1F保健室にて、サクラ。3月31日
桜高に来てから、もうすぐ2週間が経とうとしている。
学校に住めと言われたときは驚いたが、ここでの生活にももう慣れた。
部屋代わりの教室で目覚め、学食で食事をし、日中はグラウンドでトレーニングしたり図書室に行ってみたり授業の内容を考えてみたり……。風呂はシャワー室で入って、掃除はフロアブラシとちり取りでする。洗濯は3日に1回、家庭科室の洗濯機を使い、晴れた日は屋上、雨の日には部屋に干す。支給された『携帯電話』に緊急事態の知らせは来ず、戦闘機に乗っていた頃とは比べものにならないくらい平和な日々が続いている。
毎日決まって行うのは、保健室の窓とカーテンの開け閉め、それと掃除。
戦艦型キュウタァαを倒し、潜水艦群によって撃墜されたあの日から、サクラは眠ったまま目を覚まさない。
「また来たぜ」
言いながら、神代は保健室に足を踏み入れる。
朝の時点で気温は2 9度。扇風機が回っているものの、サクラの部屋は蒸し暑い。
一度カーテンを全開にし、むわっとした空気を外に逃がす。心なしかセミたちの声が大きくなり、さらに感覚温度を上昇させた。
「ほんと、毎日こう暑いとイヤになるよな。俺たちの部屋にもクーラーつけてくれって、宮守教頭には言ってんだけどさ」
カーテンを引きつつ、サクラに話しかける。
いつも通り、返答はない。ただの独り言はすぐに消え、保健室はセミの大合唱で満たされる。
神代は扇風機の強さを“中”から“強”に上げ、ベッドサイドのイスに腰を下ろす。
ここは先日まで生活していた病室と雰囲気がとても良く似ている。パイプベッドに部屋備え付けの洗面台。ほんのりと香る消毒液の匂い。違うのは、床も壁も天井も、部屋のすべてが白一色で統一されていること、サイドデスクがいわゆる学校の机であることぐらいだ。
想河はこの場所をサクラの部屋だと言っていた。しかし、生活用品や教科書類を除いて私物は一切見当たらない。強いて言えば、机に1冊の本が置いてあるくらい。だが、厳密にはこれも彼女のものではない。
「んじゃ、今日も借りるからな」
断りを入れてから、神代はその本を手に取った。ハードカバーの分厚い小説。図書室で初めてサクラを見たとき、彼女が書架の一番上から取ろうとしていた本だ。
担任になった以上、生徒のことはできる限り知っておきたい。
というのは建前で、本音を言ってしまえば、サクラがどんな本を読むのか単純に興味があるのだった。
日光を遮るレースのカーテンをなびかせ、生ぬるい風が吹き込んできた。眠るサクラの前髪が揺れ、心電図モニターにまたひとつ波形が現れる。液だまりに落ちる黄色の輸液をちらりと見、それから神代はページをめくり始めた。
戦闘機のマニュアル以外で活字に触れるのは士官学校以来のこと。しかも、その頃から文字だけの本は得意ではない。保健室での読書を始めて1週間と3日。朝食後の満腹感もあいまって、だんだんと頭に靄がかかってきた。
それでも頑張って読み進め、切りよく章が終わったタイミングでページをめくるのをやめる。あくびをかみ殺しながら本を机の隅に置き、ついでにメガネも外して表紙の上へ。
重たいまぶたに抵抗するのをあきらめ、神代は机にうつ伏して居眠りを始めた。
『――教えてください。彼女は、一体何者なんです』
そこは11日前、サクラが撃墜された日のクリニック。
目の前にはキーボードを打つ想河の姿があり、近くのベッドではひと通り処置が済んだサクラが眠っている。
『お願いします。想河大佐』
どこからか声が聞こえ、勝手に一人称視点の映像が動く。
まるで映画でも観るかのように、神代は夢として自分の記憶を再生していた。
『もう、ヨウコ先生でいいって言ったでしょう、少尉クン』
パチッ、とエンターキーを押し、想河はデスクチェアを回転させる。
マグカップの中の冷めたコーヒーをひと口飲み、
『決戦兵器SAKURA。それが吉野サクラの正体よ』
『兵器って、どういうことですか』
そこがいまいち分からない。
校長室で見せられたレポートによれば、彼女は少なくとも12歳までは普通の人間だったはずだ。兵器として開発されたのではなく、人としてこの世に生まれ、そして死んだ。
『現在の吉野サクラを構成しているもので、ヒト由来なのは脳だけなの。』
ことり、とカップをデスクに置き、想河は話を続ける。
『身体全体に占める割合はわずか2%。残りの98%は、すべて特機型キュウタァ由来の成分で構成されているわ。脳だけが人間でも、それはもうヒトとは呼べない。吉野サクラはね、ヒトのカタチをしたキュウタァなのよ』
今まで感じていた疑問が、するすると解けていく。
初めてクリニックを訪れた際、サクラについて話す想河から感情が消えたように見えた理由。
宮守が言っていた「吉野サクラはヒトじゃない」という言葉の意味。
戦闘の終盤、何かを投与されたことによってサクラの身体に浮かび上がった幾何学模様の由来。
『すべては6年前、あるひとりの科学者が、瀕死の娘を救ったことから始まった。当時の私は国立総合研究所――旧ADLLの主任研究員になりたてで、あの頃はまさか自分が軍の大佐になるなんて想像もしなかったわ』
6年前と言えば、桜楯連合が設立された年だ。
統合軍の編成、軍事政党の樹立、そしてとある研究所の吸収。
とある研究所とは、かつて想河が所属していた研究所のことらしい。
『私がいた研究室では、軍によって生け捕りにされた特機型キュウタァの遺伝子研究をしていたの。そこの室長だった人が、富嶽中将の幼なじみ――吉野サクラの父親よ』
つまり、富嶽にとってサクラは幼なじみの娘ということになる。
彼は戦艦型キュウタァとの戦闘を、どんな気持ちで校長室から見ていたのだろう。
『研究を開始して1年が過ぎた頃、他の研究室がある結果を発表した。“キュウタァは生物をも侵食する。条件付きではあるが、損傷した宿主の身体を修復し共生する”ってね。そんなとき、室長の家族が不幸に襲われた。墜落してきた戦闘機が、あろうことか避難区にある研究員宿舎に突っ込んだそうよ。妻は即死、ひとり娘は瀕死の状態で軍病院に搬送された』
そのあと、何があったかは大体想像できるでしょう、そう言って想河はマグカップを口に運ぶ。
ひと口飲み終えると遠くを見、昔を思い起こすようにしてまた話し始める。
『吉野室長は富嶽中将に頼み、その日のうちに娘を病院から研究所に移した。そして、キュウタァの中身――核内の粘液状物質にその身体を喰わせたの。キュウタァは見る見るうちに彼女を取り込んでいった。正常に身体を機能させるためか、俗に言う“タマシイ”の再現まではできないからかは解からないけれど、脳のみを残してね。そうしてできたのが、現在の吉野サクラ。ヒトのカタチをしたキュウタァ。
数ヶ月後、室長は娘が目覚める3日前に失踪したわ。研究室メンバーはおろか、元教え子の私にも何も言わずにね。理由は不明。だけど、誰も疑問には思わなかった。娘をキュウタァにした罪悪感からだと、みんな考えたから。取り残された吉野サクラは死亡と処理され、研究所と一緒に桜楯連合に引き取られた』
『そして、連合は……兵器として運用し始めたってわけですか』
『ええ』
そのとき、サクラはまだ12歳の子供だったはず。しかも、両親を失くしたばかりの。そんな彼女を、連合は兵器として……。あまりにも胸くそが悪い話だ。
『少尉クン、勘違いしているようだから言っておくわ。ヒトであった吉野サクラは、喰われた時点で死んでいる。それ以降はキュウタァを転用した決戦兵器に過ぎないの。いい? 吉野サクラは兵器。私たちは、敵から造った兵器を戦わせているだけなのよ』
『そんなのって!』
神代は勢いよく立ち上がる。
はずみで、座っていたイスが音を立てて倒れた。
『そんなのって、いくら何でもないでしょう! いくら身体がキュウタァだからって、兵器として戦わせていいはずがないじゃないですか!』
『じゃあ訊くけど、吉野サクラがいなかったら、この国は今頃どうなっていたと思う? 国民の半数どころか、国家自体も消えていたでしょうね。これ以外になかったのよ、世界大戦で疲弊しきったこの国が、今日まで生き残ってこられる道は』
『でも……!』
『少尉クンは吉野サクラ1人のために、生き残った37,000,000もの人間に消滅しろと言うの?』
『それは……、』
『人が生きていくってね、とても残酷なことなのよ』
『……、』
何も言い返せない。
サクラを戦わせるのをやめれば、この国は滅亡する。
1人の犠牲か、37,000,000人の消滅か。
ふたつを天秤にかけたとき、桜楯連合の選択は後者に傾いた。想河も宮守も富嶽も、オペレーターの三人も、とっくの昔に割り切って今日まで歩んできたのだろう。
何とも形容しがたい気持ちが、胸に広がっていく。
『……それでも、戦わせるのは間違っていると思います。軍人でもない、志願したわけでもない少女を、キュウタァだからという理由だけで戦わせるのは、筋が違うと思います』
『大いなる力には、大いなる義務が伴うものよ。例えそれが、望んで得た力ではなくともね。綺麗事は綺麗なだけ。私たちを救ってはくれないわ』
『っ……』
ダメだ。何を言おうとしても想河の言う通り綺麗事になってしまう。
今日まで何も知らなかったくせに、あれこれ言える立場でないことぐらい分かっている。この場でどれほど議論を転がしたとしても、現状が変わらないことも理解している。でも、だからって、少女を兵器として戦わせている事実を、見過ごすことなどできない。
『俺、彼女が戦ってる姿を見ても、身体が兵器に変わるのを見ても、人間じゃないなんて思えないんです』
近くのベッドで眠るサクラに目をやりながら神代は言う。
『あなたたちがいくらキュウタァだと言っても、兵器だと言っても、そんなの関係ありません。今日会ったばかりだけど、この子は間違いなく普通の女の子ですよ』
『それは哀れみ? それとも偽善?』
『そんなんじゃない! 身体のほとんどがキュウタァだから何なんです? 兵器に変形するからどうしたって言うんですか!』
図書室で会ったとき、学食で話したとき、間違いなくサクラには人間の心があった。だから、彼女はヒトのカタチをしたキュウタァなんかじゃない。もちろん決戦兵器でもない。
『誰がなんと言おうと、俺は彼女のことを兵器だなんて思えない。これは綺麗事なんかじゃありません。この国には37,000,000人もいるんです。1人くらい、そういう人間がいてもいいじゃないですかっ!』
ここで、はたと我に返る。
気がつかないうちに声を荒げていた神代は、うつむきがちに『……すみません』と謝罪する。
想河は『そうね』とやさしく微笑むと、『そうかもしれないわね』冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
マグカップを持ってデスクチェアから立ち上がり、部屋の端に置いてあるコーヒーメーカーへ向かう。こちらに背を向け、サーバーを傾けながら彼女は呟くように言った。『いいわね、若いって』
いきなり、どこからかバサバサとカーテンのひるがえる音が聞こえてきた。生ぬるい風が吹き抜け、風に乗って一緒にセミの声も流れてくる。
クリニックには窓なんてないし、ひるがえるカーテンもない。もっと言ってしまうと、寒いくらい冷房が効いているのに生ぬるい風が吹くなんて、そんなことありえ……。
いつの間にか、目の前が暗くなっていた。
夢だったのか。神代はぼんやりする頭で自覚する。
どうやら寝違えたらしく、首から肩にかけてピキピキと痛い。首を左右にひねりながら突っ伏していた机から顔を上げ、眠りの余韻で中々開かない目をこじ開ける。
次の瞬間、身体のすべての動きが止まった。一拍遅れて、眠気がどこかに吹き飛ぶ。
「……サクラ?」
すぐ横のベッドに、約2週間も眠り続けていたサクラが、上半身だけ起こして座っていた。
「あっ……」濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳が、大きく見開かれる。
久しぶりに聞いた彼女の声はとても小さく、かすれていて、すぐにセミの大合唱にかき消されてしまう。
「なに……してんだ?」
本来ならば、まずは「おはよう」と言うべきなのだろう。しかし、それを差し置いて質問のほうが先に出てしまった。
訊かれたサクラは、《《メガネの奥の》》目をぱちくりさせる。ぷしゅーっと音が出そうなくらい頬を紅潮させ、耳まで赤くなった。
「これは、その……」
神代のメガネをかけたサクラは、どぎまぎして視線を落とす。
そんな彼女が微笑ましくて、何より目覚めてくれたのが嬉しくて、神代はにこやかに笑う。
「似合ってるじゃん」
「……ごめんなさい」
サクラは慎重な手つきでメガネを外し、こちらに返してくる。
「別に謝らなくていいんだよ。俺もキミの本読ませてもらってたし。ちょっと待ってて。今、想河先生呼ぶから」
そう言って、ポケットから携帯電話を出していると、
「だいじょうぶです。……もう少ししたら、自分で呼びます」
「そうか? じゃあさ、のど渇いてない? 水持ってくるよ」
「まだ、いいです」
「んじゃ、お腹は? って、まだ食べられるわけないか」
「はい……、」
「痛いとことか、してほしいこととか、何かある?」
「……ない、です」
「そっか……」
「……、」
「……、」
予想外の沈黙が訪れた。
サクラが眠っていた間、ずいぶんと彼女のことを考えていたのだが、いざこうして対峙してみると、何を話せばいいのか分からない。気まずい空気が流れだし、神代は脳をフル回転させて話題を探す。
30秒ほどが経過し、ようやく話題を見つけた。
そう言えば、自己紹介がまだだった。こちらはある程度彼女について知っているが、彼女はこちらのことを一切知らないだろう。図書館で話したときも、学食で一緒に牛丼を食べたときも、名乗ってすらいない。せいぜい桜高で見ない顔の人、最悪の場合「この人誰だっけ?」と忘れられている可能性だってある。
「ごめん。自己紹介がまだだったな。すっかり忘れてたよ。つーか、俺のこと、覚えてる?」
「ええ。もちろん。図書室で助けてくれた方、ですよね?」
「良かったぁ、もしかしたら忘れられてるんじゃないかと。目が覚めて、枕元に知らない人が寝てたら怖いもんな」
「ふふ。たしかにそうですね」
「んじゃ、気を取り直して。
俺の名前は神代ユタカ。つい先日、桜高の新任教員に任命された。4月1日付け、つまり、明日からキミの担任になる。担当教科は『学活』。特に趣味はないけど、好きなことは星を眺めること。あと、ほんのちょっとだけ星座に詳しい。キミにとって最後の高校生活が楽しいものになるよう、精いっぱい努力するつもりだ。あっ、でも、きっとメイワクをかけることが多々あると思う。そのときは笑って許してくれよな。
これから1年間、どうぞよろしく」
自己紹介を終え、神代は軽く一礼する。
何日も前に考えた原稿を思い出しながらだったため、終始棒読みになっていたに違いない。
「……あたしは、吉野サクラです」
自分もしなければと思ったのだろう。サクラもかすれた声で自己紹介を始めた。
「この春から、特務科の3年生になる予定です。えっと、趣味はありません。好きなことは……本を読むことです。
ちゃんと卒業できるよう、がんばります。これから、よろしくお願いします――」
――神代センセイ。
先生、か。なんだかとってもくすぐったい響きだ。
この感じは、初めてできた後輩から「先輩」と呼ばれたときの、身体の中がムズムズする感じに似ている。
サクラの声を聴いて、やっと今日、自分が彼女の担任になるのだと実感できた。
「よろしくな、えっと……」
「サクラでいいですよ」
「それじゃ、サクラ。これからよろしくな」
「はい。センセ」
薄いカーテンを揺らし、保健室に気持ちのいい風が入ってきた。ほんのりと春の匂いがした気がして、神代は思わず外を見る。
そこには、青々とした葉をつける大きな樹が1本生えていた。
「春、か……」
二度と見ることのないだろう満開の桜を思い出しながら、神代はやさしく笑った。