王子が進む茨の道
「すまないがアリシア嬢、私との婚約を破棄して頂きたい」
王子が突然婚約破棄を求めたのは、彼の成人祝いをする宴でのことだった。
高価なワインが満座に行き渡り、さあ乾杯するぞという直前に立ち上がってそう宣言されたのだから場は騒然となる。
「……どうしてでしょうか? 私に何か至らぬ点でも?」
ぎゅっとドレスを握り締めたアリシアのかすれ声に王子はその整った白皙を一瞬辛そうに歪めた。
「すまない……アリシア嬢には何も不手際などない。私は婚約を命じられた時は、確かにあなたのことを運命の女性だと思っていた。そして共に王国を隆盛に導こうと。だが、もう自分に嘘は付けない。私は真に愛する者と出会ってしまった。
もちろんこちらに全ての責任があるゆえ婚約破棄に関する賠償は行うし、今後の縁を妨げることにならぬようアリシア嬢とは手を握る以上の関係がなかったことはここで皆と神に誓っておく。
婚約を破棄する理由はただのわがままで、私がどうしようもない愚か者だったというだけだ」
そう言って王子はいつの間にか彼の傍らにひっそりと佇んでいた恋人を力一杯抱き寄せる。
これまでが忍ぶ恋だったせいで我慢が効かなくなったようだ。
一部の女性達からその大胆な行為に黄色い歓声が上がる。おそらく王子とは何の接点も持てない気楽な低級貴族がスキャンダルをまるで観劇しているように騒いでいるのだ。
そんな無責任な観客を汚物か腐った物のように忌々しげに睨むと、改めてアリシアは未だ婚約者のはずの王子に目をやる。
彼のたくましい胸には、貴族の令嬢らしく豊満なアリシアよりも一回りは小さい牝鹿のようにほっそりとして新恋人が収まっていた。
手は水仕事で荒れ、髪は仕事の邪魔にならないようばっさりと短くしている。
アリシアのレースや絹をふんだんに使った豪華なドレスに対し、新恋人は清潔で動きやすいだけの平服。
爵位の高いアリシアの血統に比べ新恋人はおそらく貴族でさえない。
アリシアを華やかな羽を広げる孔雀とすれば相手は渓流の若鮎といった印象だ。
何もかもが対極にいる存在だった。
貴族的思考で結婚相手として採点すればアリシアは満点でもう片方はゼロ。問題外だ。
何より国法で王家の血が流れている両親から生まれた男子にしか王位継承権は認められていない。
王子と四代前に王妹が降嫁した伯爵家令嬢のアリシアが結婚し、男子が産まれれば王子となって王家を継いでいける。
王子と新恋人ではどうやってもそんなことは不可能である。
しかし二人が離れがたいと抱き合うその姿を一目見ただけで、アリシアはもう自分の婚姻は成立しないと悟った。
第一ここまで馬鹿にされては彼女自身が我慢できない。
たとえ身分の差などの色々な問題を前面に押し出して無理強いの結婚できたとしても、仮面夫婦がせいぜいで愛の結晶など夢のまた夢である。
万が一王子との子供ができてもアリシアの不貞が疑われてしまう。
もともとが熱烈な恋愛で婚約した訳でなく政略の一環でしかなかった。
それが叶わなくなったのならば、後はどれだけ伯爵家として利益を得られるかだ。
王妃にふさわしいように教育されたアリシアは修羅場でもタフで冷静だった。素早くこの場での最適解を弾き出す。
「私としては胸が張り裂けるほど悲しいですが、殿下がお決めになられたのならば否は唱えられません」
しおらしさを装ったアリシアの見事な処世術に居並ぶ宮廷人がため息を吐く。
自分が多大な精神的ダメージを負ったことを表明し、責任は全て王子にあると確認した上で婚約破棄を認めることで恩を売ったのだ。
アリシアが負う傷は最小限にしながらも、今後の交渉で慰謝料や譲歩を迫れるだけの言質はしっかりと取っている。
それをまだ年端の行かない少女が、公の場で婚約破棄されるというショッキングな出来事のすぐ後で行ったのだ。
これは恋に狂った王子と格が違いすぎる。
ここに至って事態の進行に呆然としていた王夫妻がようやく事態を把握した。
国のトップに立つものとしては理解が遅かったかもしれないが、当事者が自分達の息子だけに衝撃が大きかったのだろう。
今もまだ王子と紹介もされていない新恋人の抱き合う姿を信じがたいという目で見ている。
なんとか立ち直った王妃が情けなさそうに頭を振った。
こういったことは女性の方が割り切りが速い。
「婚約を破棄するような重要なことを我々に相談もせず、公の場でいきなり先走って恥をさらすとは……もうあなたを私の息子と認めることはできません。当然ながらこれから先は王族だと名乗ることも二度と王籍に戻ることも許しませんよ。これであなたの血筋は絶えたと諦めます」
王はこれまでの王子の女性経験を思い出してため息をついた。
彼は王妃と違い、自分の息子が王家にふさわしからぬように育ったのをある程度知っていたのだ。しかし、ここまでとは予想外だ。
半ば諦め顔で王子に確認する。
「良いのか? お前が王位継承権を捨ててまで進むのは、茨の道だぞ」
「たとえ今は茨の道であってもいつかそれを薔薇の道に変えたと言われるよう努力します」
「よかろう……ならば王家からお前は除籍して王位継承第一位は弟に変更じゃ。アリシア嬢への謝罪や賠償ぐらいは餞別としてワシが後始末してやろう。さあ、もうどこへでも行け馬鹿者が」
「は。それでは失礼します」
そう言って完璧な礼をする王子。
彼は生暖かい目で見送られながら、新しい恋人である美少年と大広間から退出していった。