9 ナナと梯子の明日
ルナが案内した先には小さな家があった。瓦礫となってしまった家より、少し森の奥にある。
外観も、入口から入ってすぐの部屋も、前の家とほぼ同じで、ハルは妙な心地になる。
まるで、あの家が壊れることが判っていたようだ、と思う。
「にゃあ」
黒猫が入口の正面の壁にあるドアの所に立ち、振り返って急かすように鳴いた。
(はいはい)
入口を閉めて、梯子がどこかにぶつからないように注意しながら体の向きを変え、黒猫に従う。
指示された戸を開けると、そこは小さな部屋で、奥の壁の窓際にベッドが置いてあった。小走りでベッドの傍まで行き「にゃあ」と言われるまでもなく、そこに寝かせろ、と言いたいのは見てすぐ理解できた。
シーツをめくり、ナナを一旦ベッドへ下す。梯子ももちろん一緒にベッドに寝かせる。そして両足から革靴を脱がせると、シーツをかけなおした。
ナナが汗をかいたままなのが気になったが、少女と言っても勝手に服を脱がせるのは躊躇われた。
「これでいいか?」
見張るように見上げている黒猫に確認すると、良いと言うように瞬きをした。そして、帰れと言うように「にゃあ」と鳴いた。ハルは苦笑した。
「人使いの荒い使い魔だ」
呟いて、少し考えて懐からハンカチを出すと、ナナの額と首あたりにある汗を拭いた。何をしたのか、おそらく全身に汗をかいているだろうと思われるが、せめて見えている範囲だけでも、だ。
そしてふと気づく。目を閉じて眠っているその顔に。
(ユーリアに、似ている…?)
そう言えば、目を閉じている時の顔を見たのは初めてだ。いつも、印象的な大きな青い瞳があって。そこまで考えたところで何かが頭をかすめた。
「にゃ」
鋭く鳴いたルナの声に思考が遮られた。
「あー、はいはい」
かすめた「何か」は、多分、深追いしてはいけないものだ。そうハルは判断した。
「今出るよ」
ちらりと振り返り、安らかに眠っていることだけを確認して、部屋を出る。
何があったかは、目が覚めたら聞くことにして、睨みつける黒猫にひらひらと手を振って、家を後にした。
目が覚めた時、ナナは何故自分がユーリアの部屋に、梯子と一緒に寝ているのか判らなかった。
だがすぐに何かが違うことに気付く。全体的に新しい。窓、クローゼット、入口の位置は同じだが、木の色が違う。そして、シーツの色も、カーテンの色も違う。
(…寒い)
ふと思って、汗をかいたままだったことに気付く。
(ああ、そうだった)
そこでようやく、思い出した。家が爆破されたこと、騎士と闘ったこと。魔法が発動したこと。ハルが来たこと。
では、ここはどこなのだろう、と思いながら体を起こす。
「ナナ」
ルナの声がした。扉の向こうだと気づいて床に足を下すと、ブーツを履いていない。自分で脱いだ記憶もなければ、この部屋に来た記憶もない。ナナは混乱しながら立ち上がり、ふらつきながら、戸を開けた。
「大丈夫ですか?」
手前に開く扉の向こうに、ちょこんと座って黒猫が見上げていた。
「何が大丈夫なのかが判らないってところかな。ごめん、ルナ、記憶があやふやなんだ。教えて。……ここは、どこ?」
(そういえば、魔力が流れ出ていたのが止まっている…)
自分の中を探って、ナナはそのことに気付いた。いや、完全に止まってはいない。ごく微量の魔力が流れ出ている。感覚を拡げて、魔力の行方を調べると、脳裡にどこかの土地を上空から見た景色が浮かび、その中心部分の町の外側を半透明の何かが覆っているのが見えた。目を凝らすと、その町に近づいていき、そこが、ナナの暮らす地域だと判った。
(目くらましの術)
ユーリアの術は正しく発動しているらしい。そう判ったところで、意識を元に戻す。
「まずは着替えを。その部屋のクローゼットに着替えが入っています。あのバカ王が心配していました。それから食事をしながら話しましょう」
ルナが心配そうな色を瞳ににじませて、そんなことを言う。
ということは、ここまで運んでくれたのは、ハルなのだろう。
「うん、判った。体も拭きたいからちょっと待ってて」
ナナは一旦部屋に戻り、クローゼットの扉を開けた。中にはナナ用のワンピースが何着かと冬用の上着類が入っていた。一着取り出して腕にかけ、扉を閉めると今度は引き出しを開けた。中には下着類と作業用の前掛け。もう一つ下の引き出しには、体を拭くための布や、替えのシーツや上掛けが入っていた。そこから下着と布を取り出し、ベッドの上に置く。
部屋から出ると、台所に向かう。流しにはちゃんと井戸の汲み上げようの手漕ぎポンプも用意されていて、何度か動かすとちゃんと水が出てきた。水を入れるための小さな盥も、いつもの所にちゃんと置いてあり、ナナは迷うことなく水を汲む。それを一旦床に置き、今度はヤカンを取り出すと水を入れて、ストーブに載せた。槇もちゃんと用意されていたが、火種はなかったので、部屋に戻り梯子を取ってきて、火をつけた。
部屋に盥を持って戻ると戸を閉めて、カーテンも閉めた。それからまず盥の水で顔を洗い、布で拭いてから、その布を水に浸して固く絞る。着ていたワンピースを脱ぎ手早く体を拭いて、新しい物に着替え、ようやく人心地ついた。ぐるりと部屋を見回して、先程の台所の様子も思い出す。
(すべて、同じ場所)
ルナに説明されなくても、これがユーリアが用意した家だということがナナには判った。
ユーリアの部屋にナナの物が置いてあることが違うくらいで、すべて、同じ配置なのだ。ルナが爆発か火災が起きると、ユーリアの占いで判っていたことだと言っていたから、代わりの家を用意していたのだろう。
どこまで判っていたのだろう、とナナは思う。占いができるということは、多少なりとも先のことが判るということだ。ユーリアは、自分が死ぬことが怖くなかったのだろうか。不安を感じなかったのだろうか。もしそんなものを感じるくらいなら、占いなんて能力を持たない方が、ユーリアは幸せだったんじゃないだろうか。そんなことを思う。
盥に布を入れたまま台所の流しに置いて、丁度沸いてきたお湯で、体が温まるお茶を淹れる。――そんなものまで用意されていた。ふと思いついて戸棚を開けると、保存用の容器があり、蓋を開けるとクッキーが出てきた。容器の蓋にはユーリアの文字で「蓋を開けると、時を止める魔法が解けます」というメモ書きが張られていて、なんて用意周到なんだ、とも思う。ありがたくも思いながら容器とカップを持って移動する。
ナナはストーブ近くに椅子を動かしてそこに座った。クッキーは手を伸ばしてテーブルの上に、カップは両手で包むように持って一口すする。ちらりと、いつものルナの定位置である窓枠に視線を向けると、彼はじっとナナのことを見ていた。
「ルナも何か食べる?」
この分だと、ルナの食事もいつもの所に用意してありそうだ。
「いえ。ナナはそれでいいのですか?」
それで、というのはクッキーだけでいいのか、ということなのだろう。
「うん。今は何か作る気になれないから」
もしかしたら、探せばクッキーと同じように時を止める魔法をかけた容器にサンドイッチのようなものもあるのかもしれない。でも、まだ探す気にもなれない。
そうですか、と呟くように言うと、黒猫は近くまで寄ってきて、ナナと目の高さを合わせるようにテーブルに飛び上がった。
家のことと、ここに運んだのがハルだということは、ナナの想像の通りだった。
発動した魔法は、事前に聞いていたように、記憶の操作と目くらましの術で、それらの術はナナの魔力が使われるようになっていたらしい。最初ルナに聞いた時には、目くらましの術の維持のみと思っていたのだが、そうではなかったということだ。もともとナナの魔力量は多い。どうせナナ自身には上手に使えないのだから、ユーリアが引き出すことができれば使える、と考えたらしい。つまり、梯子に仕込まれた魔法は、記憶操作と目くらましの術と、ナナの魔力をその二つに使うための三つだった、ということだ。
このナナの魔力量があって初めて可能となる術でもあったらしい。ユーリアが事前に行わなかったのは、引き出すためにはそれなりの魔力が必要だったからだ。要するに、ユーリアにはそれだけの魔力は残っておらず、すべてをナナ自身が行わなければならず、ナナ自身が行うには、使い魔が必要だった。
そして、魔力をほとんど使えないナナは、初めて魔力が大量に出て行く感覚に酔ったような状態になり、また大量に魔力を失ったことにより意識を失ったのだという。それらは、魔力が出て行く量が減ったことと、睡眠をとったことで回復した。
「じゃあ、もう誰も襲ってこないの?」
「記憶操作がどれくらい上手く行っているかによるらしいです」
それが、『五分五分』という意味らしい。
記憶操作の触媒として使われたのが、ハルから渡されたユーリアが王妃時代に身に着けていた指輪だ。亡くなる前にわざわざハルに会いに行き、指輪にユーリアの記憶を複写し、ハルに返すことでハルの記憶を複写させた。意識的にも無意識にも二人の記憶に残っている人物と、二人についての記憶を持っている人物に作用し、ユーリアの記憶をあやふやにさせるのだ。記憶を完全に書きかえることはユーリアの力を持ってしても難しい。目の前の一人に直接かけるのならまだ可能だが、不特定多数の人間に対して行うのは不可能だ。なのでユーリアが考えたのは、王妃についての記憶を曖昧にすることで、王妃とユーリアが結びつかないようにする方法だった。そしてこれは、発動したその時だけでなく、魔法が作用した人物に会ったことで、感染するようにしてあった。たまたま魔法避けがかかっていたり、そういう場にいた人たちの記憶も操作するためだ。むしろ、その方法を取ったことで広範囲にわたらせることが可能になったらしい。
聞けば聞くほど「はー」とか「へー」とかいう言葉しか出てこない。
ちなみに、何故「秘密」の呪文だったかは、ルナにも判らないらしい。ただ、可能性として、占いでそのほうが成功率が高いと出たからではないか、と疲れたように言っていた。ナナは質問をしておきながら、秘密にしていた意味がなんとなく判るような気がしていた。怒りでもなんでもいい。感情の爆発が必要だったのではないかと、そんなふうに思われた。
「それにしても」
ナナの聞きたいことをほとんど説明し終えた頃、ルナはため息をついた。
「よく、あんな場で呪文を思いつきましたね。というか、呪文に辿りつきましたね…」
「……ああ…」
ナナは目を泳がせた。
「なんか、あんまりにもいろいろ腹がたって…」
「まあ、判ります」
あの場で出た言葉は、「お師匠の、お師匠の、バカ」だが、「お師匠」の数が一つか二つかは定かではない。もう二度と使うことのない呪文だろうからどちらでも良いことだが。
「でも、あれはあまりにも捻くれすぎです」
使い魔の立場としても、元主人をさすがに庇いきれないらしい。
(本当に、お師匠ったら…)
ふとナナは思いついた。
「ちょっと判ったかも…」
「何がですか?」
「呪文って、心の中で言っても発動するよね」
そう言うと、ルナも思いついたようだ。
『師匠のことをバカだなんて二度と言わせないわよ』
ユーリアが偉そうにふんぞりかえって笑いながら言っている姿が、二人の脳裏に浮かんだのだった。
「じゃあ、元気で」
ハルは出会った時と同じような旅装で一人で町を出て行った。
「はい、いろいろありがとうございました」
その背を見送りながら、ナナは何度目か判らない礼を言った。
姿は見えないが、おそらく護衛の人たちもどこかにいるのだろう。けれども彼は、ただのユーリアの昔の知り合いとして町に来て、そして帰っていった。それがとても好ましい、と思う。
「おばさまから、ナナに乗り換えるのかと思ってたんだけどなー」
並んで見送っていたミリアがそんなことを呟いた。ナナは思わず吹き出した。
「それは絶対に無いよ」
(お父さん、だからね)
ナナは心の中だけで付け加える。
結局ハルは、家を爆破された翌日に、新しい家にやってきた。
そこで、何が起こったのかをナナから報告し、ハルからも、捕まえた騎士について聞かされた。詳しいことは話せないがという前置き付きで、娘を王妃にしたいと思っている家の遠縁の者だったという説明だった。そして、今後も起きるかもしれないが、なるべく抑えるようにするから、ナナもこれからも気をつけて欲しいと付け加えた。当然ナナも、ユーリアの魔法が発動したことは伝えていない。王本人にどう作用する仕掛けになっているのかナナは知らないし、教えることがどう作用してくるかも判らないからだ。
そういった会話の中で、ナナは、ハルが自分を娘だと思っているように感じることはなかった。そして、ユーリアの代わりなりなんなり、そういった対象として見られたとも感じなかった。
そのどちらも望んでいなかったナナには、大変ありがたいことだったが、それらをハルが意図的に隠してたとしてもナナには察知できないことだから、真実はどうでもよかった。
ハルにとってナナは、『王の知り合いである自分の、恋人だったら嬉しいと思っている女の弟子』で、これからもユーリアの墓を守って行ってくれる『同志』なのだと感じられたので。
「え、だってナナとおばさま似てるのに」
「え、似てないよ!」
「似てるよ。目をつぶるとそっくり!」
ナナは少し焦った。気を失ったナナを運んだのはハルだ。その時に寝顔を見ているはずだ。
「や、そんな、自分が目をつぶってるところなんて見えないし」
焦っていることを知られたくなくて、慌てて言うと、ミリアはしみじみと頷いた。
「そーなんだよねー。私だってよく泊まりに行くから知ってるだけだし。まあ、目を開けてると、ナナは目が大きくて童顔になるから、気付く人は少ないと思うけど」
「自分では判らない話をされても…」
半分拗ねながら言うと、ミリアは明るく笑った。
「今度、寝てるところを絵に描いてあげるわ」
「……ありがとう」
ミリアの絵は、とても下手だ。アテにならないことに少しほっとしつつ、ナナはもう見えなくなっているハルの後ろ姿を探すように道の先を見つめた。
もし、ユーリアの子供だと気づいたとしても、自分の子供とは思っていないだろう。
特徴的な瞳の色であっても、珍しいものではないし、ハルは自分の年齢のことを知らないのだから。
そしてもう、きっと、彼はこの町には来ない。それは、ユーリアの術のせいなどではなく、おそらく彼自身の意志で。
だから、自分とルナの胸に収めるのだ。
「さ、帰ろう。早く帰って片付けないと」
気持ちを切り替えるように、明るく言う。爆破された家の残骸を片付けて、またそこに家を建てるのだ。せっかくユーリアが建ててくれた家は、町からは少し遠い。自分が通う分にはいいが、町から通ってくれる人には多少不便だから、相談所のようなものを建てるつもりだ。話が出来て、お茶とお菓子を出せる、そんな場所を。
「そうだね、私も時間がある時に手伝いに行くわよ」
「うん、ありがとう!」
未来を夢見て、ナナは歩き出した。
END