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前編4

 俺が”それ”を知ったのは、とある日の朝のニュース番組、エンタメコーナーの中だった。


「速報です。アイドルのマイアさんが、東京ドームでの初の単独公演開催を発表しました――」


 テレビ画面の中の男性アナウンサーは、驚き混じりに抑揚をたっぷりと付け、視聴者の興奮を煽るように語りかけてきた。いつぞやの晩飯の余りものを朝食に食べていた俺は、なぜか、茶碗を持っていた左手が岩のようにずしりと重くなったことに驚いた。控え目に米を盛ったはずなのに、と一瞬馬鹿げた疑問が浮かんだが、単に腕に力が入らなくなったからだと悟った。

 そうか、あいつ。あの場所に立つのか。

 いつかその日がやってくることは分かりきっていた。テレビから流れる情報に釣られるように瞼を閉じると、たった一度だけ訪れた、あの東京ドームの情景が思い浮かぶ。けれど俺に向かって手を振ってくれた、眩く憧れたステージ上のアイドルの姿が、ふっと(もや)のように姿が掻き消えて、あっという間にミワの姿に描き変わってしまった。しかし違和感はひとつとしてない。天井から降り注ぐ光がミワを一直線に照らしても、強いライトが輪郭や影の色濃いコントラストを描いても、彼女がドームという特殊な環境の中で、霞むことは無い。

 どれくらい瞳を瞑っていたのだろうか。まどろみの中から抜け出すと、とっくにマイアの公演を紹介したコーナーは終了していて、いつの間にか番組終わり際の星座占いが始まっていた。その結果を見届けることなく、リモコンに手を伸ばした。立ち上がり、冷たい水で食器を洗い、歯を磨くために洗面台へ向かう。寝起きからしばらく経ったはずなのに、どんよりとした鈍い色を浮かべた瞳が眼前にあった。蛇口をひねり、コップに水を注いだ俺は、何の気も無しにその注いだばかりの水を鏡にぶちまけた。

 鏡面は歪み、映し出された俺の顔はうねりを帯びた。淀んだ景色は膜に阻まれ水滴の波に揉まれ、上手に認識できない。水面越しに現れたような波打つ顔面は、けれど俺にとっては幾分かその方が自然に見えた。むしろ、こちらの方がふさわしく、こうありたいとすら思ってしまうほどだった。

 身だしなみを整え終えると、全身に覆い被さる倦怠感を振り払うように、背負い慣れてくたびれたリュックサックに今日必要な荷物を詰める。つるつるとした表面のモバイルバッテリーを二回ほど手から滑らせて、三回目ですらおぼつかない手つきになったとき、俺は嫌というほど平常心からかけ離れたところに自分が存在することを見せつけられた気になった。下唇を思い切り噛みしめたくて、それでもこれから外出するのだから、という理由付けが俺を冷静の間際へ引き戻してくれる。無心に、なるべく無心に、と心で唱えながら次々と小物を、がばりと口を開いたリュックの胃袋へ押し込んだ。立てつけの悪い玄関扉を開けて早足で街を歩いている俺は、心と足と、頭がばらばらになったかのようでちぐはぐだった。

 俺はミワの努力を認めているし、心の底から誇らしいと思っているのに、それなのにどこか太陽の光を遮るほどの分厚い曇り空を胸に抱いている。そもそも「認めている」、だなんて俺なんかが評価すること自体烏滸がましい。それでも晴天を望まずミワの隣に居続けることを選んだのは、ほかでもない自分。であるのに、自己への制御と決断のシャッターの隙間から、妬ましさがという毒がふつふつと沸き上がり続けていた。そしてそれをひた隠し、そんなものは無いよと偽善で塗りたくり、偉業を成し遂げた友人の隣に平然と立てる自分に酔いしれている。その酔いは、大人になればなるほど深く、また(たち)の悪い酔い方にすらなっている。吐き気と隣り合わせの自尊心を、美しいものだと宝玉のように隠し持ちながら、いつひび割れて壊れて悪臭を放つのだろうと、びくびくと怯えていた。

 電柱を何本追い越しても、追い抜いてもこの焦燥感は消えることは無い。やがて最寄りの駅についてようやく、リュックサックの横についているミニポケットに交通系ICカードが入っていないことに気が付いた。昨日取り出して、ベッドの近くのローテーブルに置いてそれきりだ。帰路を余儀なくされること、遅刻が確定されたこと、その事実が止めを刺すように、俺を項垂れさせた。


 その翌々日。いつものようにオンライン越しにミワと会話するため、俺はミーティングアプリを立ち上げた。メッセージアプリでは、一切ドーム公演の話をしていない。俺も、あいつも。だからいつもの画面にあいつが映り込むなりマイクをオンにした俺は、ミワが口を開くよりも前に「おめでとう」と声を掛けた。まるで、あいつがオーディションに受かった日、報告するために笑顔で飛び込んできた過去の二の舞を踏むまいとするかのように。それは、価値のないプライドをさらに際立たせるようで、錆で朽ちるのを待つ寂れた地域のモニュメントのように不格好で滑稽だった。ミワは、俺の声にただほころばせ、「ありがとう」と、はにかんだ。それは世界中で俺だけが至近距離で受け取れる、彼女の愛嬌だ。


「そうやって言ってくれるの、嬉しいよ」

「大げさだな」

「澄。絶対、見に来てほしい」

「――チケット、取れたらな」


 もちろん、ミワにコンサートのチケットを手配してもらうことも可能だ。だが、目の前の強力な伝手を使うことを、俺が許したくない。完璧なアイドル”マイア”が、男友達を招待した。その男と現在過去に恋愛関係にあろうがなかろうが、「異性を招待した」事実が発生してしまうだけでアイドル活動への綻びになる。それは我武者羅に走り続けてきた大切な友人をばっさりと背中から切り捨てるようなものだ。血にまみれた彼女なんてみたくない。それは友人としての心からの願いでもあり、俺というただの個人のエゴの詰まった望みでもあった。

 俺の気遣いを察した画面の中のミワは、歯を見せて笑った。けれどどこか情けなく、眉毛を下げていた。その笑い方がちぐはぐで、俺は訝しんだ。


「……なに?」

「いや、結構強めに見に来てほしいんだよ。こんなチャンス二度あるか分からないから」

「は? この先、機会はいくらでもあるだろ」

 

 まるで東京ドーム公演が千載一遇であるように語るミワを、俺は真っ向から否定した。この公演は決して思い出公演などではない。ミワが実力でもぎ取った機会であり、順調に成長していく”マイア”の、輝かしい「次」を確約する一段目のようなもの。次回もドーム公演が行えるかどうか自分に自信が無いと言うのであれば、今から不確定な落とし穴に恐れをなしてどうするんだと鼓舞するつもりだった。だが、きゅっと唇を結んだミワは逡巡し、まつ毛の揺れが分かるほどゆっくり瞬くと、やがて口を開いた。

 

「アイドルは、二十五で卒業するつもりだから」


 きーん、と耳の奥で冷たい金属が擦れる音がした。

 ――いま、なんて言った?

 俺は無意識のうちに信じていた。ミワは生涯アイドル宣言を喉が枯れるほど叫び、死ぬまで輝きを失うことがないんじゃないかと。それが当然かつ自然、世間も自らも求めているものだと思っていた。世間の声に答えるのが大好きなミワのことだ。ミワもそのスタンスについては満更でもないのだろうと。


「なんで」

 

 自分でも笑っちゃうくらいに、か細い声しか吐き出せなかった。ミワはアイドルという概念にに年齢制限を設けるような女じゃない。それは近くに居た俺がよく知っている。知り尽くしている。ミワのことならだれよりもよく分かっている、理解しているつもりでいたのに。

 今のミワの一言で、目の前の彼女が、俺の知らない、幼馴染でも友人でもない、誰かになってしまったような気がして、ひどく混乱した。


「んー……」

 

 ミワはちょい、と右に首を傾けた。カメラに対する視線の向け方さえもすべて計算し尽くしたようなアイドルだけれど、幼馴染の俺と相対する時だけは、むき出しのミワでいてくれる。アイドルでありながら俺の大切な幼馴染。二律背反のようで両立している、曖昧で線の引かれていない関係。

 お粗末なパソコンのマイクでは、俺の震え声の疑問なんて拾えなかったかもしれない、そうすれば俺のみみっちい思いも無かったことになるかもしれない。けれどミワは俺の疑問をきちんと耳で拾い、そして質問に対して明確な答えを持ち合わせているようだった。


「なんで、というか。決めてたんだ。アイドル始めた時から」


 聞いてない。

 頭の中の回線が、熱で断ち切れた音がした。少なくとも、俺の鼓膜にうすら寒いほど鋭く響いた。

 なんだでよ。もっと燃えて、燃え尽きてやがて星の最後のように爆発して、光が絶えるその日まで、アイドルで居続けるつもりはないのかよ。アイドルのマイアなら、そんな無茶苦茶に世界をかき乱すくらいの伝説を作り出せるというのに。

 俺の隣で、憧れた星を掴んで、拳を握り締めて走っていったくせに。息切れなんて知らずにあっという間に遥か彼方、星の海が泳ぐ遠くまで走って行って、何万光年も先でぴかぴか勝手に輝いているのに。それなのに時々こうして、俺の元にまだ蛍火のような温かく柔らかい光源を届けてくれる、わずかばかりの奇跡が、俺にとっては何物にも代えがたいというのに。

 いつの間にか、パソコンのモニターは真っ暗になっていた。

 平たく冷たい画面には、俺が映り込んでいるだけだった。

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