前編5
空白の一か月が、俺の中に積みあがった。
今まで生きてきて、こんなにも心がまっさらになったことはない。いや、正しくは”ミワと出会って以来”だろうか。つまり、俺とミワはあのオンライン通話の後約一か月間、言葉を交わすことはなかった。
更に詳細に話すとすれば、俺とミワの間に、一切合切やりとりが無かったわけではない。ミワから一方的に、俺宛てのメッセージや着信はあった。これまで頻繁にやり取りしていた友人が突然音信不通になれば、不安にもなるし心配が勝るだろう。ミワの行動には、なにも非難すべき点はない。だから俺がミワのことを無視することさえなければ、虚空で塗り固められた一か月を、俺が作り上げることは無かったはずだ。それでも俺は、あいつと会話すること、あいつの言葉に耳を貸すことを拒み続けた。その結果、虚無が心の中央から染みのように徐々に広がり続け、奇妙な恐怖が吹き荒れた。
なにも嫌悪感からミワとの交流を絶ったわけじゃない。こんな状態じゃ、ミワと会話したところでおぞましい結末が待ち構えているのではないか、と脳が警告音を鳴らしたのだ。俺はあいつを責めるかもしれない。がっかりした、幻滅したと言って詰りだすかもしれない。しかし、俺の中に確かに核としてある、友人としての誇りや、ちっぽけなミジンコほどのプライドがそれを許さなかった。そして見栄を張って善人ぶらずとも、それが「正解」や「正しさ」と少しずれたところにあるのも理解していた。俺は本当は、何がしたいのか。あいつに抱いている思いは、虚飾で埋め尽くすさずとも、既に感情や形にできない何かに覆い隠されていて、自分自身のことなのにちっとも答えを導き出せないのだ。俺が、そんな暗い霧の中に閉じ込められ足を止めている間に、東京ドーム公演の発表以上に世間を覆いに揺るがす「マイア」からの発表があった。――なんと、マイアはあの日、俺にこっそり告げてくれた「二十五でアイドルは卒業するつもり」であることを、あっさり世間に公表してしまったのだ。
名実ともにトップアイドルであるマイアの突然の卒業宣言は、メディアのエンタメニュースを席巻した。なぜ、どうして。俺が抱いているものと同じ疑問を世間も抱いたのだ。理由についてミワは「アイドル活動を始めた時から決めていました。綺麗にアイドル活動を折り畳みたいのです」と告げた。俺へ告げたものとニュアンスこそ違えど、ほとんど同一だ。だがミワの極めて真摯な言葉は、残念ながらそのまま受け取ってもらえることはなかった。それはきっと、メディアに露出する者、エンターテイメントを生業とする者の宿命なのだろうか。言葉の裏側、あるはずのない深淵を深く覗こうとするファンたち、否ファンよりも、圧倒的に物見雄山のお客様が散見される。外野陣たちは、ミワの着飾られた言葉の裏にあるはずだと決めつけた真意を、暴いてやろうと躍起になっていた。
「やっぱり結婚じゃない?」
「じゃあ今、マイアには付き合ってる人いるの?」
「それって女? 男?」
「ありえない! 永遠に私の王子様でいてくれるって信じてたのに」
「どっちでもいいよ。今まで何一つ埃出してないんだよ?」
「並大抵のプロ意識じゃないと考えられない」
「王子様自称しといて、やっぱり裏ではやることやってんだ」
「そりゃそうでしょ。王子様も人間だよ」
「むしろノースキャンダル突き進んでくれるなら、全然応援できる」
「アイドル卒業まであと二年はあるでしょ」
「二年なんてあっという間じゃん」
「つーか、これじゃあマスコミに狙われやすくなるんじゃない?」
「今までノースキャンダルのマイアを、卒業を前に破滅してやろうって考えるやつ絶対いるよ」
SNSのタイムラインは、日夜議論が多種多様な方向で活発に展開していた。流れていく意思を持った文字と文字。ひとたび強烈な意見がバズるたび、それに共感したり、痛烈に反論する刺々しい意見が発露したりしていた。はたまた、過去のブログやテレビでの発言を切り取って、過激な考察動画を出す者まで現れて、事務所は悪質な誹謗中傷に対する声明を緊急でリリースしていたり、慌ただしそうであった。
ミワはというと、混乱を前にしていながら日々平常そのものだった。むしろそれらの議論に一切介入はせず、卒業予定を発表した翌日も、日課のブログはいつも通り日常を綴ったあっさりとしたものだった。それがなんだか、あまりにもただ人にあらずの佇まいであり、更に”マイア”のアイドル性を高めるものだから、世間は更に躍起になっていく。きっと星ならぬ者たちは、冷たく透き通るせせらぎの、豊かで清らかな様子を踏みにじりたくて、泥まみれの足を突っ込んでみたくなるのだろう。
「あれ、お前アイドルに興味あるんだ」
「……まあ」
ごちゃつく居酒屋。普段街では聞き慣れない程、暴力的な音声の笑い声、話し声、時々怒声。それに負けない店員のメニューを連呼する声。喧騒の中、俺はスマートフォンで更新された新しいマイアに関するニュースを眺めていた。というよりも、見つめていた、画面に映していた、といったほうがいいか。それを目ざとく覗き込んだ隣の男が、意外そうに話しかけてきた。
「意外。興味無さそうじゃん」
「そうっすか」
「あー。だって、お前さあ」
ヤニの匂いがこびり付いた服でぐいっとこちらに身を寄せられ、嫌煙家というわけでも無いが鼻を指でつまみ顔を背けそうになったが、遠くから彼を呼ぶ声が聞こえて慌てて走っていってしまった。
ふう、と息を吐く。気が付かぬ間に肩に余計な力が入っていた。よほど、ミワのことを外野に話題に振られたことが俺にとっては緊張の瞬間だったようだ。表情に出ていなくてよかった。嫌悪や露骨な話題避けの態度が出て居たら、面倒なあの男に余計に突っ込まれたりしていたかもしれない。そんなことをされてみろ。のらりくらりと会話をよけ続けるにも限度がある。相手が俺の防御の隙を躱し、踏み込まれたくない絶対的な領域に足を踏み入れたらどうする。地面に足をつかずとも、空間に踏み入れられただけで、今の俺はどかん――と、沸騰してしまうかもしれない。
(そうなのか?)
ほんとうに、”かもしれない”、なのか?
居酒屋を後に深夜、夜にどっぷり浸かっているはずなのにネオンがこびり付いて消えない、渋谷の街を早歩きで通りながら、頭にふと疑問が舞い降りた。沸騰してしまう、だと? いつから俺は自分が平熱だと錯覚していたのだろう。本当は、もうとっくに沸騰しきっていて、全身のなにかが蒸発して消え去ってしまったんじゃないか。俺はさしずめ、干からびた魚。骨にほんの少しの身が肉が、かろうじてこびり付いているだけだったとしたら。
防犯意識の高い街灯に照らされた、営業時間の終わったカフェのガラス窓に映る自分の姿を、思わず足を止めて確認した。大丈夫。ちゃんと肉もついてるし髪もある。服だって着ているし、見慣れた荷物もちゃんと背負えている。それでも、どこかそれが虚像のように思えて背筋がひやりとした。夜の渋谷を駆ける生暖かい風ごときじゃ、俺の体温を上げてくれやしない。コンクリートの足場が、急にぐにゃりと泥沼に変わった気さえした。ぬかるみに足を取られ、歩くたびに足首を、泥で作り上げられた無数の手に、下へ下へと引き込まれる。
そうなると、どうなるのだろう。惨めな俺に終止符を打ってくれるのか? それとも、完全たる暗闇に頭の先まで浸かってしまったら、”俺じゃない何か”にすっかり変わってしまうのだろうか。そうしたら最後、ミワに会えなくなる可能性だってある。俺があの、天上高く瞬く一番星に笑いかけてもらい、傍に居られるのは「幼馴染の澄」という人間だからだ。そうじゃない、化け物よりも醜い、負の感情を纏わりつかせた破壊衝動の塊のようなものに変貌したら、二度と会えない。いま、自分に枷を掛けて自発的に会えないだけでも空白が俺を蝕んでいるというのに。これ以上に何が待ち受けているんだ。
焦りは、俺を衝動に駆らせた。ポケットからスマートフォンを取り出し、何かから逃げるかのように駆け足で駅へと向かう。しばらく動いていなかったメッセージアプリへ一言、「いまからいく」と書き込んだ。住所は以前、万が一があったときに、と教えてもらった。引っ越していなければ、そこにミワはいる。もしかしたら仕事で留守かもしれないし、明朝に仕事が入っていたら既に床に就いているだろうか。それでも、身勝手な俺は足を止めることも、ミワの返信を待つこともできなかった。
何かに操られるように勢いのまま電車に乗り込み、やがて何駅か乗り継いで辿り着いたのは、渋谷とは打って変わって夜に相応しい静寂に包まれた住宅街だった。比較するのも的外れと笑われそうだが、同じ夜を共有しているはずなのに、俺が住んでいる安アパートが群れを成している街とはなにもかもが違う。道中にはごみの一つも目立たなかったし、人通りはほとんどない。建物は頑丈なセキュリティに守られ、沈黙を保っている。そしてその沈黙こそが、街の平穏と平和を築いていた。もしも昼間、明るい時間帯に歩いたのなら、きっといい散歩コースになるだろう。そんな風に思わせてくれる街路樹や、植え込みの花々が月明りと最低限の防犯照明に照らされていた。
ミワの住まう建物へ足を踏み入れると、一目散にインターホンで部屋番号を押した。送信したメッセージアプリの返答は見てもいない。もし、このチャイムが無常に響き渡っただけなら、それが答えだと思った。だが、チャイムの音は三回目でぷつりと消えた。確かに部屋の主が応答したはずではあるが、インターホンの向こう側の対応者は、何一つ声を発さなかった。防犯カメラで俺の顔は認識してくれているだろうに、だ。ただ、自動ドアは家主の意志で両側に開き、無言で俺を中へと招き入れている。
それが答えなら、と俺はそっと滑るように、セキュリティの内側へ潜り込んだ。
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