前編2
渋谷での用事を終えアパートに帰宅すると、夜も十時を回っていた。オートロックなんてものは備え付けられていない安い賃貸のセキュリティ。鍵を回して無言で部屋に上がる。大学入学を機に実家を出てから「ただいま」を言う機会はめっきり減ってしまった。一人暮らしを始め立ての頃は、暗闇に向かって挨拶を投げてみたこともあったが、打てども響かない挨拶ほどむなしいものはない。結局、無言で靴を脱ぐのが俺にとってのルーティンになっていた。
コンビニで購入した牛丼を電子レンジに突っ込んでいる待ちの間に、流れ作業でテレビの電源を入れた。古いテレビは映像が映し出されるまでに時間がかかるのが致命的だ。ようやく勿体ぶって映し出されたニュース番組を聞き流しながら、電子レンジの扉を開け、火傷に気を付け指先でプラ皿を摘まみ、テレビ前の背の低いテーブルの上まで運んだ。
レジ袋を逆さに振って落ちてきた割りばしで、牛丼を口に掻き込みながらニュースを眺める。シンプルな青背景をバックに、男性キャスターが淡々と原稿を読み上げている。耳の中に声は音として入ってくるが、如何せん内容は脳内にすんなり入り込まない。上辺だけの情報が、俺の頭の中を滑っていく。けれど、バラエティ番組を眺めたり、スマートフォンでSNSを見つめるよりも、つい食事中はニュース番組を見てしまう。これが実家に居た時の決まり事だったから。
一人暮らしは自由である。だからこそ気ままに両手両足を伸ばせばいい。実際、上京したばかりの頃は自堕落な生活をしてみたものだが、なんだか体の背骨が少しずつ歪んでいく居心地の悪さに苛まれた。結局こうして、幼い頃に教え込まれた習慣をなぞる生活だが、特段不自由さは感じていない。きっちりしている方が性根に会っているのだろう。
あっという間に容器を空にした俺は、鞄からスマートフォンを取り出した。麦茶をガラスコップに注ぎながら、画面ロックを解除する。おなじみのメッセージアプリに届いていたメッセージに適当に返答すると、俺はリモコンでテレビの電源を落とした。アナウンサーがコメンテーターに、なにやら真剣に昨今の時事について意見を求めているのが、ぷつりとテレビが消える直前に見えた。こんなことを思うのもどうかと思うが、ひどく滑稽な舞台を見た心地だった。真剣な素振りを表現したキャスターの横顔と、もっともらしい専門家の声音。本心からの言葉に聞こえるが、話題が一区切りつけば、なのにあっさりと次のコーナーに行ってしまうところが、急にこちらの心情をばっさりと切り落とされた気持ちになるから。――馬鹿だな、と俺は俺を鼻で笑った。社会の構造の一パーセントも理解していない浅はかな俺が、討論を嘲笑することが、この世で最も愚かなことなのかもしれない。
俺はベッドの上に置いてあったノートパソコンを開いた。オンライン授業等でよく使用していた、ミーティング用のアプリを手慣れた手つきで立ち上げる。カメラに映り込んだ自分は随分と沈んだ顔をしていた。夜遅くまで用があったのだから仕方がない。そう、仕方がないのだ。言い聞かせて無理やり飲み込んで、それでもこれからミーティングルームに入ってくるやつは、きっと疲れを言い訳に使わないと知っている。だからこそ言い聞かせる自分が腹立たしい。
いけない。苛々が募った自分を諫めるように、眉間を親指でぐりぐりとほぐしていると、アプリ特有の入室音が聞こえ、画面が二分割された。向こうから挨拶を投げられる。
「や、お疲れさま」
「……お疲れ」
「本当にお疲れって感じだな、ただの挨拶じゃなくて」
画面の先に居るのは、先ほど渋谷で散々見かけた”そいつ”だ。風呂上りなのだろうか、すっぴんで、なおかつヘアバンドでおでこを丸ごと晒している。だぼだぼの着古したTシャツは、渋谷の街を牛耳っていた人物とは思えない程だらけている。
幼馴染の俺たちの交流は、二十三になった今も続いている。正確に言えば週に一度、オンラインで画面越しに会話する仲だ。
どうしてオンラインなのかと言われれば、それは言うまでもなく、こいつが多忙だからにすぎない。けれども俺たちは、どこまでいっても気の合う幼馴染だった。こいつが忙しくなろうとも、会う頻度をがっつり減らす選択肢は俺たちの間にはなかった。はっきりと言葉にして、その選択を確かめたことは無い。けれど互いに声を聞くことができない期間が一週間続いたある日、こっちからオンラインミーティング用のアプリのダウンロードURLを無言で送りつけると、次の日にはこいつはアカウントを作成して、IDを俺に伝えてきた。
「オマエの前で疲れたよ、とかいうほど身の程知らずじゃねえけどな」
「なんで。限度なんて人それぞれだろ。こっちの方が目に見えて忙しいから、気を使ってる?」
「ああ」
「はっきり言うねえ」
ははは、と画面の中で豪快に歯を見せて笑う。缶ビールをぐびぐび煽り、手の甲で拭う。注射をする際のアルコール消毒でさえ肌に赤みが差す俺とは大違いの蟒蛇だ。こいつはハイボールと日本酒をちゃんぽんしてもケロっとしていて、翌朝早起きして日課のランニングに出かけるような奴なのだ。
「最近、実家帰った?」
淡々と近況やちょっとした愚痴なんかをぺらぺら話している合間に、箸休めのように投げかけられた話題に、俺は口に出すまでもなく大きく首を横に振った。俺の実家は、こいつの実家の隣。俺が小学生の時、転校してきて以来の仲だ。
「帰ってない。去年も帰れなかった」
「今年は帰ろう。おじさんもおばさんも、寂しがってたよ」
「帰ろうって、さもお前も帰れる口ぶりだけど。正月なんて繁忙期。帰省できないだろ」
「ううん、なんとか調整してもらうつもり。書き入れ時とはいえ、ここまで突っ走ったご褒美もらいたいじゃん」
「ご褒美?」
「こんなオンラインじゃなくて、さ。直接、会えるじゃん。実家ならさ」
俺は、思わず麦茶をむせそうになった。咄嗟のことだっただけに、返事をすることは叶わなかった。だが苦しんでいる俺などお構いなし、こいつは飄々と、つまみの枝豆の殻をティッシュの上に積み重ねていく。
「時間があったらこうやって画面越しに会話して。それはすっごい楽しいし、気が楽だけど。直接会って会話するのとじゃあ、テンポもテンションも桁違いだからさ」
「……幼馴染と直接会話したいってそれだけの理由だけで、お前が年末の仕事犠牲にするくらいなら、暇してる俺が頑張って会いに行ってもいいんだけど」
「――しないくせに」
そう。しない。例え死んでも。これは比喩ではない。だから今のは口から出た出まかせだ。
いくら忙しいからといったって、工夫すれば時間なんて作り出せる。会おうと思えば会えないことはない。現に、俺たちは画面を通して通話している。こんなこと、本来であればしなくていい。パソコンを立ち上げるよりも倍以上の時間はかかるだろうが、こいつの家に押しかけて、大学生のように宅飲みでもなんでもすればいい。なのに俺たちは、オンライン通話という手段を取っている。多忙は、数ある理由の内の一つでしかない。
「しねえよ、大切な友人のキャリアを、まざまざ傷つけるようなろくでなしにはなりたくねえ」
俺は、自己保身のように理由を重ねた。だが、相手にはこの虚像さえも見透かされている。流石は幼馴染といっていいのだろうか。いや、単に俺たちが昔馴染み故の阿吽の呼吸で成り立っているから、だけではないのだろう。こいつはずば抜けた洞察力を持っている。顎を掌に載せ、肘をついたこいつはどこまでも俺の内側を覗き見るように大きな瞳をぱちくりさせた。
「違うだろ。自分が悪者になりたくないから会わないんじゃないだろ」
「……」
「澄が、こっちの、”アイドルの仕事”を尊重してくれてるからって、知ってる」
「そうかよ」
俺は、手持ち無沙汰になってグラスを揺らした。わざとらしく揺さぶると、グラスの底面に線のように残った麦茶が情けなくグラスの中で波打った。ため息が零れる。
「……どの道、ろくでもねえ野郎になりたくねえよ。”女性アイドル”と気軽に対面しようとする男友達、なんてもんには、さ」
画面の中のアイドルは、眉尻を下げ、困ったように目を細めて笑った。
麦茶の入っていたグラスの氷が瓦解して、からんと鳴った。
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