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幕間1

 同じ人間とは思えなかった。

 玄関の引き戸が大きく揺れながらガタガタと開かれたとき、私は欠伸を噛みしめ、眠たい眼を両手で擦っている最中だった。だからこそ、開け放たれた戸の向こう側で、私の父親と同じ齢くらいの男性が、何か背の低いものの手を引いているのを目の当たりにした時、自分の目を疑った。幼い私は得体のしれない生き物を初めて見た衝撃で、硬直してしまったのだ。


「隣に越してきた戸塚(とつか)です。ご挨拶に伺いました」

「わざわざご丁寧にありがとうございます。ほら、美和子(みわこ)。あんたも挨拶しなさい」

 

 とん、と母親に背中を押され、私は母の背中に隠れることができなくなった。途端に羞恥に襲われた。人ならざる何かの前で、寝癖も直さず四方八方に跳ねた髪と、しわくちゃのジャージ姿を晒すことが、余りに不相応であると咄嗟に判断したからだ。けれどこの場で絶対的な存在である母親に挨拶を急かされては、身をひるがえし逃げ隠れることもできず、ただ哀れに口をぱくぱくとさせることしかできなかった。なにを言えばいいのだ。だって目の前のなにかは、絶対に人間じゃないのだ。そうに決まってる。だから人間じゃないものに「こんにちは」と、私が知っている言葉を発したとこで何の意味があるのだろう。


「あら。恥ずかしがってるのね、この子ったら。同い年なんだから、仲良くしなさいよ――ごめんなさいね戸塚さん。いつもはこんな調子じゃないんですよ」


 母親はなにを勘違いしたのか、「きっと僕がかっこいいから戸惑ってるんだわ」とフォローの声掛けをしてしまった。違う、そんな簡単な問題じゃないんだよ、と声を張り上げ抗議したくとも、この場で声を荒げるのがみっともなく感じて、ただ黙って視線を下に向けた。私のそんな態度が、幼く可愛いものに映ったのだろう。「戸塚さん」と呼ばれたおじさんは、快活に笑い声を立てた。


「かっこいいだって、澄。照れるな」


 「澄」と呼ばれたモノが、戸塚さんとしっかり繋いだ手をもぞもぞ動かしているのが、床に映し出された影に反映されていた。それから、私が何を言うでもなくおどおどしていると、手持ち無沙汰になった「澄」は、土埃ひとつ付いていない真新しいスニーカーのつま先を、片足で踏みつぶしてしまった。


「あのっ」


 そんなことをさせてはいけないと、大きな声を上げて精一杯制止した。この得体の知れない、自分とは異なる人間からほど遠い生き物は、すべて世界にとって正しくあるべきだと。だからこの生き物のための()ろし立ての靴は綺麗なままであるべきで、誂えられたまま、潔白であるべきだ。反射で動いてしまったのは、本能によるものだった。そこまで蓄積されていた恥じらいをすべて捨て去り、私は裸足のままで玄関に飛び出してしまい、冷たいタイルがじんと足裏に響いた。不意の声に驚いたのだろう、「澄なるもの」は私と視線を合わせてくれた。丸っこいガラス玉のような瞳はぎょっと見開かれ、真ん丸とした目の玉に、私がくっきりと映し出された。私はその情景に気圧され、息を飲むことしかできなかった。

 ぱちっ、と幻聴の聞こえるほど大きな瞬きひとつ。頬に影を落とす、長いまつげがふるりと揺れた。静かな湖面にそっと小石を投げ込んだ時、波紋がやがて広がっていくような空気の震えは私を見事に貫いた。そしてついに私は、目の前のものに焦がれ、震える手で「澄」に手を伸ばした。澄は私のおずおずとした態度に嫌悪一つ示さず、戸塚のおじさんと繋いでいない反対側の手を差し伸べた。

 掴んだその掌は真白で、節の目立たない指は細く長かった。私は深夜に雪がたっぷり降り注いだ早朝に、誰よりも早起きして新雪を踏みしめ足跡をそこら中に残したあの時の、いの一番に成果を残した達成感と、綺麗なものを自己で汚した罪悪感の入り混じった心情を思い出していた。だが、彼の手は温かく、そこで初めて私は、目の前の澄が血の通った、私と同じ人間であることを実感した。

 これこそが、私と澄との初対面の記憶だ。

 そしてその時からずっと、私の中を構成するすべての歯車は、何もかもを「戸塚澄」を基準として動き出したのだ。

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