながら、ふと目が合う。そしてほんの僅かな沈黙が二人を包んだ。


「――勝てます、よね?」


「うん。そうしないと怒られるからな。ガキの頃から怒られ慣れてるが、あれはあんまり気分のいいもんじゃないんだよ」


 笑いながらフォルスは答える。その自然体の言葉と笑顔に、エリスも笑っていた。およそ主らしくない態度であるが、しかし彼女の主のそういうところが、彼女にとってはとても愛しく思えた。


「うふふ。誰に怒られるんですか?」


「君は怒らないか?」


「え? 私が? そんなことはありません。それとも、フォルス様は私がそんなときに怒るような人間だと思うんですか?」


「ははは、つまみ食いしてるときのようにはいかないか。よく怒られてたからな。じゃあ、執事だ。あいつなら怒りかねない」


「かもしれませんね。でもあの方だったら、逆に泣いてしまうかも知れませんよ」


「監督不行届ってことでか? あはは、確かにそうかも知れんなぁ」


「では執事様のためにも、勝っていただかないとなりませんね」


「それもなんだかな。おっさんを泣かせないためにというのも、色気がないよ」


「まぁ。そんなこと仰ると、執事様が本当に泣いてしまわれますわよ?」


「そりゃ困る。じゃあ内緒にしといてくれ」


「さて。どうしましょう?」


「やれやれ。目の前に一番の強敵がいるようだ」


「ふふ。ならば勝ってください。そして必ず、生きて戻ってください。でないと怖いですよ?」


「ちょ、やっぱり怒るんじゃないか。勘弁してくれよ」


「怒るとは限りません。女の涙も怖いものですよ」


「はは、それは確かに。男はそれにゃ弱い。なら勝たないとな」


「ええ。勝ってください。でもそれ以上に無事に戻ることです。いいですね?」


「おう。善処するよ」


「いえ、約束です」


「それはできん」


「約束してください」


「だから……! くそっ。君は私に嘘つきになれっていうのか?」


「いいえ。約束してくださるだけでいいんです。その約束が、思わぬ力を生み出すこともありますから。私と、神さまに約束してください」


「君だけじゃないのか。しかも、神、か。それも厄介だな。神に嘘などつけんよ。唾吐くことはしてもな」


「もう、なんて方! そんなこともダメです! もし嘘をついたときは私が、神さまに赦してくださるよう、とりなしの祈りをいたしますわ。ですから、約束してください!」


「わかった、わかったよ。約束だ。無事に戻る。そして勝つ。それでいいか?」半ば自棄になりながら、フォルスはエリスに背を向けて手を振り答える。


「はい。それで結構です」そう云ってエリスはフォルスの面前へと素早く回り込み、月明かりのように柔らかく神々しい笑顔を返す。その笑顔を向けられたフォルスは顔を背け、頭を掻いた。


「やれやれ。女は怖い。ガーウィンのほうがまだマシだ」そう呟き、空になったティーカップを卓の上に置いた。かちゃり、と音がした。

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