一夜限りのトロフィーワイフ
美しさは華ではなく、的になる。
「やすみこ、今日は大極殿の広間だって。あれ、どうしたの? 手元が震えてるよ」
「震えるに決まってるでしょ。こんな顔、視線を呼び寄せるだけなんだから」
都に上って三年。
父は「家の誉れだ」と言って私を宮中へと送り出した。けれど、采女になったその日から、私は嫁ぐという道を失った。外の男との会話は論外、文を交わすことすらできない。ここでの喜びも悲しみも、御所の壁の内側で完結する。
朝は庭を掃き、昼は香を調え、夕刻には器を並べる。
夜、御前に上がるのは高位の女官たち。私たちは御簾の影で燭台を整え、音だけで雅を想像する。琴の爪弾きが始まると、香の煙が細く揺れ、私の手元の火がかすかに明滅する。
今晩は月見の宴が催される。朝廷の高官が集まり、酒を飲みつつ満月を愛でる、はずなのだが……。
同僚が笑い、別の子が肩で私を小突く。
「だよねぇ。月より酒、じゃなくて、月より女って感じだもの」
満月に洗われた広間は白く冴えている。けれど光が照らすのは盃ではなく、私たちの頬や襟元だ。男たちの目は月を素通りしてこちらに落ちる。
「でもまあ、美人もここじゃ割に合わないよ。どうせ嫁ぎ先なんてないんだから」
「ね。羨ましいのに、意味ないね」
笑いながら言って、少しだけ目を伏せる。笑いの奥に、私たちは皆、同じ諦めを知っている。
なぜなら采女は結婚禁止。一生を宮中の下級女官として雑用をこなす運命なのだ。
その晩、私は御簾前の上手に近い卓の給仕を初めて務めた。
燭台を置き、盃台を角の位置に合わせる。ふと顔を上げると、上手の列に、背筋の伸びた男がいた。
中臣鎌足。
名前は前から知っていた。遠目には幾度も見た。けれど、こんな近くで横顔の線を確かめたのは初めてだった。
視線が一瞬だけ重なり、私は慌てて目を伏せた。
視線が怖い。こちらが「見る」のではなく、「見られる」側なのだと、あらためて思い知った。
そして視線は御簾の手前で渦巻いた。
節会の日などは、皇子や高官の目が、女官の列をゆっくり撫でる。
もちろん、誰も近づかない。規がそれを許さない。だからこそ、覗き見のような視線だけが、やけに濃い。
後宮の御方の中にも濃淡がある。
年長の御方は、ときに私の襟元を直し、肩に薄衣を掛けてくれた。殿方の視線が強い夜には、「ここでよい、後ろにさがりなさい」と位置まで替えてくれる。
同じ年頃の御方は違う。私が配膳に寄ると、扇でそっと道を塞ぎ、「光が取られる」と小声が走る。
やがて女房頭がその御方の指示を伝えてくる。「やすみこは倉の方で香の支度を」
私の名は静かに外れ、持ち場は倉の陰へと移るのだ。
その繰り返しで知った。美は盾にも矛にもなる。守られる夜もあれば、刺される夜もあるーーこの夜は、前へ出ろという夜だった。
給仕の帳を改めると、私の名が一行、上座側へ寄っていた。
月はまるく、盃は満ちる。答えはまだ、香の煙の向こう。
ー ー ー ー ー
それは満月の夜だった。
私は「鎌足の妻となれ」と命じられ、その場で御用の車に押し込まれた。
祝言の支度も、仲人の往復もない。道は慌ただしく開き、使いが走り、誰かが小声で「急げ」と言う。
事情は知らされぬまま、私はひとり置き去りの花嫁だった。
鎌足邸の大広間は人で埋まり、松明とかがり火、燭台や油皿の灯がせわしなく揺れていた。
やがて天智天皇が仰せになる。
「中臣鎌足に藤原の姓を与え、大織冠を授く」
後で知ったことだが、大織冠は人臣の冠位の頂で、前例のない授与だった。
だからこそ、天皇の家臣たちがどっと息を吐き、喜びの声を上げたのだ。長年の功に報いる最期の恩賞。誰の目にもそう映っていた。
夫となる男は、天皇の御前で涙をこぼして喜んでいる。
私は祝いの品が並ぶ卓の横に、ひとりでぽつねんと座らされている。
声は許されない。帳に名が一行、妻として書き替えられる筆の動きが、私の身分を決めていく。
胸の内でだけ、私は拍手をした。
めでたし、めでたし。鎌足様の人生という物語は、この瞬間、有終の美を飾ったのだ。
大織冠、新しい姓「藤原」、そして仕上げに「若くて綺麗な女」。
それは彼にとっての祝福であり、私にとっては虚しさでしかなかった。
夜が更ける。御寝所の帷の内に鎌足と二人。私は初夜を待つ。
襟元に指をあてると、汗ばんでいた。衣擦れがやけに大きい。呼吸が浅くなる。
同じ寝床が片側からそっと沈み、肩先に体温が近づいた。
齢五十五の手が、十八歳の私の手にそっと重なる。その掌はざらざらと荒れていた。
「やすみこ……」
かすれた声が続く。「宴で給仕していたそなたを、灯の向こうで一目見た。あの夜から、忘れられなかった」
胸の奥がきしむ。あのときの火の揺れと、いま目の前の灯が重なる。
夫は、私の手を握るだけで満ち足りたように目を閉じた。
初夜は来なかった。隣で眠る男の息は浅く、間を置いて細く戻る。
(……助かった)
最初に来たのは安堵だった。張りつめていた肩の力が抜け、喉の奥から小さな息が漏れる。
突然、知らぬ男の妻となっただけで、子を成す行為の覚悟はなかった。
痛みも、血の証も、今夜はない。掌はまだ汗ばんでいるのに、背中のこわばりだけが少しずつ溶けていく。
だが、そのすぐ後ろで違和感が顔を出す。
(待って。初夜がなくて本当によかったの?)
私は今日、妻と記された。それなのに、契りはない。私の身体は避けられたまま、触れられもしない。
思いは意味を帯びる。
(飾りであって妻ではない、のね)
陛下から下賜されたという名誉を得るだけのお飾り。妻ではないから、子を成すことを求めない。
妻と言うなら、精を放ち、子を望むのがこの世の理。
それをしないということは――私を人としてではなく、名誉の産物として置くということではないか。
帳に書かれた一行のために、私はここへ運ばれ、寝所でも置物であり続けるのか。
(ふざけるなっ!)
底から、怒りが湧き上がる。
今日、私は妻とされた。今、私は触れられないままに妻であることを強いられている。越えさせぬ一線を前に、私だけが黙って妻のかたちを演じるのか。
ならば覚えておけ。この理不尽は、私の中で形を変える。沈黙は刃に、笑みは毒に。
灯が短くなり、影が頬を深くなぞる。怒りが静かに煮え立ち、腹の底に黒い澱が沈んだ。
明け方、鳥が悲しげに鳴いていた。
肩に触れて呼ぶ。応えはない。胸に耳を当てても、鼓動は戻らない。
侍医が来て、瞳を伏せ、静かに首を振った。
その瞬間、祝言は終わり、終焉だけが残った。
――鎌足様の人生は、完璧に幕を閉じた。
完璧という言葉が、これほど冷たい夜はなかった。
私は昨日、嫁ぎ、今日、未亡人になった。
ー ー ー ー ー
香の煙が重く垂れ、柩の前で読経が止む。葬儀の堂に、式を司る官人の声が響いた。
「故・藤原鎌足卿の御遺歌――」
【我れはもや、やすみこ得たり、皆人の、得がてにすとふ、やすみこ得たり】
詞は美しい。前列の男たちは小さく頷き、女たちも意味を飲み込んで目を細める。
――わからぬのは、私ひとりであった。
脇の若い官人が気取り顔で囁く。
「つまり――やすみこ様を得た喜びを詠んだ歌にございます」
ご親切なこと。賜わった藤原の氏と大織冠、ついでに女も、と歌うのですね。
それを葬の席で言い立てる必然が、私には到底理解できない。
やがて、ざわめきの色が変わる。男たちの声が耳に刺す。
「よき最期よな」
「腹上死とは、さて羨ましい」
「しかり、あの若い躰を抱いて果てられたとは、男冥利よ」
視線が、私の顔から襟元、指先、腰つきへ、生身を値踏みする目で這う。
――吐き気が込み上がる。私を人ではなく、寝所の道具として眺める目だ。
ここでも、美は華ではなく、的でしかなかった。
だが、さらに厄介なのは女たちであった。
彼女らは人として私を見る。ゆえに、存在そのものを脅威と取り、不快と怒り、そして嫉妬を隠さない。
遺歌のあと、刺はいっそう鋭くなる。
「天恩を蒙られし御方。粗略にはいたせませぬ」
「一夜を共にされた由。もし御身ごもりなどあらば、いかが家中の序を立て直すべき」
「鎌足様の男児は不比等様ただお一人。万一、御腹に男子でもお宿しあれば、序は改まりましょう」
言い回しは上品、されど刃だ。嫉妬の芯が熱を帯びている。
(いいでしょうとも。勝手にやきもきしていなさい。見えもせぬ影に怯えていればいいわ)
――それに、秘密を教える気もない。手を握られただけだとは。
ふと、黒い考えが胸をよぎる。
(この下卑た目で舐める男どもの中から、胤をひとつ貰い受けたらどうかしら)
やがて「遺腹の子」として、鎌足様の御子に仕立て上げればいい。
そう囁かせるだけでも、刃になる。噂は香より長く残るもの。
視線を上段へ遣る。そこに十二ほどの童――不比等がいた。
こちらが見ると、彼はぷいと視線をそらし、間をおいてまたちらりと戻す。
幼いのに、目だけが大人びている。
この一瞬で、心が裏返った。
誰かの胤では薄い。後継の胤なら名分が立つ。
不比等の成人を待ち、藤原という家そのものを狙えばよい。
我ながら悪い女と苦笑してしまう。
わたしの人生を一夜でめちゃくちゃにしたのですもの。少々の仕返しは、悪くありますまいね、鎌足様。
その時、鎌足の正妻・鏡王女が扇を静かに掲げた。
「ここは御霊前。下卑た言は慎まれよ」
柔らかな声に、冷たい刃が仕込まれている。男たちは目を伏せ、女たちの刺も、わずかに鞘へと戻った。
私は膝を正し、香の煙に息を混ぜて、遺歌に細く返す。
皆人の 得がたしと言ふ その舌を
香の煙にて 今し鎮めよ
(――先ほどの下品な舌を、香で鎮めなさい。それが、この返歌の心)
扇がそっと止まり、咳払いが二つ、三つ。うつむく顔が連なった。
弔いの列が動き出す。私は顔を上げ、もう一度だけ上段の不比等を見た。
今度は私が先に目を外し、口の端で、ほんの少し笑う。
――私は鎌足様に選ばれた。では次は、私が選ぶ番。……そうでございましょう、不比等様。
香はまだ、燃えている。
(完)
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