プロローグ
それはセミの鳴く夏休み半ばのこと。
「おにいちゃん、なんで引っ越すこと教えてくれなかったの? 言ってくれたらどこまででも一緒にいったのに!」
『……そういうことするからだよ』
電話越しに聞こえる青年の声は冷めたような態度でした。
なぜでしょう? 少女は見当もつかない様子で首をかしげてしまいます。
彼女の名前は鳴上音々子。
乱暴な口調ながら優しい祖父の下、企業所属のゲーム実況者である兄、響と一緒に暮らしていました。
なのに今日、いつものように起こしに来てみれば部屋はもぬけのから。
驚いて祖父に聞いてみれば、仕事で引っ越したなどと告げられたのです。
ゆえに理由を知るべく音々子は電話をかけていたのでした。
『この際だから言わせてもらうけどな音々子、お前も爺さんもうるさくて仕事がやりにくいんだよ……俺はもう高校も卒業したし、いい加減1人の鳴上響としてやってかなきゃなんねえの』
「お料理もお洗濯も私任せだったのに大丈夫なの? 場所教えたら私も――」
『来るな!』
ぴしゃりと言い切られ……少しの静寂が生まれました。
『お前もいい加減俺から離れる時が来たんだよ……来年は中学生だってのに俺にいつまでもべたべたしてたら変だろ? 今度こそ居場所を失うかもしれない……だから今のうちに──』
「やだ、私の居場所はずっとおにいちゃんの隣だもん!」
音々子は首を横に振ります。
ずっといっしょに暮してきたからこそ、こんなだまし討ちめいた別れ方に納得がいかないのです。
けれどそれは、自身の感情でしかないというのも音々子は理解しています。
「……それともおにいちゃんは嫌だった? 私がずーっとそばについて回ってて、うっとうしかった?」
響の気持ちはそうでないのかもしれない、と思い確認を取るのでした。
……そこから数秒の不自然な間が空きました。
「……おにいちゃん?」
『とっとにかく引っ越し先は教えないし家からの電話は全部着拒してもうかからないようにするわかってくれよこれはかわいいお前のためでもあるんだからぁ!』
「あっ、ちょっと、まっ──!」
急に早口になった響の言葉を最後に、ぶつりと電話が途切れました……。
つーつーと音だけがなる電話をだらんと下げ、音々子はぼふんと顔からベッドに倒れます。
そして、
「どうしてこう、何も言わずに勝手にぐんぐん進んじゃうの?」
聞いてくれる相手のいない言葉をひとり呟くのです。
ちゃんとお金を稼がなければならないとはいえ、自ら1人になりに行くのはいささかやりすぎではないかと、口をとがらせます。
「そんなに私は頼りないか……なら!」
そう言って、音々子はある計画の発動を決めるのでした。
そしてベッドから離れた音々子は自室へダッシュ。
「えへへ……」
そして机の上に飾られていたかわいい小物たちの中で若干浮き気味の、シンプルなフォルムをしたVRヘッドギアと【Chaos Of Frontier】と銘打たれたゲームパッケージを手に取ったのです。
「これが役に立つなんて思わなかったな……」
音々子は響がこのゲームを実況する仕事を任されていることを知っていました。
サイトに事前告知されてましたし、しっかりと目を通して夏休みを使った長期企画であることも確認済みです。
つまり、このゲームを始めればいつでも響と逢えるのです。
実況をしているのですから、どこで何をしているのかなんて筒抜け……自らそこへ乗り込んで手伝い、見事成功へ導けばきっと響も「音々子は自分になくてはならない存在だ」とほめてくれるだろうという、なんとも乙女な計画です。
「寝グセちぇっくOK……服のほつれなし、お水もしっかり飲んだし……うん、今日も完璧だね!」
すべては響に1人のレディとして認められるため。
唯一無二の存在としてもっともっと頼ってもらうため。
「初めの言葉は確かこうだよね……『ダイブ・イン』!」
そのために彼女は【Chaos Of Frontier】の世界へ飛び込んでいくのでした!
*
響はトイレのカベを背にしてもたれかかっていました。
ここは響が所属する実況チームの社員寮。
企画の最終確認の最中に抜け出した響は、ここで1人音々子の相手をしていたのでした。
「あぶなかった……」
息を整えてさっきのことを思い出し、ようやく発した一言がこれです。
「“冷たく接する”ってのがまさかこれほどきついとは……」
実をいうと彼は重度のシスコン……これまでのやり取りはほとんどが演技でした。
響自身、音々子のことを邪魔などと微塵にも思っていません。
それこそ「自分はうっとうしかったか」というつらそうな言葉のすぐ後なんか、本音と共に計画が破綻する可能性さえありました。
「……ヤな思いさせちまったよなあ」
そう、すべては計画なのです。
このままそばに置き続けている限り、音々子は外を求めようとしないでしょう。
それではつながりも何も育ちませんし、孤立します。
ゆえに響は心を鬼にして彼女から離れたのです。
……と、ここまではよかったのですが。
響自身もどうやら想像以上に彼女に入れ込んでいたようで、たった1度のやり取りでこうも気が沈んでしまうのです。
「……今はそんな場合じゃない、か」
かといって仕事をおろそかにはできません。
ほかのメンバーたちはすでにダイブを済ませている頃合い……さっきの会議でライブに変更点があるならば、そっちから直接聞いた方がはやいでしょう。
そう思った響は立ち上がって自室へ戻り、いつも通りVRヘッドギアを頭にかぶりました。
「はあ……『ダイブ・イン』」
そう、いつも通り。
たとえ大切な妹に嫌われたとしても、やるべきことはやらなければならない。
憂鬱気味に合言葉を言いながら、響の意識は【Chaos Of Frontier】の世界へ深く落ちていきました──。
始めまして。
短編でいくつかコメディは書いていたのですが、長編の形にしたのは初めてです。
ぐいぐいいくブラコンと不器用なシスコンの物語、どうぞお楽しみください。