32
とにかく空を全力で駆け抜けた。
雲が吹き飛び、空気の壁が身体に叩きつけられる。
それでも心の焦りは収まらない。
痛みも寒さも感じないが、アステアの事を思うだけで心が張り裂けそうになってしまう。
今どれだけ辛いだろうか。妹を助けられず、目の前で両親が殺され、自分も致命傷を負わされる。
何もできずに逃げる事しか出来ない。
一体どれほど無念だった事だろう。
それでも――何とか生きていて欲しい。
辛い思いに苦しめられるかもしれないが、それでも……。
一体どれくらい来ただろう。
空気の質が変わり、急に辺りの雲が厚く、黒いモノに変わっていく。
目的地に着いたと思い下に降りると、そこにはかつては湖であったであろう沼地が広がっていた。
樹は枯れ、大地はひび割れ、雑草が生い茂っている。
湖は紫色をしており、いたる所から泡が湧いては弾けて紫の霧を作り出していた。
「……まるで、墓場だな……」
それがオレの感じた第一印象だった。
太陽は厚い雲に覆われ、昼間だというのに薄暗く、空気も毒で淀んでいる。
あちこちに毒の霧が充満し、さらに空気を汚している。
確かに普通の人間じゃこの空気を吸っただけで死んでしまうだろう。
幸いオレは毒なんて効かない。しかもルナの料理によってある程度は鍛えられている。
ルナの料理と比べたら、こんな毒、ただの色の付いた空気でしかない。
……帰ったらルナの料理の特訓を厳しくしよう……
何故か急に強くそう思う。
辺りに魔力探知をかけてアステアを探すが、ノイズが掛かったように上手くいかない。
この毒のせいなのか、それともこのノイズのせいで毒が発生しているのか。
そこまでは良く分からない。
どちらにしても広範囲に探知が掛けられない以上、足を使って探すしかない。
ともかく近くを探知しただけでも、沼の中に何か潜んでいるのが分かる。
アステアではない何か別の存在……。
空を歩けるオレに沼地の中を歩く必要なんてないけれど、足元に無数の何かいると思うだけで気味が悪い。
探知が鈍くなっているとはいえ、足元で何かがゾワゾワと動く感覚がダイレクトに脳に伝わるのはやはり気持ちいいモノではない。
鳥肌が立ちそうだ。
ふと妙な気配に気が付き足が止まる。
――デカいな。魔獣の類か?なんだ?
水面すれすれを歩いているオレの真下から何かが迫ってくるのが分かる。
僅かに下がりその地点に注意を向け、身体と心を戦闘態勢に切り替える。
――コイツは……囮で後ろが本命だな。
分かり易い気配と別に、後ろの水面から気配を消した何かが忍び寄っているのが感じ取れた。
気配はどちらも似たような存在。
とっさに『牙』を出し、正眼に構える。
黒く長い日本刀の姿をした『牙』は一切の装飾を持たない抜き身の刀。
防御には不向きだが、その切れ味は折り紙付きだ。
囮を一太刀で切り伏せ、返す刀で後ろのヤツを始末するか。
頭で描いたシュミレーションをなぞるように体勢を入れ替える。
予想通りの動きで、水面から飛び出して来たのは半分ほど腐った虎の獣。元は白かったのであろうその身は、今は半分ほど腐り、汚れ、ゾンビ化してしまっている。
一撃で切り伏せようとしたが、虎の異変に気付きとっさに躱すだけしか出来なかった。
「魔獣じゃない!?魔物……なのか?」
瞬時に『牙』を引き、後ろから来るであろう本命の攻撃も身を翻してスルリと躱す。
攻撃をかわされた二頭の獣もそのまま空中を二、三歩飛び跳ね、オレから距離を取るようにその身を晒す。
オレを前後から挟み撃ちするように水面の上に位置どる形だ。
グルルと低い唸り声をあげ、頭を落とし、威嚇しながらオレの周りを円を描くようにグルリと回る。
四足歩行の獣が取る独特の低い構えで、何もない空中に爪を食いこませ、飛び掛かる為の力を溜めているようだ。
その姿はまさに圧倒的。腐っている身体でもその魔力の凄まじさがビリビリと伝わってくる。
オレが見た魔物の中でも群を抜いている。
張り合えそうなのはクロムの眷族くらいか。
「……お前たちは……誰だ……?」
これほどの魔物であれば間違いなくオレの言葉を理解出来ているはず。
それなのにオレの問いに答えは返って来ない。
構えを解き、だらりと両手を下げ、『牙』を下に向けてオレからの攻撃の意思がない事を示すが、ゾンビ達は戦闘態勢を崩さない。
元は白く美しかったであろうその姿を醜く腐らせ、それでもなお戦おうとする死体。
想像するに……こいつ等は……。
首を下に俯いたまま、その場に立ち尽くす。
やがて機を見た二頭の獣が同時に襲い掛かってくる。
正面の一頭はオレの足に飛び掛かり動きを封じて……。
後ろの一頭はそのままオレの首に……。
その桁違いの速さ、強さがオレの予感を確信に変えていく。
後ろから抱き着かれるように、正確にオレの首を掻っ切るように一頭が牙を突き立ててくる。
それでも一切の抵抗をせずに、なされるがままこいつ等のやりたいようにやらせてやる。
――どうしてこんな……。
それでもオレの身体には傷一つ付かない。
出来るのであれば、腕の一本くらいくれてやってもいいと思えた。
「……やめろ。無駄だ」
小さく二頭に言い聞かせるが、牙を突き立てる力が弱まった気配は感じない。
次第に二頭の牙が欠け、爪が砕けそうになってもまだ戦うのを止めようともしない。
獣の腐った体液で服が汚れ、酷い匂いが嗅ぎ取れる。
出来るだけ魔力を抑えてもオレの身体は微塵も動じなかった。
力の差は歴然。もう攻撃してくる手段も残っていないだろう。
それでもまだ戦おうというのか……。
「……ごめんな」
『牙』を一振り。
足元のゾンビの首が飛ぶ。
さらに一振り。
後ろのゾンビの胴から下が後ろに吹き飛ぶ。
支えを失った二頭はそのままズルリと毒の沼地に落ちていく。
その姿があまりにも痛々しく思えたから。
このまま永遠に侵入者を殺すだけの存在にはなって欲しくなかったから。
だから……あえてその存在を刈り取った……。
『牙』を振り上げ、付いた虎達の血肉を振り払う。
その場に俯いて立ち尽くすオレの頬に一筋の液体が流れ落ちた。
沼地に落ちる瞬間、微かにゾンビの胸から光った石を急いで回収する。
これが魔物にあるという魔石。
握り拳ほどのそれは、黒く暗い輝きを放つ結晶のような物質だった。
それを巾着の中に放り込むと先を急ぐ事にした。
いつまでもここで感傷に浸っていられない。
あくまで今はアステアの安否が最優先。
こいつ等がオレの予想通りのヤツ等だとしても、今のオレはここで足止めを食らう訳にはいかない。
――ラウの気持ちがよく分かる。これは……許せない!
それから何度も虎のゾンビに襲われたが、その全てを無視した。
本当ならその全てを救いたかったが、今は少しでも時間が惜しかった。
辛く、苦しい思いを抱えたまま、それでも急ぐ事しか出来なかった。
高く空中を飛び、駆け抜け、襲われないように細心の注意を払う。
オレの予想が正しいならもう探知をする必要はない。
おそらくこの瘴気の中心。そこにアステアはいるのだろう。
後は瘴気の濃い方向を選んで進んで行けばいい。
思い起こせばここは元エルロワーズの森。その西に位置している。
そしてこの毒の沼地。元はきっと美しい湖だったんだろう。
森が……樹々がなかったせいでオレが気付かなかっただけなんだ。
多分ここはオレがよく知っている場所に元はよく似ていたんだろう。
そう。
クロムの住む聖域に。
ならばここはかつて何があった場所だったんだ。
ラウはエルロワーズの森に結界を張る為に、四人の眷族に東西南北を守護させたといっていた。
で、あるのなら……。
もっとも瘴気の強い毒の沼地の中心。
セシリー程ではないが、オレも十分に鼻が利く。
毒はともかくとして、その臭いに鼻が曲がりそうになる。
顔をしかめ片手で顔を覆う。
お面をかぶっているので意味なんか全くないが、それでもせずにはいられない。
「……出て来い。今楽にしてやるよ……」
そこにいるであろう存在に声をかける。
出来るだけ冷静に、感情を抑えて、ただ淡々と……。
そのまま空中で毒の水面を凝視していると、オレの声に反応するように気泡がブクブクと沸き立ち始めた。
それは次第に大きくなり、数を増し、沸騰しているように沸き上がっていく。
空がより一層暗くなり、空気が重く、それでも瘴気を纏った風が吹き荒れていく。
そんな最中、気泡が突然止んだかと思ったら、紫の水面が表面張力でぶわっと丸く持ち上がる。
水面が弾けるように飛び散ると、そこから姿を現したのはゾンビに変わった白い大きな虎の化け物だった。
その姿はここに来るまでに出会った他のどんな虎よりも大きく、圧倒的な威圧感と存在感を放っていた。
生きていた頃はどれほど美しい魔物だった事だろう。
しかしその身体も今は至る所の肉が腐り、あばら骨が剥き出しになり、美しかったであろう毛並みも、もはや見る影もない。後ろ脚の片方も失い、その顔も眼球が腐って飛び出して顔の半分も欠けてなくなっている。
それでもその巨体は巨大な魔力を放ち、恐ろしいほどの戦闘意欲を持ってオレに対峙していた。
クロムの亀蛇の姿とそっくりだ……。
「……哀れだな……」
さっきの二頭と同じく、もう言葉は通じないのだろう。
ただ、低いうねり声を上げて、凄まじい瘴気を放っているだけ。
まんま生きた死体なのだろう。
虎は空中を歩くように旋回して、ゆっくりオレの所まで登ってくる。
顔は常にオレの方に向け、身体だけを動かして攻撃態勢に移行していく。
周りの大気もそれに呼応するようにビリビリと振動している。
風に飛び交う枯葉や小枝などは虎に近づくだけで、朽ちて粉々になっていく。
まさにあの魔物の力を、瘴気を物語っているかのようだった。
オレはお面を巾着にしまい、素顔のさらけ出す。
油断はしない。
魔力の探知が利きにくい今、視界を少しでも広くとれるようにしておきたかったからだ。
今の姿を見るに前後左右だけでなく、上下からも襲ってこれるのは間違いない。
空中戦は不利か……。
ラウと様々な訓練はしていたが、さすがに空中で戦う訓練などしていない。
しかし、相手はそうではないだろう。
頭の中で戦闘プランを練っていると、咆哮一閃。
まだ距離があるにも関わらず、虎は巨大な口を開けて衝撃波を放ってきた。
大気にソニックブームが幾重にも見える程の凄まじい衝撃波。
その部分の景色だけ大気の歪みがハッキリ見える程。
範囲が広すぎて――躱せない!
二重、三重と風の塊が身体を叩きつける。
後からゴオオォォ!!と音だけが届くほどの衝撃波の速さ。
なんて速さだ!音速を超える程かよ!
思わず片手で顔を覆う。
しかし……
その攻撃はオレの身体を傷付けるには……弱すぎた。
もし虎が生きていて、万全であったならば違った結果になったのかもしれない。
しかし現実には、虎はゾンビ化していてその能力を十分に発揮しきれていなかった。
残念ながら、それではオレにとってそれはそよ風と変わらない。
まだ半身だけのラウの黄龍の咆哮の方がよほど強烈だった。
何事もなかったように空中で立ち尽くすオレを見て、それでも虎は攻撃の手をゆるめない。
むしろより強く攻撃を仕掛けようと、瘴気を身体からまき散らしてくる。
一足飛びにオレとの距離を縮めるようと、自身のその爪を持ってオレを切り裂きに来る。
その爪にも風の力を纏わせているのか、オレの目には虎の爪の周りの大気が歪んで見えた。
スピードを加速し、魔力を乗せた爪の一撃は風の力を存分に込め、オレの肩を斜めから切り裂く様に振り落とされる。
ジャギイイイィィィーーーー!!!
硬い金属で金属を擦るような、何とも言えない不愉快な音が辺りに鳴り響く。
オレの身体と虎の大爪。
それがぶつかった結果は、音だけに留まらず空間にヒビを走らせる。
後ろの枯れた大木はその衝撃波で粉々に打ち砕かれ、毒の水面は真っ二つに吹き飛ぶ。
遠く離れているにも関わらず、地面には五爪の傷跡がハッキリ残されていた。
その光景が今の一撃の凄まじさを物語る。
しかし……
それでも虎の爪はオレの身体に傷を付ける事はおろか、その場から吹き飛ばす事さえ出来なかった。
「……ごめんな……傷付いてやれないんだ……」
肩にかかった虎の爪に、そっと抱き寄せるように額を付ける。
目を閉じ、一つ深呼吸をする頃には、虎の爪からゆっくり力が抜けていくのが感じられた。
そのまま……
虎の胸に抜き手を突き刺す。
グチャリという音と共に、手が虎の体内に突き刺さっていく。もはや肉体というよりは重い液体に手を突き刺すような感覚に似ていた。
それはビチャっとも、グチャっとも取れる音を立て、腐った体液をまき散らし、オレの顔の半分に跳ね返って……オレを黒く染めた。
それでもオレの手はまだ目的のモノに届かず、そのまま腐った身体に半身を埋めるように、深く……深く……潜り込ませていく。
その頃には虎は身体をオレに預けて、よしかかる様に大人しくなっていた。
指先にコツンと硬いモノがぶつかる感触があると、そのままそれを掴み取り、勢いよくそれを引き抜く。
それはバスケットボールほどの大きさもある魔石。
硬くゴツゴツとした虎の心臓。
明らかに先ほどの二頭よりも大きなモノだった。
それは、二頭よりも更に黒く、暗い光りを放ち、禍々しいオーラを漂わせながら薄く輝いている。
その禍々しいオーラに呼応するかのように、空は荒れ、ゴロゴロと雷を放ち、ポツリ、ポツリと雨を降らせ始める。
魔石を取り出された虎はその雨に身体を削り取られるように……
少しずつ……
少しずつ……
崩れ……
……やがて大気に溶けていった。
「……に……だい……め…………さ……」
崩れ、消える瞬間、虎は大粒の涙を零し、何かを呟いて消えていった。
それは雨音に紛れオレには聞き取る事が出来なかったが、その顔は穏やかだったようにオレには見て取れた。
その姿が空中から消え去ると、そこにはもう虎の痕跡は何も残ってはいなかった。
ただ右手に残った大きな魔石が、黒い汚れた涙を流しているようにその血肉を雨で流されているだけだった。
形容しがたい痛み。それが胸の中で渦巻いている。
今すぐにでも叫び出したい。
大声で叫んで、全てを壊してしまいたい。
魔石を取る為に虎に潜り込ませた身体の半身はまだ汚れたままだ。
それが痛くて、辛くて、苦しくて……。
雨はどんどん強くなっていく。
風も吹き荒れ、身体の汚れを、僅かにだが吹き飛ばしてくれる。
それでも、心の痛みは消える事がない。
顔を洗い流す液体が、雨なのか涙なのかも、もうよくわからない。
「うわぁぁーーーぁぁああぁぁぁーーーーーー!!!!!」
心から憎しみを吐き出すように、自分の存在さえも吹き飛ばしてしまいたいくらいの大きな叫び。
――なんで!!なんでこんな事になってんだ!!
空中で魔石を抱え込むように、そのまま身体をうずくまらせる。
もはや叫んでいるのか、何をしているのかさえ分からない。
オレはただ心も身体もちぎれるような痛みしか感じなくなっていた。
その場で思いに任せたまま、永遠に叫んでいたかった。
それでもそれは……許されない。
「……助けに……行かないと……アステア……」
顔にはまだ虎の血なのか肉片なのかがベットリとこびりついている。
気持ちも叫んだ事で少しは晴れた。
痛みも……治まっているように感じる。
「……仇……必ず取ってやるからな……」
そう呟く事しか出来なかった。
それしか言葉が出て来なかった。
降り注ぐ雨の中を、フラフラとしたおぼつかない足取りで歩を進める。
魔石をしまい、しまった手をふいに眺める。
血なのか何か分からないモノで酷く汚れた手。
オレにお似合いの手。
ただのんびりみんなと笑って暮らしたかっただけなのに。
どうしてこんなに汚れてるんだ。
「……は、はは……」
乾いた笑いしか出て来ない。
――誰だ?誰が悪いんだ?
オレか?オレが悪いのか?
違う!!オレじゃない!!
許せない!
アステアの事も!白い虎の事も!コイナさんやルナだって!クロムやラウも!
みんな大切な者を殺されている!
――オレが――しっかりしなきゃ……みんなを……守るんだ!
胸も痛みはまだ消えない。
この痛みは覚悟と誓約だ。
手の平から大切なモノが零れ落ちていくのはもうたくさんだ。
必ずみんなを――アステアを守るんだ。
拳を握りしめ、水面に浮かぶ小さな孤島に向かって飛び降りる。
同じならばあそこが出入り口のはず。
待っててくれ。アステア。今助けに行くからな!
孤島の中央には、やはり魔法陣が設置されていた。
今だにその効力を失っていないのか、近づくと淡い光りを発光させる。
オレは魔法陣では上手く飛べない。
けれど、魔法陣がなくとも感覚を研ぎ澄ませれば同じ事が出来るはず。
クロムの街で散々やったことだ。
何も問題ない。必ず出来る。
そう思い、そのまま魔法陣に飛び込む。
魔法陣は使わず、自力で出口を探すだけ。
――あった。間違いない。
そのまま光りの粒子に包まれて、光の中を泳ぐように移動する。
たどり着いた先、そこは中華風の王宮の玉座の間だった。
一見豪華に見えるが人が誰一人おらず、とても寂しく、うすら寒く感じた。その豪華さが逆にオレにはとても不自然に思われた。
柱や天井、その部屋のいたる所にノイズが入り、そのノイズの下からは真っ黒な空間が見え隠れしている。
「……お待ちしておりました」
突然かけられた声の方に視線をやるとそこには玉座が、そしてその後ろからチャイナドレスを着た美女が現れオレに向かって頭を下げていた。
その衣装はラウのような一般的なチャイナ服ではなく、ひらひらとした宮廷衣装。白い生地に淡いグリーンの唐装漢服。
そして……耳にはセシリーのような獣の耳が付いていた。
「……お前も……死んでいるのか……?」
「そうとって頂いて構いません。あなたが先ほど滅ぼされたのは、二代目様の眷族であるこの聖域の守護者『白虎』のハク様。私はそのハク様の眷族で、名をシェンメイと申します。あなたが探されているのは……この子でしょう?」
シェンメイは頭をあげ、手をかざすとオレの目の前に白い大きなカラスが空間を歪めて現れた。
カラスの身体は傷だらけで、あちこちが赤く血で滲んでいる。羽は片方がなくなっており、気絶しているのか死んでいるのか、ピクリとも動かない。
「もう私にはこの子を治療する能力は残っていません。ですので、結界の中で眠らせている事しかしておりません。急いで治療を……」
「……オレには治療出来ない。お前には……シェンメイには悪いが急いで連れ帰らせてもらう」
「それがよろしいかと……。ハク様が消滅された今、ここも長く持たないでしょう。あちこちに空間の歪みが出てきております。お急ぎください」
「……お前も……一緒に来ないか……?」
どこか他人事のように話すシェンメイに、オレについてこいと促すがシェンメイは首を横に振るだけだった。
「……私はもうこの結界の一部です。この身体も残った思念がそう見せているだけ……。私はここにあって、ここにいないのです。私は……ここを離れられません……」
穏やかに、そして寂しそうにシェンメイが微笑んで見せた。
「……そうか……」
下唇を噛み締める。口の中に血の味が広がるが、それより心の痛みで顔が歪む。
コイツも……もう救えないのか……。
「……ありがとうございます……。そのお心遣いだけで十分です。それにあなたはまた二代目様の匂いを……存在を……感じさせてくださいました。ハク様もあなたの中に二代目様を感じられたのでしょう。ハク様に代わり私から感謝を」
……オレの身体に付いたラウの匂いを……。
辺りのノイズがどんどん酷くなっていく。
もうオレとシェンメイの間はノイズに隠れて、近づく事も出来ないだろう。
「最後に……二代目様にお詫びを……結界を守り切る事ができず申し訳ありませんでしたとお伝えください。ハク様も……死ぬ間際まで二代目様をお慕いしていたと……もう一度お会いしたかったと申しておりました」
「……必ず……必ず伝える」
シェンメイが微かに笑い、オレに深々と頭を下げた。
……。
気付いたらオレはノイズの海に突っ込んで、シェンメイに向かって駆け出していた。
身体がノイズに触れる度にその部位が消滅していくような感覚がする。
血も流れていないし、傷も付いていない。それでも、確実に身体が削られていくのが分かった。
シェンメイは驚き、目を見開いて駆けてくるオレを凝視している。
ノイズがひどく、どうしてもあと一歩がシェンメイに届かない。
必死に手を伸ばし、掴もうとするが指先だけが微かに触れるだけだった。
「オレの手を取れ!!シェンメイ!一緒にここから出るんだ!」
「ふふ。あなたは二代目様そっくりですね。無鉄砲で、後先を考えない。そして……優しい……」
シェンメイがオレの手をそっと両手で握り、掴み返してくれる。
しかし、その手は残像のようにオレの手をすり抜けるだけだった。
「……ありがとう。でも、もういいのです。私の身体はもう消えてしまっているのだから……。これをあなたに……。私からの感謝の印です。最後にあなたに会えて本当によかった……」
コツリと手に冷たく硬い感触がした。
その間もノイズがオレの身体をむしばんでいる。
伸ばした手も、少しずつ……少しずつ離れていく。
シェンメイの身体が光りの粒子に変わっていくが、それさえもノイズに邪魔されて上手く見えない。
「さあ、早く行って下さい。道は……私が作ります!」
もうノイズがひどくてシェンメイの姿はどこにも見えない。
声だけがノイズの向こうから響いている。
オレは手の中にある何かを握りしめ、歯を食いしばってアステアのいた場所に振り返る。
ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!
オレは……無力だ!!
振り返り目の前を見ると、そこにはノイズの海がキレイに分かれ、アステアの下まで一本の光る道が出来ていた。
「……ありがとう……。シェンメイ」
アステアに駆け寄り、急ぎ抱きかかえ空間を飛び出す。
後ろを振り返らず、ただ前をだけを見て駆けていく。
出口はもうすぐそこ。
空間を飛び出した瞬間、後ろの景色がノイズの海に飲み込まれていってしまう。
ようやく振り返り、そのノイズの海を見つめると、その中には光りに包まれたシェンメイが笑顔が浮かんでいるような気がした。
オレの手の中には七色に輝く、小さな魔石だけが残されていた。
地上に出るとそこは毒の沼地の孤島には違いなかったが、厚い雲はその姿を消し、太陽の光りが降り注ぎ、向こうには虹が空に橋をかけていた。
きっとこの毒もその内に浄化されるに違いない。
いや、必ずオレがして見せる。何年かかったとしても、必ず……。
急ぎオウミに戻ろうとするが、アステアの様子がおかしい。
身体が冷たくなり、傷口が紫色に染まっていく。
感じられる呼吸も弱々しく、魔力も尽き欠けている。
このままじゃ……オウミまで持たない……。
晴れたとはいえここはまだ毒の充満した世界。むしろよくここまで生きていたくらいだ。
ラウに貰った回復薬を急ぎ巾着から取り出してアステアに振りかけるが、回復するそばから毒がアステアを侵食していく。
――かけるだけじゃダメだ!
回復薬のビンを口に差し込むが、飲み込めないのかそのまま吐き出してしまう。
そもそも回復薬の効力より毒の力の方が強い。
――このままでは死んでしまう――オレはまた……誰も救えないのか……。
絶対に死なせない!!
『爪』を呼び出すとそのまま手首を掻っ切る。
いつかラウが言っていた。ドラゴンの血はエリクサーの材料になると。
ルナの傷も加護を与えた時に治っていた。
なら……
滴り落ちる左手の血液をそのままアステアの身体にボトボトと振りかける。
予想通りアステアの傷は塞がっていく。
しかし、それでもなお毒がアステアを侵食していく。
傷が治る先から毒がアステアを蝕んでいるんだ。
アステア自身が毒に抵抗出来る力が足りないからだろう。
振りかけるだけじゃダメだ!
…………時間がない。
「血の誓約を受けとってくれるか?」
アステアの頭が微かに頷いたような気がした。
「キミには奪われた自由の象徴を――その翼の代わりを与える……オレの罪の一つと共に……」
何故こんなセリフを口走っているのかも分からない。
頭の中はアステアの命を救う事だけでいっぱいだった。
光る血がアステアの身体に降り注ぐが、その光はアステアの身体に入り込む事はなかった。
『やはり生命力が弱いと馴染まないのか……』
分からない。誰だ。何を言ってるんだ。
『この子はもうダメだ。助からない。諦めろ』
「うるさい!!少し黙ってろ!!」
まだ方法はあるはずだ!
手首の血を口に含むとそのままアステアのクチバシに唇を合わせる。
直接飲ませりゃいいんだろ!
そのままアステアを抱きかかえたまま、人工呼吸の要領で何度も、何度も光る血液をアステアに無理やり飲ませる。
『無茶苦茶だな……お前は……』
「うるせえって言ってんだろ!てめぇーぶっ殺すぞ!!」
『…………』
誰ともなく一人で叫ぶオレを無視するかのように、アステアの身体を光りが包み、やがて毒の侵食が収まっていった。
容態も落ち着き、寝息?を立てるアステアに安心したのか、オレはそのままアステアを抱きしめるように一緒に倒れこんでしまった。
どこか遠くでセシリーとルナの声が聞こえたような気がしたが、血を流し過ぎたオレにはそのまま気を失うより為すすべがなかった。
あぁ~。こりゃまたラウにイヤミでも言われるんだろうな……。
それが今回のオレの最後の記憶だった。




