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創作罪  作者: 宮島ミツル
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4.Health


 刑務所での暮らしは厳しかったが、身体的に痛めつけられるわけでもなく、最低限の人権は保障されていた。一日三食が滞りなく提供され、九時間の労働を終えた後は幾らか自由時間も与えられた。それに一週間に一度はカフェイン溶液を貰うことができた。隈川にとってはこのことが至上の楽しみだった。


 カフェイン溶液に付けられた香料の匂いは相変わらず嘘臭いものであったが、思い返せば本当のコーヒーの匂いなど判らない彼にしてみれば、そんなことは些事に過ぎなかった。


 そして彼は三ヶ月という比較的短い刑期を満了し、出所した。通常なら、この後社会に還元されるはずだが、彼が犯した【創作罪】という罪状の特殊性から、療養も受けなければならなかった。


 彼を送迎したのは、身柄を確保された時に会った新人の婦警だった。


「あともう少しの辛抱で貴方は善良な市民に生まれ変わることが出来ます。私、応援してますよ。貴方のこと──」


彼女は自動運転中にも関わらず、ハンドルを力強く握りながら、そう彼に熱弁するのであった。その眼差しは温かく、かつての母なる(レンズ)のことを想起させた。このように母性を感じさせる眼をしつつも、屈託の無い、まるで少女のようなあどけなさを連想させる彼女の笑顔は美しく、隈川はこの女性に密かに惹かれていた。




 【校正施設】に到着すると、既に職員らしき人たちが、待機していた。一人は看護師らしい三十代前後と思しき女性が張り付いた笑みを浮かべており、その横にはスーツ姿の同じく三十代前後と思しき男が立っていた。男の職業が何であるかは隈川には想像がつかなかった。


 そもそも隈川にしてみれば、【校正施設】がどのような施設かさえ分からなかった。大理石の表札には肉太なフォントで削られた『〇〇区立校正施設』という文字の下に、警官の帽子にもあった文科省スローガン『truth and order bring you peace.』が刻まれている。


 なぜ更生ではなく、校正なのか。校正とはどのような治療なのか。隈川は三ヶ月の懲役の間ずっとこのことを考えていたが、何一つとしてそれらしい解答に辿り着くことは出来なかった。だが、これから実際に体験することだ。何を考えても仕方ない。隈川はそう腹を括り、待ち受けていた職員の元へ向かった。


 隈川がふと振り返ってみると、婦警は快活な笑顔を咲かせ、隈川に手を振った。隈川はその時に確からしい青春を感じずにはいられなかった。虚構に青春を求めずとも、求めていたそれは現実に存在していたことに気づいた彼の心はゴム毬の様に弾んだ。


 だが、隈川の心の躍動は虚しく、【校正施設】の職員に身柄を受け渡され、やむなく建物の中に入った。外は寒いながらにも朗らかな天候のため、非常に心地よいものであったが、室内は微妙に調整の悪い暖房のせいで不快だった。空気はひどく乾燥し、頭ばかりが温められるような心地がして、隈川の思考は鈍る一方だった。


 廊下を歩く三人の足音はそぞろだった。それは、反響の為かもしれないし、彼等の体格の差異から生じる歩幅や足を運ぶテンポが不均衡を成し、リズムを悪化させている為かもしれなかった。いずれにせよ、隈川は先程とは打って変わって、何とも言えない不快感を覚えた。彼は間の悪さが気になったこともあり、こう口を開いた。


「私はこの施設で一体どのような療養を受けるのでしょうか。【校正施設】というのはあまりに聞き覚えのないもので……」


五秒程の間があった。隈川は、この間にも不揃いな足音が気になって仕方なかった。


「それはまず問診をしないことにはお話しすることは出来ません。先立って問診をした後に、隈川さんの治療計画が入念に立てられます。どうか貴方は良く良く自省することのみに努めて頂ければと」


看護師らしき女はこのように説明した。隈川は後になって彼女の名札を見て分かったことだが、役職は校正助手であった。男の方は校正師とのことだった。


 隈川にとって診療室までの道のりは、妙に長く感ぜられた。廊下を五十メートル以上歩いたかと思えば、階段を三階分登り、再び四十メートル程歩いた。


「ここへお入り下さい」


ようやく案内があり、隈川はワンルームアパート二部屋分程の大きさの部屋に通された。診療室の中はとにかく白ばかりだった。


外の景色は色彩を帯びていると思われるが、窓は白いブラインドによって被覆されていて、完全に白い世界を生み出していた。使用方法が判然としない様々な機械が隅に押しやられているが、それすらも純白の塗装を施されている。


室内には、白衣を着た初老の医者らしい人が、ディスプレイの置かれたデスク――言わずもがなこれも白に塗装されていた――に向かって座っていたが、扉が開くや否や、すぐさまこちらに視線を向けた。医者の顔が白ではなく、ペールオレンジだったのは不幸中の幸いのように隈川は感じた。


「お待ちしていたましたよ。さあ、おかけ下さい」


と、医者は隈川に椅子を勧めた。その椅子さえも白いことは言うまでもない。


 療養するにあたって、個人の持つ主観であったり、これまで経験したことなどの情報が必要らしく、隈川はあらゆる事を根掘り葉掘り聞かれた。出身、家族構成、職業、既往歴、これらは大抵聞かれるままに隈川は答えたが、恋愛観や思想について話せと言われると困った。彼は時に数分ほどの沈黙を挟んだ後に、言葉を紡ぐことも稀では無かった。従って、これらの問診に時間を要したことは明白であり、昼過ぎから始まった問診も、終わる頃にはすっかり日が暮れていた。


「この後、僕はどうしたらいいのですか?」


と、隈川は聞いた。


「この施設に宿泊していただくことになります。隈川さんは刑期こそ満了されましたが、精神の健康状態は依然危篤といっても差し支えが御座いません。だって、考えても下さいよ。精神の尋常たる者が、長々とした虚構(ウソ)を連ねようとは思いますまい。言わば貴方は、虚言癖が複雑化したような、誠に厄介な状態にあるのです。


ですから、治療が終わるまでは当施設で寝泊まりしていただくことになります。衣類や日用品、食事などはこちらで用意いたしますので、お気軽に近くのスタッフに声をかけてください。治療費のことは心配しないで下さい。貴方は政府が認めた歴とした療養を必要とする人です。税金がちゃんとおりているのです」


医者はこのように丁寧な説明をした。


 隈川は幾つかの疑問こそ有ったが、ここでどの様に反駁しようとしても、今後の結果は変わりようもないなと思い、静かに首肯するのであった。


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